渡波小学校(大津波の避難所)の周辺

  石巻市渡波(わたのは)地区には3月11日の津波前には、およそ15000人が住んでいました。 
世帯数は 9.5%、 人口は 12.5% 共に減少した。
(大津波の後の12月1日現在、前年比 牡鹿新聞1月13日号)。

  私の住む町内の人口は(海にに近いせいか)252人から157人に大幅に(38%)減少した。
(石巻市の住民基本台帳による字丁別人口) (注: 字町別ではない、字丁別で正しい)

注意: このページの外部リンク先のビデオは、私が撮影したものではありません。 
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  これまで YouTube の津波関連のビデオをたくさん見た。
しかし、私の実感と合わない部分がある。

YouTubeには、津波当日 と 1か月以降 のビデオはたくさんあるが、
津波翌日(3月12日)から4−5日の間のビデオが ほとんどない。
この時期は道路上にガレキがあり車の通行ができなかった。 道路上を歩くことも
ままならない状態であった。 このため外部から人が来ることができず
ビデオが無いのだと思う。
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    YouTubeにあるのは街の中の道路がきれいになり
自動車が通行できるようになってからの映像であって、
津波翌日(3月12日)から4−5日の間の町の惨状を表していない。

つまり、この期間の様子はもっとひどかった。
このことを強調しておきたい。

そこで、この時期のイメージに近いビデオをとりあげてみた。

1. You Tube 「15日午後、渡波小から渡波中へ 」

写っているガソリンスタンドは見覚えがある。 石巻市の渡波(わたのは)地区にある渡波小学校と渡波中学校の
中間付近にある 「分かれ道」 付近で、そこから渡波中学校までです。
 

大津波翌日の町の中に関する私のイメージはこの画像のようなものです。
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元々国道398号線で舗装道路なのにヘドロに覆われているためコンクリートが見えない。
国道に限らず町内の道路も同様だった。 人が歩くことができる隙間が多くあるのは、
津波から4日経過しているからだと思う。 
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進行方向は太平洋の海岸線と並行です。
進行方向左側のおよそ300メートルには太平洋の海岸線があります。
進行方向右側の 浜松町 では 581人中 少なくても 20人 が亡くなった。
進行方向左側の 松原町 では 571人中 少なくても 74人(非公式な別の集計では82人)が 亡くなった。
進行方向左側の 長浜町 では 416人中 少なくても 46人 が亡くなった。 
進行方向左側の 大宮町 では 442人中 少なくても 42人 が亡くなった。
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(松原町は国道398号線を境にして太平洋海岸線に面する町内です。 
およそ、7−8人に1人が亡くなったことになる。 
松原町は1960年のチリ地震津波の後(およそ)3−4年後から海岸線沿いの松林を切り開いて作られた町内です。
長浜町は太平洋の海岸線に面し、万石浦側にある町内です。 その隣が松原町です。
大宮町は、松原町隣接の陸側でかつビデオの進行方向左側隣接の町内です。)
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非公式の集計を除き、「宮城県警の行方不明者の発表」と「石巻市行政区別人口調査表」により調べた。
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2. You Tube 「15日午後、渡波に到着。 国道398号を西側へ」  

(初めの1分間のみ) ビデオの渡波(わたのは)小学校の校庭は津波二日目と同じ状態であると思う。 
しかし、津波二日目の道路はビデオとは全然異なる。

大津波二日目、配布の朝食(チョコレートの付いたビスケット2枚)を食べて自宅を目指して歩き始めた。 
自宅まではおよそ 800メートル。 普通に歩けば8分ほどの距離である。
道路は瓦礫の山と流れてきた自動車、倒れた電信柱で歩くことができない。 
歩道も同様な状態なのだが、小学校脇の歩道の瓦礫の上を
逆さ釘で足を打ち抜かないように足元を見て注意しながら歩いた。 
二日目なので歩きにくい瓦礫の上には、歩きやすいように、板が敷いてあるところも何か所かあった。 
瓦礫がない道路面もあった。

自宅を囲む各道路は、瓦礫が5−6メートル程の高さまでダムのように積み重なり
道路をふさぎ、前へ進むことができない。 海岸から50−100メートルほどが冠水状態だったので
入り江の岸壁方向から家の方向へも進むことができない。
結局、この日、自宅へたどり着くことができなかった。 その翌日も自宅へたどり着くことはできなかった。

報道では、瓦礫処理は遅いと言われているが、道路の瓦礫処理は、町内の主要な道路から始まり、細道まで
道路の重要度に従い順番に速いスピードで進められた。 津波二日目以降一週間程の間、町の中が
一日一日、きれいに変化してゆくのがよくわかった。 この様子を見て人の力はすごいものだと感心した。

