過去の訪問塔婆・ご提供画像(2002/08/中〜2002/11/14 )

過去の訪問塔婆履歴

2002/10/14 伊勢天華寺跡1
  同     2
発掘調査により塔(東)、金堂(西)とされる版築基壇が確認されている。
礎石、六角形せん仏、塑像が出土したという。
「日本の木造塔跡」によると当廃寺から運んだとされる心礎は津市浅見町鈴木氏邸にあると云う。
寺跡の現状は田畑もしくは山林で何も見るべきものはありません。
当寺は孝徳天皇が建立した瑠璃光院と云い、また孝謙天皇の発願した法華寺の一院と伝え、天平15年に天華寺と改号したと云う。永禄年間、織田信長の兵火で焼失。元和3年(1608)現地より北西の丘上に再興され、現在も法統を伝えています。 
伊勢一志廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同      礎石
薬師寺境内周辺が廃寺跡とされる。境内に塔心礎などの礎石が残る。
倒壊寸前の薬師寺(曹洞宗)本堂前に心礎は「植木鉢」の代用として放置されている。
心礎は半分弱が残存する。半分以下なので、心礎の大きさは正確には計測不可でまた舎利孔の有無は観察できませんが、径約130cm以上の円形の石に、径95cm以上深さ5cm位の彫り込みをし、更に内側に径78cm以上深さ3cm位の孔を穿孔した形式のようです。(現状は2段彫り込み孔を持つ)
一志氏の氏寺として伽藍が建立されたものと推定され、当初は東福寺(藤福寺)と称したと伝えられるようです。本尊として平安期の木造薬師如来立像(秘仏・重文)が伝えられる。
心礎横の放置礎石は柱座(径65cm)の造り出しを持っています。
大和當麻寺東西塔 再訪
東塔1  同  2  同  3  同  4  同  5  同  6  同  7  同  8  同  9

