葬送 -Requiem



 警護兵は基本的に、官舎に本人が居ても居なくても門前に張り付いている。常時二人。二十四時間、雨の日も晴れの日も風の日も雪の日も。
 特に佐官宿舎というのは、本来はその家族も居るものなのだ。地方に長期任官される佐官のためのこの官舎が、独身者を迎えたのはおそらくこれが最初だろう。
 公用車からハボックが一緒に降り立った時、当番兵は怪訝そうな顔を隠せなかった。だが警護対象者の側近の顔ぐらいは知っていると見えて、教本に載せたいような敬礼で二人を通した。
「大佐ぐらいの人になると」
「ん?」
 二本目のワイン瓶の蝋にナイフを入れながら、上官は気のない相槌を返して寄越した。
「一日に何回ぐらい答礼しなけりゃならないんでしょうね」
「さあ。数えたことはないな。お前だって廊下を歩いてりゃ答礼せざるを得んだろう」
「俺? 俺はテキトーですよ。真面目に返すのは正門通る時くらいっすかね。みんな判ってんだろうな、そういやちゃんと向こうからされんのは大佐と一緒の時だけだ」
「…まあ、くわえ煙草でうろつく奴に、まともな敬礼をする気が失せるのは判らんでもないが…」
 古いワインなのかもしれない。コルク抜きを刺す側から、コルクがボロボロと崩れて上官は苦労している。貸して下さいとハボックは手を出して、腰のサックから出した細身のナイフで、コルクを瓶の中に突き崩した。
「お前なぁ」
「しょうがないでしょ。これが一番手っ取り早い」
「前線の配給ワインとはわけが違うんだぞ……」
 コルク屑まみれの赤を自分と彼のグラスに移す。
 モノが違うのは飲んですぐ判った。暖炉傍らのラグに男二人して座り込んで、肴のひとつもなしで、それでも充分にこのワインは旨かった。
 思わず瓶のラベルをしげしげと眺める。収穫年と、多分これはワイナリーの名前だけが記された素っ気無いラベル。聞き覚えのない土地だった。
「面白い味ですね。ちょっと甘味が残るっていうか」
「意外だな。ワインの味が判るのか?」
「配給もんと違うって程度には」
 さっきの挙げ足を取るような言い方に、黒髪の大佐は声に出さずに笑った。
「馬鹿にしてんでしょ」
「いやいや、…お前の舌はなかなかだよ。これは発酵の途中の段階でブランデーを加えて作るんだそうだ。だから葡萄の糖度が他のものより高く残る」
「はあ」
「付け加えるなら、そのラベルはフェイクだよ。実際にはクレタ産のワインなんだ」
「…は?」
 グラスを握る手が固まった。赤い液体と上官の顔と交互に見比べ、ハボックはおそるおそるお伺いをたてた。
「もしかしてこれ、───密輸品ですか?」
「そうなるな」
 こともなげに言って、上官は自分のグラスを一息に呷った。それから彼にしてはいささか下品な仕種で、口内に残ったらしいコルク屑を、横を向いて暖炉の中に吐き捨てた。
 アメストリスの西に位置するクレタとは、国交が途絶えて何年もが経過している。国境間際では小規模の戦闘が繰り返されているとも聞く。国軍大佐が手にしていい品では当然なかった。
「あんた、ホントに、」
「何だ」
「わけわかんねー人だな…!」
 賛辞だ、と呟いて大佐は空になったグラスを毛足の深いラグの上に転がした。どうするのかと思って見ていると、そのまま自分の身体も転がしてしまう。横になった姿勢で、長い前髪が目許までを覆い隠した。
「……旨いもんは旨いさ。どこの国の物だろうが、誰が葡萄を摘んでいようが」
 酔った声ではなかった。
 酔いたいのだろうなとは思いはしたが。
「なあ、少尉」
「はい」
「戦場の話をしようか」
 唐突な台詞だった。いや、そうでもないかもしれない。この男と自分の決定的な隔たりはそこにあって、同じ軍属でありながら越えることを拒む壁だった。敢然とそれが常に世界を支配していた。
 だけどきっと、とハボックはグラスに新しい一杯を注ぎ入れながら考える。誰も彼には近付けない。そう、今となっては。
 世界は朧気で静寂に満ちていた。門前に立ち続ける警護兵も、どこかの屋根の下で抱き合う恋人達も、産声を上げて生まれおちた無垢な赤子も、同じほどに朧な輪郭しか持たなかった。
「大佐がしたいのなら」
「したいわけはない。…したくはないさ。だがお前は私の口から聞きたいんだろう?」
 どうだろう。ハボックは自問する。この人の口から、かつての物語を自分は語ってほしいのか?
