たぬき



農道を車でのんびり走って30分くらいの所に勤め先があるということは、以前「ミックとカルガモ」でも少し紹介したが、夏の夕暮れ時になると、たまにたぬきの親子に出くわすことがある。もちろん野生のため、車の音とライトですぐに逃げてしまうのだが、何度か目を合わせた感じでは、とても愛嬌を感じさせる生き物であった。しかし世間では、かちかち山の性悪狸、人間をたぶらかす化け狸、どこの会社にもいる古狸など、たぬきと言えば碌でもないイメージが先行する。私の知っている範囲では、唯一森見登美彦の小説「有頂天家族」の化け狸だけが、京都を舞台に天狗や弁天と戯れつつ、難敵と戦うヒーロー的役どころを与えられている。ところで、私は会社帰りに出くわすたぬき以外に、もう「ひとり!?」のチャーミングなたぬきを知っている。

京都の百万遍から今出川を少し西に行ったところに、鞠小路という可愛らしい名前の通りがある。その鞠小路を少し南に下ったところに、1987年当時「たぬき」という飲み屋があった。学生時代に一度、バンド仲間のジュンに連れて行ってもらったことがあるのだが、なんと!その店は、かなりご高齢の女将がほぼ一人で切り盛りしていたのである。真っ赤な口紅を綺麗に塗り、「鞠小路」という響きがよく似合うとても上品な感じの女性であった。もしかすると、娘さんのような方が手伝っていた気もするが、記憶が定かでは無い。それほどに、その女将の印象は際立っていた。

メニューの品数もそれほど多くなく店も狭かったため、1時間ちょっとで店を出ようか、ということになった。第1のぽんぽこ波が私を襲ったのは、その直後である。「すみません、トイレはどこですか?」と女将に尋ねると,『あらま、お兄さんは一見さんやったんかいな?』と馬鹿にするような態度とは真逆の慎ましい微笑みを浮かべ、「あちら」と店の入り口(引き戸)を指したのである。

え?入り口にトイレなんかあったやろか?と不審に思ったのだが、女将はそそくさと奥に下がってしまった。一緒に飲んでいたジュンがくすくすと笑っている。ああ、入り口の外か?と思いつつ、とりあえず引き戸を開けて外に出てみた。と、そのときであった。向かいの壁に向かって仁王立ちしたおっさんが豪快に立ちションをしているではないか!轟音に併せて、みるみる地図が左右に拡大していく。いくら夕暮れ時とは言え、ここは鞠小路だぞぅ・・・げぇっ、ありゃ隣のテーブルで飲んでいたおっちゃんやんけ!おおぃ、ちゅーことはまさか!

慌てて振り返った私を、ジュンが足を上げて笑っている。不安が確信に変わりつつ奥の方に目をやると、明らかに慌てた素振りの女将が、視線を素早く反らしたのだ。いや、待てよ。いま確かに、真っ赤な口元が笑っていたぞ。おおぅ、ちゅーことは、やっぱ向かいの壁がトイレっちゅーことやんけ! あうぅ、そう言えばこの店は女性客がおらんへんで!いや、ちょっと待てよ。。。女将、あーたはいったどげんすっとね?!

にわか仕込みの関西弁では呂律も頭も回らなくなり、こりゃ早いとこ店を出てトイレを探さんといけんと、「すんません、勘定お願いします!」とややうわずった声で告げた。再びぽんぽこ波が私を襲ったのは、まさにそのときであった。女将が、メモ用紙と鉛筆を黙って机に置き、再びそそくさと奥に戻って行ったのだ。うり?なんも書いとらんばい?と、そっと膀胱に手を添えつつジュンの方を見やると、「この店の女将さん、計算でけへんからって、いつも客に自分で勘定書かせんねん」と、さすがに笑い飽きたのか、それとも私の膨らむ下腹部に恐れをなしたのか、今回は優しく説明を添えてくれた。しかし、紅で引き締まった口元に比べ、なんとアバウトな経営方針!

現在、縁あってたぬきブラザーズ出身のたぬきファイターズの皆様と親しくさせていただいている。その諸先輩方は、地方のプロレス団体の方々、ではなく、皆さん凄腕のミュージシャンである。凄まじいグルーブとは裏腹に、一旦ステージを降りると、とてもチャーミングなぽんぽこ感が漂う。京都で出くわした「たぬき」の女将さんも負けず劣らずのぽんぽこぶりであった。まさか、化け狸だったってことはないやね?