FAQ しばしば質問されること

東日本大震災の避難所(渡波小学校)や応急仮設住宅開成団地に訪れる
ボランティアの人とお話しをした時に 「しばしば質問されること」 を書いてみます。
 

  1. (津波当日と翌日午前中の)避難場所では、人々の様子はどうでしたか?

    冷静で落ち着いていました。
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    津波当日の私の避難場所は太平洋の海岸線から直線距離でおよそ2200メートル山すそです。

    その夜は、幸い、近くの民家に見知らぬ者どうし15人ほどと一緒に泊めていただきました。
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    翌日は午後3時過ぎまで海水が引かず自宅のある町の方向に戻ることはできませんでした。
    早朝から、たき火を囲み、暖をとりながら、海水が引くのを待っていました。 
    たき火を囲む人は10人ほどですが、入れ替わり立ち代わり30−40人ほど全員冷静で落ち着いていました。 
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    たき火の周りで地震や津波の話はなかった。 情報交換もない。
    皆だれも黙ったままだ。 次々通過するヘリコプターを見上げるぐらい。 

    たき火の火勢が弱まり周辺から拾い集めた枯れ枝やこ太い木をくべながら 
    「寒いな」 と、東北の人らしくボソッと声があった程度。
    たぶん、自動車のラジオのニュースで大災害が起きたことを知ってはいるが
    が、
    被害の状況をまだだれも実際には見ていないからだと思う。 
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    妙に興奮して大きな声で喋り散らす人や青ざめた顔色で沈んだ様子の人や
    そわそわと落ち着きがなく歩き回る人などは、ありませんでした。  

    女の人の中には 「家(うち)が心配だ」と話す人がありました。 
    男の人でそのような言葉を口にする人は一人もありませんでした。

    この時期から人の顔色をうかがいながら、不確実なうわさを話す人、流す人が現れました。
     たとえば、

    「(北上川河口にある)石巻市立病院 は津波で流されてしまった。 
      日和山に避難し、山から見ていた人から電話をもらった」、と。
      (日和山は、山というよりは丘で、標高は50メートル。)
                ーー> 実際は、浸水しただけで倒壊も、流失もしていない。 現在は解体されて更地。
    など。
  2. 津波翌日夕方以降の)渡波(わたのは)小学校(避難所) では、人々の様子はどうでしたか?

    冷静で落ち着いていました。 

    津波後数日から1週間の間に、教室(36人)の中で突然立ち上がって大声で怒り出す人が何人か現れたぐらいです。
    たとえば、穏やかだった人がある時急に立ち上がり大きな声で怒り出した。 教室後ろ側の入り口で寝起きをしていた人である。 大声を出してはいるが、どんな事について怒っているのかわからない。 私は教室前方の窓際にいた。 教室の皆はあっけにとられて皆同じ方向を向いている。 教室の対角線方向から私は大きな声で話しかけた。 「すみません! 話がわかりません! お話を伺いますから、ゆっくりと、お話が分かるようにお願いします!」と、声をかけた。 それでわかったことは、次のようなことだった。 「教室後ろから出入りする人がたくさんいる。 戸を開けたり閉めたり音がうるさい。 戸を開けっ放しにしたまま出入りする者もいる。 そのたびに自分は戸を閉めている。 戸を開けっ放しにされると、冷たい風が入り込んで寒い。  なんとかしろ!」 と、いうものだった。 怒るのは当然だと納得できた。 私は、言葉を区切りながら、大きな声で次のように応答した。 「なるほど! わかりました! 教室から出入りするときは静かに戸を開け閉めします。 戸は必ず閉めます。」 怒った人の気持ちはよくわかる。 暖房の無い教室で毎日毎日我慢に我慢を重ねて爆発したのだ。 その後、同様に、急に怒りだす事件がさらに数件あった。 阪神淡路の大震災の本の中にもストレスがたまって急に怒りだす例があったことを思い出した。 心理学の本に書いてあるようなことがそのまま実際に起こるものだねと、近くにいた人と話し合った。
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    今でも不思議に思うことがあります。 避難所生活の最初から最後まで、
    子供(小学6年生以下)が空腹や不満を訴えて泣いたり、ぐずったりする様子や母親が子供を大きな声でしかり、子供が泣き出す様子を一度も見かけなかったことです。 子供たちは周りの様子から何かを理解していたのだと思います。 子供たち個々の内面はわかりませんが、すくなくても外面的にはどの子供も明るく元気でした。

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    http://exjocv2011.blogspot.jp/

  3. 渡波小学校(避難所) のトイレはきれいでしたか?