2. の YouTube ビデオは、大津波から四日後の 15日午後撮影なので、道路は大変きれいになっている。
しかし、そうは言っても道路に電信柱が横倒しになっている箇所もあるので、
車はスムーズに走ることができず通行止め。 自動車よりも自転車が大変便利だった時期である。
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大津波3日目か4日目だったと思うが、意外に思い、驚いたことがある。
早朝自宅に向かう途中、ジョギングウエアとシューズを身に着けてジョギングしている男の人と
ペットの犬の散歩をさせている女の人、二人に出会ったことである。

場所は、渡波小学校の前の道路から国道398号線左側に入る所、
まさに2.のビデオに写っている左側への曲がり角だった。

何千人も行方不明のまま、たくさんの家が全壊しているこの最中にジョギングや犬の散歩とは・・・。
几帳面な人もいるものだなあ・・・、と。

渡波(わたのは)地区は、町名のとおり全町内が大津波で浸水した状態である。 けれども、
大津波でも、今回はたまたま、少しだけ床下浸水やまったく浸水しなかった地域もあった。 
そのような家庭の人なのかもしれない。

町全体が大災害であっても、人の境遇は、人それぞれで、様々なのかもしれない、と思ったものである。


ガレキの残る町中でジョギングをする人に出会ったのは、この日、その時だけだった。 
この日以降は町中では見かけなかった。 男の人はそのとき場違いだと悟ったはずだ。

ペットを散歩させる人は毎日のように見かけた。 とくに夕方見かけた。
避難所の渡波小学校の三階には、ペットの犬を飼っている人が集められたと思われる教室があった。
教室の前を通ると、いつも1−2匹キャン、キャンと犬がないているのが聞こえた。  
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3月11日の大津波以来、翌日(3月12日)の午後から2か月半暮らした
渡波小学校の写真をWeb上に見つけた
のでリンクをして紹介します。
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(写真)瓦礫と流されてきた自動車が散乱した渡波小学校 
(写真の時期は不明)
(リンク先のページの上から2枚目の写真です)

校庭全体が3月12日にはこのような状態でした。 
この写真は瓦礫処理の過程で校庭の片側に瓦礫を寄せ集めたところだと思います。
だから、実際の津波直後の状態よりも、瓦礫の密度が高いが、まあこんな状態だった。 
渡波小学校は太平洋に面した海岸線からおよそ 650メートル、
入り江の海岸線から 600メートル ほどの位置にあります。

渡波小学校の津波の浸水高は、地上から およそ 150 センチメートルです。(校舎内一階廊下の痕跡線)
渡波小学校の津波の浸水高は、地上から およそ 173 センチメートルです。(校舎内一階廊下の痕跡線)
校舎内一階廊下の津波の痕跡線は、場所によって異なる。
渡波小学校の校舎一階各教室内の天井付近の壁はきれいで、津波の痕跡線は発見できなかった。

渡波小学校の校舎一階外壁に津波の痕跡線はたくさんあったがどれも不明りょうで
かつ高さが様々のため決定できなかった。

渡波小学校の津波の浸水高は、地上から 220 センチメートルです。
(体育館外壁1: 太平洋の海岸線に近い側(校庭の反対側)の津波痕跡線)

渡波小学校の津波の浸水高は、地上から 205 センチメートルです。
(体育館外壁2: 校庭側(太平洋の海岸線に体育館の長さ分だけ遠い側)の津波痕跡線)
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図1. 石巻市立渡波小学校体育館 (校庭の反対側)外壁の津波痕跡線 
                    (地面から 220 センチメートル)
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図2. 同じく、石巻市立渡波小学校体育館 (校庭の反対側)外壁の津波痕跡線 
(地面から 220 センチメートル)
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体育館外側の壁に残っていた津波の海水面の跡を、自作の物差しで計りました。
その後、購入した巻尺でも計った値です。

支援物資がトラックで運ばれて来た時に搬入作業の手伝いをした。 空き教室、
放送室、職員室に運び込み保管した。 そのたびに、津波の痕跡線を探した。
放送室は防音用に密閉度が高い。 そのせいか海水が入っていないようできれいだった。 
校長室に荷物を運び込むことはなかったので、校長室は見ていない。


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アメリカの海兵隊が校庭の瓦礫処理にあたった様子

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だいぶかたずいた状態の写真です。 瓦礫処理の後半の写真。