西塔1  同  2  同  3  同  4  同  5

大和石光寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
南門(内)脇に極めて精巧に加工された心礎が置かれている。
「日本の木造塔跡」によると、大きさは1.76m×1.42mで、三段式孔をもつ。
外周孔は径79cm深さ14cm、中周孔は径40cm深さ5cm、更に径32cm深さ6.2cmの舎利孔を持つ。舎利孔底部に椀形の小円孔が穿孔されていると云う。現状舎利孔の部分は茶褐色の水が溜まり良く観察は出来ません。
とにかく精巧な加工のされた美しい心礎です。その他のことは良く分からないようです。
河内重願寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
昭和41年完成の中型塔です。
木造無彩色の一部禅宗様を交えた本格的な塔婆で、古風な外観を残しています。
当寺(浄土宗)は豊臣秀吉の本願で文禄年間に創建され、元は大阪谷町8丁目(寺町)にあり、昭和37年現在地に移転と云う。なお現伽藍地は真言宗不動寺跡(明治6年廃寺)と云う。
多宝塔安置の聖観音立像は江戸期には大阪33所観音霊場の第17番札所として信仰を集めたとされる。
2002/10/13 大和長谷寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同      本堂
昭和29年建立。平成元年大修理。高さ21.38m。
小型塔ですが、戦後の塔としては優れた塔婆です。
すぐ傍らに明治9年焼失の三重塔跡が残っています。
新義真言宗豊山派大本山として度束重なる焼失にも係わらず、その都度再建され、現在も壮大な伽藍を有する。
天武天皇の時代川原寺道明上人が本長谷寺を建立し、それを創建とする。その時、三重塔が建立され法華説相図(国宝)が納められた。その後、神亀4年(727)徳道上人が観音堂を建立し、観音霊場として上下の信仰を集めることになる。本尊は長谷観音として有名で、御身2丈6尺7寸(8m)の巨大な仏像(現在のは天文7年<1528>の再刻)です。また戦国末期、根来山が攻略され消亡した後、専誉上人およびその門下は根来から高野山に入り、泉州に逃れ、秀長の要請で長谷寺に住した。この後、当寺は新義真言豊山派の本山として全国末寺を統制した。
大和長谷寺三重塔跡1
  同         2
  同         3
明治9年落雷で焼失。焼失塔は慶長年間豊臣秀頼の再興塔であったと云う。
伊賀夏見廃寺遠望
  同    復元絵
  同    配置図
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同    塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同  発掘時塔跡
  同   金堂跡1
  同       2
  同  発掘時金堂
  同    講堂跡
当寺は醍醐寺本薬師寺縁起(長和4年<1015>)「大来皇女、最初斎宮なり、神亀2年(725)・・・昌福寺を建立したまふ。夏見と字す。もと伊賀国名張郡に在り」と云う、「昌福寺」である可能性が指摘されているようです。寺域は南面する緩やかな傾斜地に位置する。発掘調査の結果、法起寺伽藍配置と判明。ただし講堂は中軸線左(金堂の南西)に位置する特異な配置を採る。
塔跡は川原石の乱石積基壇で、一辺11.25m、正面高さ1.3m、初重の一辺5.9m。心礎および礎石5個が現存していたようです。
心礎は約4/3強が(3個に割れて)残されています。計測すると約1.4m×1.0mの一隅が円形のほぼ台形の石で、中央に径29cm深さ10cmの孔を穿つ。なお発掘前の写真を見ると心礎は一隅が円形部分の3個に割れた一番大きな部分(心礎のほぼ3/1)のみ露呈していたようですが、残りの2個は何処からか発見されたのか、現状は約4/3強が復元されています。
金堂は同じく川原石の乱石積基壇で川原石の犬走り、正面階段(川原石)を付設する。礎石は19個(1個欠損)が原位置を保つ。身舎および庇とも桁行3間・梁間2間の特殊な構造を採る。(大和山田寺金堂と同様の配置)
講堂は同じく川原石の乱石積基壇で、東側に幅3.8m長さ4mの川原石敷参道が付設。礎石配置から桁行7間・梁間4間の建築で内陣に「コの字」形の須弥壇があったようです。
また基底部幅1.8mの築地塀および掘立式堂宇も発見された。
なお多数のセン仏が出土したことで有名。
跡地は美しく復元整備され、隣接して「展示館」を付設し、出土品の展示と実寸(平面)の推定金堂(柱配置)および正面中央の柱間のセン仏壁を復元展示しています。
伊賀開化寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
再訪
2002/10/21追加:初重はおおむね和様の手法で、斗栱は三手先、軒は二重繁垂木、中央間に蟇股を置く。ニ重は扇垂木を用い、中央間に間斗束をおく。三重の軒はニ段の雲型彫刻の板垂木を用い、斗栱も派手な雲型彫刻の板および竜彫刻の板で組み上げる形式を採る。初重の軸部が極端に高く、ニ三重の軸部は低く構成されている。
伊賀国分寺跡西塔跡1
  同         2
  同  推定東塔跡1
  同         2
  同     伽藍跡
  同     伽藍図
2002/10/21追加:東西220m、南北240mの土塁状遺構に囲まれる。中門・金堂・講堂(後方付属建物あり)が南北の直線状に並ぶ。また廻廊は中門から金堂に取り付くと確認されたようです。塔は伽藍南西隅にあるとされる。また東廻廊の東方に推定塔跡が確認されたようです。ただし礎石は全て抜き取られていて、何を根拠に塔跡とするのかは不明です。なお推定東塔跡の礎石らしき石が見えますが、これは新しいものの感じです。また推定塔跡の中央の窪(穴)の実態は不明です。