    トイレはプールの水を豊富に利用できたので(比較的)きれいでした。 ただし、
    水洗式トイレのコンクリートの床は常に水に濡れた状態でした。

    そして、トイレ用履物に履き替えることなく出入りしました。
    (これが津波一か月半以降感染症蔓延の原因になったとおもわれます。(私の推測))

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    Figure 1. 渡波小学校の低学年用プール  津波1年後(2012年4月)の写真です。 今は雨水で満杯の状態。
    画面左の手すりにつかまりながらポリバケツに水を汲み、通路を迂回して通路から校舎に入る。 そして2階、3階まで水を運ぶ。
    1か月以降通路とプールの間に簡易トイレが 10個前後 設置された。


    渡波小学校には低学年用のプールと高学年用のプールがありました。
    浸水したのでどちらのプールも水がいっぱいでした。 トイレ用の水としては十分きれいでした。

    避難所閉鎖時(10月)で低学年用のプールの水位は3月時の4分の1に下がっていました。
    高学年用のプールの水は使うことはなかったはずです。
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    被災から1か月(数週間だったかもしれない)までのトイレの状態:
    下水管はヘドロが詰まりかつ下水管が破壊されていたはずですが、1か月間程は流れました。
    毎朝、各クラス交代で(2−3日おきの当番)、トイレ掃除とポリバケツで一人4杯ほどの水運びがありました。
    ご飯がなく、一日ビスケット4枚ほどの食事の時期(被災から1週間)に教室の2階まで(3階の住人は3階まで)水運びはかなりきつい作業でした。 70歳代の女の人、高血圧の人も階段の手すりにつかまりながら水運びを行いました。 高齢の人、高血圧の人には、「これは確実に体力を消耗する作業であるから、水運びをしなくてもよい」、と声をかけましたが、止めようとしませんでした。 そのような人には、ポリバケツ6−7割ぐらいの少ない量で運ぶように勧めたが、そのようにする人も、しない人もいました。

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    被災から1か月以降のトイレの状態:
    時間があるときに書きます。
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  4. 被災者が整然と支援物資を受け取る様子や被災地で略奪が起こっていないないことを知って、外国では驚き、日本を称賛していますが、・・・(そのとおりだったでしょうか?)。

    私が見た限りにおいて、渡波小学校(避難所)周辺地区の被災者は、整然と並び、お礼を述べて支援物資を受け取っていました。 そうでない場合(支援物資に群がる状態など)も見かけましたが少数例で、小規模でしたから、そのとおりだと言ってよいと思います。 
    しかしながら、数週間、1か月を超えて、毎日毎日支援物資、食糧を受け取るのですが、どうもありがとうございますと、お礼を述べる声はだんだんと小さくなりました。 

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    スーパーマーケットの略奪はありました。

    渡波小学校のすぐ近くのスーパーマーケットで集団的な略奪がありました。
    渡波小学校の近くにある。みやぎ生協渡波店で集団的な略奪がありました。 

    自分の目で略奪の様子を見ています。 そして職員のお話しを直接聴いて確認しています。

    みやぎ生協渡波店

    大津波3−5日後みやぎ生協渡波店の前を自転車で通りかかると、店の中にたくさん人が出入りしているのを見かけた。
    店の入り口前で年配の女の人から「自由に持って行ってもいいんだってよ。 あなたも(何か)持っていきなさい」、と声をかけられた。 ありがたい、と思いつつ念のため、店のガラス窓にそのことを書いた掲示ポスターがあるかどうか探した。 どこにもない。 店の中には数十人がいた。 肝心の食料品の冷蔵ケースの中は完全に空っぽだった。 残っているのは、一部の犬猫用の缶詰、衣料品(スカートとかエプロンを目にした)と掃除用具などの雑貨品です。 私が店内に入った時期は、店に残っている品物から判断して、既に略奪が終わってしまった後のようである。 片手に衣料品をたくさん抱えながら走りまわっている人もいた。 品物を奪い合っている人はなかった。 店内は全体的に若干異様な雰囲気がした。 これは何かおかしいと直観した。 店内で近くにいた人に尋ねた。
    「本当にみやぎ生協は店内の品物を自由に持って行ってもよいと許可を出したのですか?」 
    「みんながいいって言っているよ。 いいんじゃないですか。」 が答えだった。

    このようにみやぎ生協渡波店は整然と集団的略奪が行われました。 


    大津波から2か月半以降の時期に、仮店舗で営業しているみやぎ生協渡波店の職員からお話を伺った。 それによると、当時、店防衛のため事務所に寝泊まりをしていた。 昼間はともかく、夜間になると、バールなどを持って人が押し掛け命の危険を感じた。 このため、仙台市泉区にあるみやぎ生協の本部と相談をして店を放棄することにした、とのことである。