日本では見られないような、大きなトラックとばかでかいパワーシャベルが渡波小学校の校庭にやって来た。

海兵隊員のほとんどは、20歳前後の幼い顔立ちの若い人たちでした。
なぜか、アメリカ人にしては背が低く小柄の人が多かった。 指揮官はアメリカ人らしい普通の体格だった。
まったく、はしゃぐ様子や、おしゃべりをする様子もなく、また避難所住民に話しかける様子もなく、
黙々と瓦礫の処理、最後は手作業で小学校の周りの下水の泥出しを行った。
トイレは避難住民と共用で野外の仮設トイレを使った。

上官から指示をされていたのだと推測するが、
これほど静かなアメリカ人を見たのは初めてだった。

私は国旗掲揚ポール近くの二階で暮らしていた。
大津波最初期は、体育館と校舎2階と3階合わせて2000人がおりました。 
自宅半壊の人(家は残っているが、自宅では生活できない人)も避難所にいたので 
2000人 という人数になったと考えられる。) その後急速に減少して1200人前後となり、
2か月後には700人前後が避難所生活をおこないました。
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彼は温厚な人です。 渡波小学校の3階の住人です。

在宅避難者が炊き出しを食べに来て帰った後、彼は、そのごみをかたずけていました。

子供たちがボランティアの人とミニサッカーをした後の記念写真

私はこの時の様子を覚えている。 ボランティアの人が子供たちとミニサッカーをしてしばらく遊んであげた後、
それでは記念写真を撮りましょうということになった。
プレイルーム(子供用教室: 子供用の絵本、おもちゃなどがある)のボランティアの人も出てきた。 
近くの炊き出しのプレハブの周りにいた人たちにも写真撮影の声がかかり集まった。
その時撮影した記念写真。

私はすぐ近くで炊き出しをもらうために、長い列に並びながら
ミニサッカーと写真撮影をぼんやりと見ていただけ・・・。
食べることの方が大事だったから列を離れて写真撮影に入ることは考えなかった。

一番前にいる水色の男の子は、私と同じ教室にいた小学5年生。

最前列右端の緑色半そでの女の人は、時期をおいて何度も見かけた。
その後ろ、二列目の青い帽子の男の人も見かけた記憶がある。
最後列左から2番目のオレンジ色の帽子、まるいメガネの男の人もおぼえている。 
プレイルームや2階の理科室に子供たちと一緒のところ、校庭ですれちがった時、
子供が好きなんだなという雰囲気のある人だった。
けれども、私はこの中の誰ととも言葉を交わしていない。 それなのに、目に浮かび思い出す。

鹿児島出身の いなみ(井波あるいは稲見)さんは後列左から3番目。

中間の列左から3番目のおばあさんは、一緒に毎日炊き出しのお昼を食べた仲間。 
渡波小学校のすぐ近くに住んでいる。 2年後スーパーの休憩ベンチでご挨拶をしたが、
私のことは覚えていないようだった。 このおばあさんについてはエピソードがあるので
時間があるときに書いてみたい。
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炊き出しのための炊飯(渡波小学校一階) (写真の撮影時期は不明) 
ここは、生徒用の履物入れが並んでいた通用口である。
生徒用の通用口が避難所の調理場になっていた。

鹿児島県出身で海外青年協力隊OBのいなみ(井波あるいは稲見)さん(右端) 
私と同じ年の生まれだが、学年は1年異なる。
津波直後の3月半ばから活動を始めたと聞いた。 
いつも早朝(6時半、7時頃)から調理に関連した作業をしていた。 
初夏以降10月の渡波小学校避難所閉鎖まで
ボランティアとして献身的に活動しているのを有難く思いながら私は見ていた。
避難所閉鎖直前、彼の専門が 「調理」 ではなくて、「機械」 だと知って驚いた。
「機械」 専門の方が 毎日毎日 「調理」 をしていたとは・・・、と。
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草色の服の女の人(左端)は静岡県出身のボランティアの人で、6月頃から炊き出しでいつもお世話になった。
この草色の服の女の人は、私が渡波小学校を出て自宅で生活するようになってからしばらくしてから
活動を始めた新しいボランティアの人に見えた。
お昼の炊き出しを受け取る列に並んでいた時、私の前に近づいて来た時に声をかけた。 
「どちらの出身ですか?」 彼女はなぜそのようなことを尋ねるのかと答えに躊躇しているようであった。 
そして、「静岡」と。  浜松市、ウナギの養殖は、養鰻業(ようまんぎょう)と、おしえていただいた。 
お名前はうかがわなかった。
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黒い服の男の人(左端)は、避難所の人だと思う。 私の教室から手伝いに出かけた女の人によると、
男の人なのに手際のよい人がいる。 飲食業の人らしい、とのことだ。 私は、お話をしたことはない。
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写真の時期は不明: 炊飯道具などが全く見えないので避難所閉鎖直前(10月) かもしれない。
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渡波小学校1階の廊下 プレイルームから本部のある方向(たぶん)の写真 (写真の撮影時期は不明)