現在土壇跡を残す。礎石は近世上野城築城他に転用されたとされ、全部抜き取られているようです。
「X」氏の情報によると、国分寺跡の現状は、野原の中に土壇が認められ、金堂跡とか講堂跡とかは看板で表示されているようです。
塔跡の看板は中門の西南方と東北方(こちらは塔跡推定のようです)に2ヶ所あるようです。「X」氏は、「発掘調査の結果、時期の異なる創建塔と再建塔の遺跡ということを期待して」いるとの感想で、この点については、特に根拠があるわけではありませんが、同感です。

付録
伊賀萬福寺小宝塔
伊賀上野寺町の萬福寺で青銅製の小宝塔を見かける。(特に古いものでは無いようで、特別に取り上げるものではないようですが)高さは目測1.5m位の小さいものです。納骨塔の機能を持つようです。
大和薬師寺西塔 日没直前に西塔を撮影。
2002/10/12 伊勢縄生廃寺塔跡1
  同        2
  同        3
 同 倒壊屋根瓦
 同 唐三彩・舎利容器
  同   塔予想図
江戸時代から「金光寺跡」として知られ、戦前には土取の際に瓦片が多量に出土したと云う。
昭和61−62年の発掘調査を実施。塔基壇は東西10m、南北10.2mで、地面を削り出し、瓦積基壇であった。心礎(花崗岩)は1.5mの地下式で、中央に舎利孔があり、唐三彩椀をともなう舎利容器(重文)が発見された。容器は、約2cmの鉛ガラス製の卵形容器で、轆轤挽きの滑石製有蓋壺(外容器)内中央に直立した状態でおさめられ、その上から唐三彩椀が伏せて置かれていた。
また基壇北西部で幅6m長さ3mに渡る「倒壊屋根」が発見された。白鳳期のもののようです。
現地の現状は埋め戻しが行われ、現状保存されているようです。(心礎も見ることは出来ません)
なお現地南西約1.5kmに歴史博物館があり、ここには見事な縄生廃寺三重塔模型が展示されています。かなり大きなものでおそらく木造と思われますが、仕様を聞くのを忘れました。
(写真撮影はしましたが、個人的使用に限るとの条件付きですので公開は出来ません。)
未完
伊勢神戸観音寺五重塔1

  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
  同           7
  同           8
  同           9
  同          10
  同          11
この塔婆については「X」氏情報により、その存在を知りました。
寺町の一郭に心柱の代わりに鉄骨を組み上げ、相輪を上げ、初重の組物のみ出来上がった「建築中止」の塔婆があります。以下は現住職のお話です。
昭和30年ころ先代住職が五重塔として建築を始めたが、着手の後、間も無くなくなられた。先代住職の意思を継ぐことも出来ず、建築中断のままで現在に至る。相輪は先代住職が熱心に研究し、「桑名」で鋳させたものである。何とかしたいが、中々難しい。近年本堂立替・地蔵堂立替・境内整備などを行ったが・・。またこの塔の修理も行ったが・・。鉄骨製心柱をきって、相輪を降ろし、初重の屋根を本瓦葺にして単層の堂に相輪を建てる方法も検討はしたが・・・。塔建築場所は元本堂のあった場所で、塔周辺に散在するのは本堂礎石と基壇替わり?の切石です。元は真言宗で、現在は浄土宗(智恩院)である。江戸期には本多氏(神戸城主)の保護があったようです。
塔の基礎と代替心柱は粗末ですが、檜を使った本格的な木造建築です。軸部は和様ですが、組物は唐様の影響を受けているようです。初重と相輪で判断する限り、完成すれば、相当立派な塔婆であろうと思われます。高さは大和長谷寺五重塔のような小規模なもののようです。中断から50年近くになる年月ですが、住職のお話のように、保守は行われているようです。ただし中空に金物が屹立していますから、落雷が心配です。
伊勢子安観音寺三重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同 仁王門斗栱古材
1999年再興塔(寺伝によると創建時三重塔があり、焼失)。高さ16M、木造銅板葺き。三重は2間。
伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる
三重塔
 平面図 ほぼ完成した時(平成10年9月22日)瞬間最大風速50M超の台風に遭遇したが、被害は僅少であったと云う。
本尊は金剛界大日如来・文殊菩薩・普賢菩薩。
伊勢津観音寺五重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
2000年2月地鎮祭。2001年5月落慶。1430年足利義教が三重塔寄進、1498年の地震で水没。海住山寺五重塔をモデルとするようです。高さ21m。本瓦葺。本尊は大日如来、薬師如来など4尊。脱乾漆造
と云う。
伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる
五重塔 平面図
伊勢清光寺三重小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
本堂外陣右奥に安置(ガラスケース入り)。開放していない本堂は基本的に暗く、良く拝観は無理のようです。全般的に唐様の仕様で、江戸期関東風の過剰装飾の施された塔婆です。
以下住職のお話です。
細目は不詳ですが、大壇家の長谷川家が江戸で商をして、長谷川家から清光寺に寄進されたと伝える。時代は徳川将軍家の「葵」(両脇間)の紋があるので、江戸期のものであろう。
浄土宗智恩院が本寺のようです。塔頭九品院を有する。
2002/10/05 備前賞田廃寺
(別Windowsが開きます)
2002/9/29備前賞田廃寺の現地説明会がありました。
それに参加された「X」氏よりのご提供画像および情報です。
2002/09/19

