第四十五回:麻雀と私


自分の人生をふと振り返ってみて、ひょっとして私は凝り性の気があるのではないかと 最近思い始めた。いや気のせいかもしれないのだが。

例えばハーモニカ。普通の人が「ちょっと手を出す」という状況がどの程度なのか、 私には分からないが、私がちょっと手を出した結果、 手元にハーモニカ二十数本、教則本数冊、教則ビデオ数点を所有する 結果となった。

例えば、バード・ウォッチング。双眼鏡や、庭に作った餌台、 三度の軽井沢遠征に加えて、 フィールドガイド(鳥を識別するための図鑑)、図鑑、バード・ウォッチングの 手法に関する書籍、エッセイなどなどを入手、図書館も利用。

自己分析するに、どうやら本から入るタイプらしい。

どこかでもちらっと書いたが、私は マニュアルや教則本の類が好きなようなのだ。 マニュアルというのは、そう、「これで完璧!初めてのデートコースはこれで決まり! 彼女のハートをゲットしよう! 横浜編」 とかそういうヤツ。

なワケないでしょ。ところで上述のようなマニュアルで 成果を出したというヒトはいるんでしょうか。私はこの手のマニュアルを 読まない上に、あまり食に対する興味がないので、私とデートする人は 動物園とか引き回された挙げ句にありがちなファミリー・レストランや、 はたまた怪しい店で寂しいものを食わされたりします。とほほ。

閑話休題、何かに凝ると、対象物及び対象物に関する書物を集める、という 行動に出ることが多いようだ。ただのコレクター癖ではないかという指摘もある。 否定できない。しかしそれも一つも凝り性の形という言い方もあるかもしれぬ。

凝ったはいいがその結果が、普通の人が「ちょっと手を出した」レベルと 変わらないというのがまた遺憾なことである。 普通はそこまで凝らなくたって、「基本の『き』」ぐらいはマスター出来るのだろう。 裏を返せば、単に私が物覚えと要領の悪い人間であるということの証明なのか。

嗚呼。ヘンなこと考えなきゃよかった。十二月の風が身に凍みる。

凍みながらもそれにもめげずに、今私が凝っているのが 以前ちょっと書いた麻雀である。 きっかけはそこでも書いた通り、PDA にインストールした麻雀ソフトだった。

ここで私の華麗なる麻雀遍歴を書き記しておきたい。

多分小学生?
両親の暇つぶしが目的か? 牌を並べることを覚えさせられる。 役だの点数だの、難しいことは一切わからないが、「白」「發」「中」を 各三枚づつ揃えれば沢山点数がもらえる、とだけ教わる。この教わり方からして かなりの物悲しさだ。想像してみて欲しい。大三元のみを狙って打つ小学生の姿。 末は雀鬼かそれともただの馬鹿か。ってもちろん後者だ。 思い起こすに涙を禁じ得ない。

高校生
麻雀を一応打てる、というレベルの人間が集まって麻雀を打つようになる。 ここで驚くのは、上記のレベルの私が「一応打てる」というレベルであると 認識されていることであろう。つまり他のヤツもほとんどわかっていない。 わかっていない人間が集まってウロ覚えのレベルで打つものだから、内容はつまり 滅茶苦茶である。しかし一応の入門書を買う者、兄弟の教えを乞い、それを 我々仲間に伝授する者などが現れ、徐々にゲームとしての体裁は整っていく。

我家には牌と座卓はあったが麻雀マットがなかったので、座卓の上に毛布を敷き、 洗牌(牌を混ぜるのにジャラジャラかき回すあれだ)しようとすると 机から牌が転がり落ちてしまうので、毛布を巾着のようにして 全ての牌をその中に包むようにしてみんなで殴る、という珍妙な手法で 牌を混ぜたものだった。 とにかく回を重ねるとだんだん分かってくる。分かってくると俄然 面白くなってくる。授業中に授業を無視して麻雀を打ったりする。 ミニ学級崩壊である。時代を先取りである。 しかし所詮はゲームであり、金を賭けることはなかった。

大学生
そういうぬるい麻雀しか打っていなかった私であるが、ルールは知っていたため、 先輩に「を、打てるのか」と聞かれて「打てます」と答えた私は馬鹿だった。 そのまま雀荘に連れて行かれ、先輩三人とセットで打ったのだが、 普段から雀荘で点5で打っている人間相手に勝負になるわけがない。 この世のものとは思えない負け方をする。 その豪快な負け方に先輩三人も金を取るのが忍びなかったらしく、 その麻雀を打った日が存在しなかったことにしてくれたようである。そしてその日以来 牌を握ることはなかった。