蛍光灯が点灯しているので、津波から一か月以上経過した時期のはず。
向かって右手前の教室がプレイルーム(子供用の本やおもちゃの部屋)、
奥に向かって、NTTの無料の電話設置の教室、
支援物資(主に古着、新しい下着、服)が置いてある教室、医療班の教室 などがつづく。 
写真左の水道蛇口の並びは、私が避難所にいた最初から最後まで水は出なかった。 
手前左の 倉庫 は、炊き出し用の 食糧等の物資の保管庫で、立ち入り禁止の札が下がっていた。

一番手前の後ろ姿の女の人は、いなみ さんと同じ前掛けをしているので、
たぶん、函館出身で、海外青年協力隊OGの ちだちえこ さんのはず。 調理が専門。 
津波直後の3月半ばから8月頃まで、彼女の作った炊き出しを食べた。 
元気な人、大きな声の人。 あまり大きな声で、明るくふるまうので、
初めは演技をしているのではないかと思うほどだった。 

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津波の翌日に避難所の渡波小学校に入った。 
そして4-5日目に校舎のコンクリートの亀裂を素人ながら探してみた。 
その頃は、朝、夕それぞれチョコの付いた500円玉ぐらいの大きさのビスケット2枚、
一日4枚で、ご飯はまだ食べていない時期だった。 
それでも避難所生活に慣れてきて気持ちに余裕が出てきた。 
それで校舎の周りを点検してみようという気分になった。

建物の上から下まで目を移しながらひとまわりしてみた。 

校舎の土台部分を含めコンクリートの外壁に亀裂は発見できなかった。 
校舎から突き出た教職員用の入り口の庇が壊れている程度であった。 安心した。 
強い余震があっても、再び津波が来ても渡波小学校の教室の中にいれば心配はない。 
小雨が降ったせいもあって、校舎のコンクリートの壁に津波の痕跡線を発見できず
残念な気持ちになったのを覚えている。 

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渡波小学校の災害復旧工事は、建物部分が 2億円、電気設備関係が 1億円の予算で実施された。
(下図の工事現場看板から読み取った金額を書いたものなので正確な総額は知りません。)

校舎は200 センチメートル浸水しただけなのにずいぶんとお金がかかるものです。
   

2014年3月に災害復旧工事が終わり、4月から授業が行われるようになった。

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2016年10月23日(日)に 平成28年 石巻市総合防災訓練 があり、校舎の中に入る機会があった。
写真を写したので紹介します。


   
ちだちえこ さんの後姿が写っていた 一階の廊下(リンク先のページの
上から3枚目の写真です) このようにきれいになりました。

私が暮らした2ヶ月半のあいだ写真左の水道から水は出なかった。
網袋に入ったひっからびた薬用石鹸が各蛇口にぶら下がっていただけ。
手前左のトイレは新設されたようだ。
避難所の調理場だった通用口は元にもどりました。
ここには調理台、大きなナベなどの調理用具、
ダンボール箱がたくさんあったので、
当時、ここが生徒用の通用口にはみえなかった。  




 
 
 通用口と体育館の間にある水飲み場: 
避難所生活1ヶ月半から2ヶ月目以降になって
やっと水道水が出るようになった。 
私がいた2ヶ月半の間に水道が出たのはここの蛇口だけ。
 
 私が暮らしていた二階の教室: 
二つの教室をぶち抜いてこのような職員室になっていました。
元々、職員室と校長室は一階の校門側にあったが、
改修後は、二階に移動した。 
右隣のパソコン教室は、校長室に模様替えなっていた。 
再び大津波があっても大事な書類を失うことはないだろう。



   
国道398号線沿いにある(旧)渡波消防署とNTTの局舎方向: 
消防署は石巻市東消防署と改称し、海岸線から陸側およそ1000メートルに新築移転した。
15000人以上住む町内なのに病院が二つあるだけなので救急車が常駐する。 
ヘリポート、消防署員訓練用タワーも設置された。
避難所の調理場だった通用口を見る。 
手前に炊き出し配布用のプレハブがあった。 
6月頃はハエが大発生した。
右手に箸を持ち、左手でハエを追い払いながら食べた。
   
校舎から体育館入り口への通路: 
画面中央やや右の赤い自動車の左上の小さい青いパネルは、
(津波が)「ここまで浸水」の表示。 
ただし、ここには津波浸水痕跡線はなかった。 でも、まあ、正しい表示ではある。 
だれにでも見やすい場所に設置したのだろう。

                          
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