2002/09/17

信濃エボ神様心礎
(東山道亘理駅心礎)
(別Windowsが開きます)
当心礎については
様より画像をご提供頂きました。

また「信濃国分寺資料館」様からも情報をご提供頂きました。

2002/09/18:「風景の哲学を夢見て」の管理人様から、新しく撮影された写真を頂きました。
感謝の意を表し、ここに掲載させていただきます。

2002/09/06 信濃新海神社三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
  同        12
  同        13
  同        14
  同       本殿
  同      東本殿
上宮寺 伽藍
 同 仁王門
竜岡城址1
 同   2
 同   3
★永正12年(1515)造営とされる。塔は東本殿(重文・室町)の背後にある。神仏分離で神宮寺は南西およそ400Mくらいの川原宿に移転させられたが、塔婆は宝庫という名目で原位置に残されたと云う。大きな木鼻を使用するなど、折衷様の傾向で構成されています。中備は束のない間斗束を用いる。珍しく1重のみが扇垂木で、上層は2重繁垂木を用いる。一辺3.77M、高さ19M弱。
当社は、興波岐命を主神に建御名方命、事代主命と三神を祀り、佐久の一の宮、佐久三庄三十六の総社であったという。現在も約20,300坪と社有林27町の広大な社叢の中に鎮座する。源頼朝の修理再興、武田信玄の戦勝祈願等が伝えられる。

★神宮寺は嘉祥2年(849)の創建とされる。あるいは口伝では上宮太子の創建とも云い、新海山上宮本願院神宮密寺と号したとも云う。新海神社の別当で、神社東にあったと云う。明治の神仏分離で移転を余儀なくされ、現在は新海山上宮寺と号し、真言宗大覚寺派寺院として現存する。全く外観は普通の寺院ですが、おそらく移転したためと思われますが、不自然な位置に仁王門・仁王像があり、幾多の困難を乗り切った様子が覗えます。なお梵鐘なども引き継いでいるようです。

★当地からおよそ1KM西に竜岡城址がある。幕末に完成した西洋式の五稜郭で内城の石垣・堀は復元され、良く保存されています。函館の五稜郭が著名ですが、この田舎で1万数千石の小大名がよくぞ構築したものと感銘を覚えます。