つまり、本当の意味で麻雀にはまった経験など、私にはないのだ。 だから今後もはまらない、といかないのが人生の不思議である。

最初は単に暇つぶしだった。電車の行き帰り、あるいはちょっと空いた時間に、 新しく手に入れたこのザウルスで、まぁゲームでも出来れば楽しいかな、という、 そうまさに出来心なんです。もうしません。許して下さい。

これが、勝てない。あまりな大差。たま〜に上がると自分は安手。 敵に振り込むと高目。何か、基本的なことを私は間違っているのではないか。 やはり大事なのは基本だ。

ここで教則本野郎の私は教則本に走るのである。本屋に行けばそこには 魅惑的なタイトルの指南書が並んでいるではないか。「最強の麻雀」「常勝の麻雀」 「絶対に振り込まない麻雀」「実戦麻雀講座」…

中学生の頃、学習参考書を買って一番良く読んだページは、本文が始まる前の 「この参考書の使い方」かもしれぬ。この参考書が如何に良く出来ているかという 説明を読んでいるとそれだけで頭が良くなった気がするタイプである。 そういうタイプであるから、上述のようなタイトルを見ているだけで 気が大きくなる。なにしろ一番強くて常に勝ち、絶対に振り込まないのであるから、 雀聖と謳われ「麻雀放浪記」など名作を多数残している阿佐田哲也先生にだって 楽勝であろう。阿佐田さんすみません。

というわけで一〜二冊買い込んでくる。怒涛の勢いで読む。 電車の中でも周りを気にせず読む。多分近くに居合わせた人は眩いばかりの 「雀鬼のオーラ」におののいたであろう、そのくらいの気迫で読破。 しかしこんなヤツが隣にいたら、俺はイヤだぞ。

でも勝てないのだな。 小生意気なゲームのキャラクタに「ロン」とか言われちまうのだな。 そんなに底の浅いものではないらしい。 手役の作り方も下手だろう。相手の捨牌を読むテクニックも不足しているだろう。 しかし一番欠けているものは何だろうと推測するに…

麻雀の勝ち負けは、半荘が終了した時点での得点で決まる。 半荘は通常、最低八回の局で構成され、その全てで上がれるわけではない。 調子の悪い時は当り牌を振り込まないよう、自分の手役を崩してでも 安全牌を捨て、勝負から降りなければならないケースもある。

私は、これが下手なのだ。

どうも、せっかく作った手を崩して守る、というのが出来ない。 毎回あがろうとしてしまう。「これは危なそうだなぁ。でもこれを 切らないとせっかく聴牌してるのに崩れちゃうなぁ。なかなか良い手なのになぁ。 がんばってここまで作ったのになぁ。よっしゃぁ勝負ぢゃあ!」 と危険牌を強引に打ってあっさり玉砕、という局面が多くなる。 結果、点数が低い、ということになる。

考えてみれば、ドラムにも通ずるかもしれぬ。 ハデに攻めるところは攻める、引くところはぐっと引いてバッキングに徹する。 メリハリを付けることで音楽も生きるし、自分の「ここぞ!」というプレイを 目立たせることも出来るのだ。 この呼吸を忘れ、常に、

俺が俺が俺が俺がお客さん俺です俺です俺です俺です 俺ですってばこっち注目はい注目きゃーっお客さん素敵よぉ

となってはいかん。いかんのだっ。俺よ。

さて、世の中にマニュアル、教則本の類は星の数ほどあるけれど、 実際どのくらい役立つものなのだろう。教則本側の問題も、受け手である読者の 問題もあると思うが、役に立たないケースもたくさんあるんだと思う。 皆さんにも、魅惑的なタイトルに惑わされて本を手にし、夢破れたご経験が 一度ぐらいはおありなのではないか。

けれど、私のドラムは独学だ。教則本や雑誌の記事を頼りに、 取り敢えず楽しめるレベルにはなれたじゃないか。 その経験が私をマニュアルに向かわせるのかもしれない。

いや、しれない、はいいんだけどさ、勝てないんだってば。もっかの問題は。 やっぱり実戦も必要かなぁ。というわけで、昔使っていた麻雀牌を実家から 宅急便で送ってもらいました。麻雀マットも購入しました。東急ハンズで 4,000 円もしやがりました。嫌がる嫁に「セブンプリッジと同じだから。 簡単簡単」とか言ってルールと役も教え込みました。教え込んだ途端にリーチ一発白ドラ三のハネ満上がられて負けたのは私なのですがそれはさて置き 準備は万端です。さあ誰か私と麻雀打ちませんか。

お金を賭けない、ぬるいやつ。


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