 他の誰でもない、この人自身から。誉め称えられた英雄譚でもなく、記録でもなく、主観によってのみ語られる一個人の物語を。
「その前に、どうして俺を家に上げたんですか。何の意図がある宴会なんですか、これは? まさか恋に破れた部下への慰労ってんでもないでしょうが」
 すいと彼の腕が動いて、ハボックの膝に触れた。ワイン瓶に手を伸ばしただけの動作だったが、ハボックは思わず肩を大きく揺らした。
 気付いただろうにそれに関しては何も触れず、大佐は半身だけを起こしてグラスを拾った。
「注げ、少尉。上官に手酌をさせるな」
「…アイサー」
 まだコルク屑が表面に幾つか浮かぶ。ハボックは彼の手首ごとグラスを掴んで引き寄せ、上澄みを自分の口で啜り取った。
 それからさっきの彼を真似て、暖炉に向かって屑を吐き出す。眼を細めて彼は見ていた。咎めはしなかったが口許には苦笑の気配が漂っていた。
「普通はな、少尉。他人の傷というものに、人は容易く触れようとはしないものなんだ」
「かも、しれませんね」
「私だって御免だ。何を好き好んで他人のおぞましい傷跡まで覗き込む必要がある? 肉が盛り上がって、ようやくその血管を塞いだばかりかもしれないのに? 爪まで立てて暴き立てて、膿んだ痕まで晒したがる。悪趣味としか言い様がない。つまり少尉、お前がしたがっているのはそういうことだよ」
 悪意を含まない、淡々とした声音だった。
「怒ってんですか」
「…我ながら奇妙だとは思うが」
 手首を離せなくなっているハボックを、彼は振りほどこうとすらしなかった。
「これが、そうでもないんだ。中尉も、──…ヒューズも、私にそれについてを尋ねたことはなかった。一部、我々の間では不文律のようなものがあったのだろうな。あの戦場については互いに極力触れまいと……」
 ヒューズ中佐、──『准将』の名を上官から聞くのは例の事件以来初めてだった。マース・ヒューズ准将。この男の親友にして戦友。
 最後の電話の直前、ハボックは廊下で彼と立ち話をしていた。他愛のない常時の指示や勤務についての会話だった。イエッサーと惰性で答えて、ハボックは上官に背を向けた。上官は書類を抱えて自分の執務室に入って行った。
 直後、怒鳴るとも叫ぶともつかない声が、閉まりきっていなかった扉から響いた。
 ───ヒューズ! おいヒューズ! 返事をしろッ!
 ただごとでないのはすぐに悟った。部屋を飛び出してきた上官の顔を見るなり、ハボックも電話交換室に走った。受信記録の確認、中央司令部への連絡、折り返しの報告を待つだけの長い時間。
 長い長い時間。
 あの夜は終わっていないのではないかと、何度かハボックでさえ考えた。夜間上番の度に思い出した。それは不思議な感覚だった。
「お前の質問に先に答えるなら、」
 上官はあの待つだけの夜と同じく、静かな無表情で眼を伏せた。
「これが理由だよ、少尉」
「俺が悪趣味だってのが、大佐の理由?」
 狡いですよ、ともう少しで言いそうになった。あんたは狡い。本気でタチが悪い。
 悪趣味はどっちなんだ、自分の傷を写す鏡が欲しいだけか。
「飲みませんか、もっと」
 ハボックはそこでやっと握っていた手首を離した。見ると、彼の手首には赤く指の痕がついていた。どれだけの力で自分が掴んでいたのか、彼が顔色も変えなかったのでハボックは気付けなかった。
「───すみません」
 自然に零れた謝罪に、何をだというふうに彼は片眉を上げる。そしてハボックの視線の先を辿り、「ああ」とグラスを揺らした。