信濃神光寺跡
(別Windowsが開きます)
古くから松原大明神(諏訪神社)の上下宮が鎮座し、現在はリゾート地になった松原湖の南東の長湖に突き出した半島上に寺跡はある。現在も三重塔、本堂、諸堂の礎石、宝篋印塔・無縫塔・石仏等が残存しています。一部は民家(旅館?)になっているようですが、三重塔・本堂址は町史蹟として保護されているようです。
詳しい寺暦は不詳ですが、松原上下社の別当で、当初真言宗であったが天台宗に転宗したようで、本尊は薬師如来という。
文政12年(1829)松原村大火によって三重塔、本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂を焼失。
弘化2年(1845)三重塔再建の工作小屋から出火、塔婆再建用材や仮本地堂、本堂を類焼。ただちに再興勧進を開始。
嘉永2年(1849)三重塔上棟式。本堂は文久3年(1863)再建が始まるが、慶応元年(1865)暴風雨のため建築途中で倒壊。
明治元年神仏分離で住職は還俗。檀家総代は存続再建に努力するが、廃仏毀釈によって頓挫・廃絶した。三重塔は信濃貞祥寺に明治3年金112両2分で売り渡された。本尊、本地仏は他に移され現存するが、1部は湖中に投棄されたという。
なお松原上下社には別の神宮寺が存在し、江戸初期に廃寺となり、神光寺に併合されたとも云う。
信濃温泉寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
昭和53年建立。本堂裏に建つ。純和様の木造塔で大型塔に属するようです。この塔婆に「鉄塔」が安置されているとされる。「鉄塔」は諏訪大社のご神体として拝殿の奥にあったもので、明治の神仏分離で撤去放置され、一時は近くの天神山に1社を建立・祭祀する計画であったが、国学者の反対で実現せず、当寺に安置されたと云う。ただし「鉄塔」とはいうものの現在は「石製」のようです。当初は弘法大師が建立し、幾多の興亡の後、現在のものは寛永8年(1632)、高嶋藩2代高嶋忠恒が「石」で再造したとされる。
臨江山と号する臨済宗妙心寺派。諏訪忠信の開基で、高嶋藩の菩提寺。
2002/09/05 信濃大法寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
北朝の正慶2年(1333)、天王寺の四良(郎)□らが建立(墨書銘)。中央の工匠の建立になるとされる。初重は2手先、ニ−三重は通常の3手先を用いる。これは大和興福寺三重塔と同一の手法で、そのため1層の平面が大きく安定を持つ容姿になっている。中備は中央間蟇股、両脇間は間斗束で、蟇股は彫刻を用いない。純和様。一辺3.65M、高さ18.36M。初重4.06坪、ニ重2.35坪、三重1.70坪。「見返りの塔」と呼ばれているようです。
詳しい寺暦は分からないようですが、創建は大宝元年(701)定慧によるとされ、大同元年(806)坂上田村麻呂によって中興されたと言う。天台宗。
別所温泉遠望
上田交通別所線
信濃安楽寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
建築年代には諸説があるようですが、鎌倉後期もしくは南北朝期に建立とされる。日本で唯一現存する木造八角塔。初重は裳階が付く。台輪木鼻を用い、粽をつけ、詰組の手法など基本的には唐様で構成される。高さ18,7M。本尊大日如来。相輪は太いものを挙げる。
別所温泉郷の山麓に位置する。三楽寺(常楽寺<現存>、長楽寺<現北向観音の境内地>)の一つとされる。寺伝では安和2年(969)平之惟茂によって建立され、鎌倉期に樵谷惟仙によって臨済宗に転じ、さらに桃山期に曹洞宗に転じたとされる。なお別所温泉には上田交通の電車がまだ健在です。