    店員、職員のお話をきいた限りでは、どちらも被害届は出していないようです。
    新聞に事件として掲載されたかどうか不明です。 被害届が出されたかどうか、
    新聞、ラジオで報道されたかどうかにかかわらず、集団的な略奪があったことは確かです。
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    2014年1月 みやぎ生協へ警察へ被害届を提出したかどうか、提出していないのならば
    その理由を聞きたいという内容の問い合わせを行った。 
    みやぎ生協から電話で次のような回答があった。
    「大津波の日から(およそ)10日後、みやぎ生協渡波店内の棚卸を行った。 そこで(略奪の)被害を見積もった。
    (石巻の)警察署に被害届を提出した。 数日後、石巻の警察署の実況検分が行われた。
    それ以降、警察から何の連絡も届いていない。」

    とのことである。 私は みやぎ生協 のこの回答(大津波の後の混乱の中だったとはいえ明確に略奪だと認識していること、そして、

    きちんと、警察に被害届けを提出していること)に満足している。 なぜならば、避難者の集まりで生協渡波店や近くのスーパーあいのや店が
    略奪を受けたことがたまたま話題になった(話題になることはほとんどなく、これまで2−3度だけである)とき、
    「あのような(大津波の後の大変な)ときなので仕方がない。」と、話す人はまだよいのだが、
    「えー、そうなの、・・・! 略奪を受けるような状態に店をしておく方が悪い。」と言う人まで現れたから私は不満であった。 (みやぎ生協渡波店は前面ガラス張りでシャッターがない店構えであった。 それに対して略奪を受けなかった渡波のイオンは店の前面がシャッター構造になっていることを指すらしい。)
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    あいのや 渡波店は、 渡波小学校の向かいで、学校の教室から見える。
    あいだに国道398号線がある。 略奪があった。
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    ちなみに、
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    個人商店、個人の家については、いくつか(間接的に)聞いていますが、確かめようもなくわかりません。
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    石巻市渡波町内(およそ人口15000人の地区)の自動販売機のほとんどはバールのようなもので破壊されていました。
    (大津波の数か月後)犯人グループが逮捕されたと、河北新聞とNHKのニュースで報道がありました。
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  5. いつごろ仮設住宅の入居の申し込みをしたのですか?

    避難所の渡波(わたのは)小学校に入り、たしか、1週間目前後のたいへん早い時期だったと思いますが、「仮設住宅へ入る希望があるかどうか」 のアンケートの提出を求める連絡が教室にありました。 その時は、まだ石巻市は、仮設住宅を建設することを決定していない段階です。 仮設入居の申し込み書の提出を求めるものではなく、入居希望があるかどうかの調査でした。 
    自宅は 273センチメートル 浸水し、木造2階建ての家は残っていましたが、流れてきたガレキの集積所のような状態で、上水道管、下水道管、都市ガス管が破断、
     電灯線も断線、漏電まちがいなしなので、自宅で生活できる見込みはありません。 そこで、仮設住宅に入居の希望がある に丸を付けて提出しました。 
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    申請書は提出していないという記憶だったのですが提出していたようです。
    大津波から3年以上経過した2015年1月、当時の 「応急仮設住宅入居申請書」 を発見しました。 
    それによると、石巻市福祉部福祉総務課(受付期間平成23年3月26日(土)から4月8日(金)まで)へ、「(渡波小学校)避難所の本部」経由で提出していました。 申請書裏面にある、 「入居条件: 入居期間: 入居後2年以内(入居開始時期は未定です。)」 という説明書きを読み、仮設に入居しても、2年が過ぎて仮設住宅を追い出されることになったならばどうしようと心配した当時の気持ちも思い出しました。 大津波から4ヶ月半後の7月の末に応急仮設住宅に入居しました。
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  6. ボランティアは、余計なことをする、迷惑だなどの話は(避難者の中から)出ていませんか?

    全くありません。 
    例外が一件だけありました。 大津波から一年半ほど経過した12月頃、石巻仮設住宅自治連合推進会の会合(石巻専修大学の教室を借りて行われた)に出席しました。 その時に、ある団地の自治会の会長から、「自己満足で活動するボランティア団体がある。 団地の集会所で活動をした後、後片付けをしないで帰る」と、発言がありました。 発言はそれだけで、他の出席者から発言はありませんでした。 この一例を除くと、少なくても私が耳にしたかぎり、
    避難所(渡波小学校の教室内外)、町内(自宅での生活)、応急仮設住宅 での生活で、感謝の言葉を聞くことはあっても、
    ボランティアは邪魔だ、頼みもしないことをしている、迷惑だなどの話は、この3年間、耳にしたことはありません。 (平成26年6月現在) 平成28年2月現在でも同じです。


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