◆善光寺道名所圖會より:(別所):記事の要約
聖武天皇の代、行基菩薩が瑠璃殿を造立し、長楽・安楽・常楽の三楽寺を建立。
天長2年火山活動があったようです。天長3年円仁大師・明福が北面大悲閣を建立。長楽・安楽・常楽の三楽寺を再建して、台・密・禅三宗に表す。・・・二尊(薬師・観音)の火坑の上に宝塔を造営し、・・・一切経を宝塔に収納する。
清和天皇、諸堂を再興。「新たに観土院・蓮華院・明星院を造り、三楽寺の別院となし、九重・五重・八角四重の塔を経営・・・。平惟茂別に六十坊を建立し、七堂伽藍・三楽・四院六十坊となる。
木曾義仲平氏を討たんと放火し、灰燼に帰す。大悲閣、八角四重塔は残る。(ただし残るとするのは誤りのようです。)
別所細見惣図(右下隅は安楽寺)  別所細見図の内安楽寺部分図(安楽寺塔婆が見えます。)
木曾の軍勢、北向山を焼討ちにす
上記(北向山)の図  上記(北向山)の部分図(かっては三重塔?があったようです。)
◆崇福山護国院安楽寺(本尊釈迦如来。今は曹洞宗)祖師堂、八角四重塔(惟茂将軍の再建)・・
独鈷山
信濃前山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
永正11年(1514)の再建とされる。塔は建久年中に源頼朝によって創建されたと伝える。
いわゆる折衷様の塔婆で、木鼻拳鼻を用い、中備は束のない間斗束を三間とも使用する。新海神社塔婆と同一時期とされ、良く似た雰囲気の塔婆です。一辺3,2M、高さ19.5M。ニ〜三重には縁・高欄も窓・扉もなく、胴貫が剥き出しになっている。このため未完とされ、「未完の塔」と呼ばれる。初重の内部は心柱・四天柱はないとされる。
寺は独鈷山の山麓に位置し、寺伝では弘法大師の創建と伝え、元弘年中(1331-3)讃岐善通寺長秀上人が来錫し規模を拡大して開山したと言う。中世には塩田氏、武田氏の庇護を受ける。江戸期に智積院末となる。
信濃国分寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同      金堂
様式上室町中期のころの再建と推定される。外観はほぼ和様で統一される。内部は四天柱の台輪、内外陣の詰組など唐様を持つようです。一辺3.88M、高さ20.1M。中備には束のない間斗束を使用する。銅板葺。塔は善光寺張りの壮大な本堂(万延元年竣工)の東南にあり、旧伽藍と同一の配置を採る。
天平創建の国分寺は天慶元年(938)平将門の乱で焼失し、再建は、旧地の河岸段丘を捨て、旧地の北方、もう一段上の現河岸段丘上に、源頼朝によってなされた云う。その後中世もこの地の豪族の庇護を受け、また薬師信仰によってかなりの寺勢を存続させたようです。
★木曾名所圖會:巻之5:◆浄瑠璃山国分寺::記事
聖武帝勅願。「・・右大将頼朝卿・・再建・・その後慶長年間、上田乱に伽藍また灰燼となり、ただ薬師の像と三重の塔のみ残りて荒敗の地となりしなり。」
信濃国分寺塔の図
以下は塔婆部分の説明記事:「九輪以下かな物みな銕、屋根三層ともこけら葺き、角がな物朽どれて所々残れり 
この所、火矢を射かけし跡焦げて身ゆる。(三層部)
昔らんかんありし所。(二層部)
縁板まばらなり。(一層部)」
信濃国分寺跡塔土壇1
  同         2
  同     講堂跡
  同   伽藍配置図
現在は史蹟公園(遺構は埋め戻しによる基壇復元方式)として整備、また信濃国分寺資料館も付設され公開されています。跡は千曲川北岸の河岸段丘上にある。
現国分寺は、天慶元年(938)平将門の乱で焼失した後、源頼朝によって再建され、旧地の北方、もう一段上の河岸段丘上に、現在も三重塔などの伽藍を伝える。
発掘調査の結果、江戸期に現国分寺仁王門のあった場所に礎石および土壇が残り、これが講堂跡と確認された。
伽藍配置は南大門?、中門、金堂、講堂が直線に並び、回廊は中門から講堂に取り付く。
塔は回廊外、金堂東南位置に確認された。残念ながら講堂跡礎石を除き、礎石の残存はなく、心礎も栗石群の発見でその位置が推定されただけで、心礎そのものは不明のようです。
実見していませんが、東北隅にある国分神社の西の高麗社前の巨石(1.8M×1.26M)が塔跡あたりから搬入したとの伝承があるようです。しかし柱座あるいは心礎独特の加工などはなく、また当時の心礎とするには大きさも若干小さいようで無理なようです。
基壇は13.2M四方、中央間3.0M・両脇間2.4M?の規模と推定されているようです。
なお現国分寺境内に柱座を持つ礎石(割れている)が1個眼につきました。
国分尼寺についても西に隣接して建立されたようで、国分寺と同様に整備されています。
国分寺南東から西北西に遺跡を遮断して旧信越本線、旧丸子電鉄線(廃線・信越線増線)が横断しているのが現状です。
信濃貞祥寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
塔婆はかって長湖にあった神光寺の塔婆で、明治の廃仏毀釈で神光寺が廃寺となったため、明治3年貞祥寺に移築された。おそらく文化年間(1804-17)頃完成。一辺2.75M、高さ16M弱の小型塔です。中備は省略、中央間には通肘木間に密に斗を並べる。三重は二層の扇垂木。脇間の窓部分7面(1面欠)に花鳥彫刻を入れる。支輪には波型彫刻を嵌める。
大永元年(1521)前山城主伴野貞祥の開基とし、その後武田氏、松平氏、仙石氏の庇護を受ける。
杉の大木に囲まれた森に中に伽藍を展開し、総持寺の輪番を努める寺院のようです。現在も塔婆、仏殿・法堂、僧堂、庫裏、山門、東司、浴室などの禅宗伽藍をはじめその他多くの堂宇が残されています。また境内には島崎藤村が小諸義塾の教師をしていたころの旧宅が移築されています。
なお神光寺跡については「日本の塔跡」→「東国の塔跡」のページの神光寺跡を参照。
2002/09/04 信濃真楽寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
慶長18年焼失の後、寛延4年(1751)再興(露盤銘)。一辺12.5尺(3.78M)。
中備は中央は蟇股、両脇間は撥束。蟇股彫刻は蒲公英、龍、水芭蕉、麒麟という。かっては本尊大日如来が安置されていたとされる。
浅間山と号する。現在は真言宗智山派。浅間山麓に位置する。寺伝によると、奈良期、浅間山の噴火鎮圧を祈願(用明天皇)して、浅間山中腹(上寺場)に建立された云う。その後浅間山噴火のため焼失、下寺場に移るも、山津波のため流失、現在地に移るという。慶長18年全焼、宝永4年火災、寛保2年洪水、文化13年火災と災害が続くが、現在も鬱蒼たる杉木立の中に本堂、観音堂、仁王門、聖天堂、閻魔堂、鐘楼、本坊などの伽藍を有する。
なお浅間山(2568M)は現在も噴煙を上げ、雄大な山容のようですが、訪問時とその翌日とも天候不良のため眼にすることは出来ませんでした。
2002/08/中
「X」氏ご提供画像
肥前辛上廃寺心礎 「X}氏報告:塔心礎石が、廃寺の南方の辛上橋西の集落の祠?付近に現存。大正時代に移されたようで、その時に手水鉢用にほぞ穴が拡大されてしまったようです。
本来の穴の径は一尺八寸三分(55.5Cm)深さは四寸ほど(12Cm)の花崗岩製です。
発掘された寺跡は現在ビニールシートがかぶっており、様子は分かりませんが塔跡の土台があるようです。吉野ヶ里遺跡の一部として発掘が始まったようです・・。:

辛上の地名は「蕃神(からかみ)」に由来するとされ、出土瓦から奈良期創建とされるようです。
肥前国分寺塔跡 「x」氏報告:現国分寺(無住)と道路をはさんだ南側に金堂の土壇が現存し、さらにその東南約四十Mに高さ二Mの細長い土壇が残っており、これが塔跡土壇の一部であるようです。:
肥前国分寺の勢力は鎌倉時代にかなり広範囲に伸びていた(近隣寺社の文書)ようですが、近世には急速に衰微したようです。
肥前寺浦廃寺塔跡
  同    心礎
塔跡と念仏石と称する礎石1個を残存すると云う。晴気廃寺とも称する。
「X」氏報告:土壇の高さ約1M、東西約9M、南北約8M。
心礎石の大きさ1.8Mほど、穴の大きさは径48p、深さ21pほどの花崗岩。:

塔跡の東に多数の礎石が並んでいた(金堂跡と推定)と伝えられ、瓦出土状況、小字名から法隆寺式伽藍と考えられている。奈良期の創建とされるようです。
数次の発掘調査により、建替がある回廊とその内部南寄りに金堂、西側回廊と重複する位置に塔があり、回廊廃絶後に塔が建てられたと推定されています。
淀姫(輿止日女)神社心礎 輿止日女(淀姫)神社(河上神社):祭神は輿止日女命。肥前一ノ宮の地位にあった。また川上川流域には多くの淀姫神社が祀られているようです。
別当は河上山実相院と称し、西側に現存するようです。実相院(神通寺)は行基の開基と伝え、その後河上神社社僧円尋(天台僧・現在は御室派)が河上別所に移し、室町期以降実権を握ったとされる。戦国期には80坊と伝える。天明5年(1785)には実相院、観音院、円通寺、光明院、明王院、宝珠院、竹内坊、菩提院、大門坊が存在したようです。(河上御領絵図)この他にこの頃までに廃寺となった坊舎に理趣院、学頭坊などもあったようです。嘉永7年(1854)の火災で実相院、観音院、大講堂等がは焼失したが、仁王門などは焼失を免れたようです。
当社は中世には大きな勢力をもち、また多くの中世領主の保護を受けたようで、ごく一般的な神社の有り方として、塔婆・本地堂などが存在したのはごく自然なことであったようです。
「X」氏報告:塔心礎は社殿の左前方に現存する。神社の説明では、塔は神仏習合の名残であり、中世のものであろうとのこと。穴は二段であったが、雨水がたまりボウフラがわくので砂で埋めているとのこと。外側の穴の径はおおよそ50Cm弱。
心礎の詳細は不明ですが、古式な心礎なようで、神社側の認識である神仏習合が行われてしたとの説明は肯定できますが、中世のものなのかもっとふるい心礎なのかは判断できません。
肥前塔塚廃寺 大正14年「佐賀県史蹟名勝天然記念物梗概」には「大寺院の塔の跡ならむか同所は小高く森のごとき観相をなし中に五個の礎石あり、・・礎石の間東西18尺8寸南北14尺7寸礎石の最大なるもの直径3尺9寸あり」
昭和15年「佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告」には「東西11M、南北12M、高さ0.6Mの土壇上に、塔心礎と思われる自然石を囲み、4個の自然石があり、いずれも直径1M余、間隔は5−6M、付近に布目瓦が散乱していた」
しかしながら昭和17年(「X」氏情報:飛行場建設)この遺跡も1Mばかり削平され、消滅したようです。削平作業中、地下から2個の礎石、軒丸瓦などの出土を見たという。
鹿児島最福寺三重塔1
  同         2
ご覧のように、平面が大きすぎて、相当バランスを欠き、塔婆としての美しさはありません。
和57年完成。高さ15M。コンクリート製。組物などは省略されているようです。
鹿児島高善寺三重塔 ご覧のように、伝統とする仏堂あるいは塔婆建築ではないようです。
納骨堂としての構造のようです。昭和48年。
鹿児島高野寺三重塔1
  同         2
「X」氏報告:山川町の中心部から比較的近い高台の住宅地にある。寺院は真言宗のようですが、開創されたのは古くはないようです。
塔は鉄筋コンクリート製で、外観は木造の本格的なものを模している。屋根は銅板葺。

昭和56年建立。

過去の訪問塔婆履歴