葬送 -Requiem



「さすがに力が強いな。グラスを落とさないでいるので精一杯だった」
 笑うところなのかと理解はしたが、自分の表情は複雑に歪んだだけだった。ハボックは無言でワイン瓶を鷲掴んだ。少なくともこれなら痕もつかないし悲鳴も上げない。
「ほどほどにしておけよ」
「言われたくないすよ、大佐に」
 クレタのワイン。飲むのは最初で最後かもしれない。それともいつかは平和な時代なんてものが来て、軍人なんてのも無用の長物になって、異国の特産品が市場には山のように溢れる日が来るんだろうか。
 ハボックには判らなかった。想像もつかなかった。
「お前、6年前は何をやってたんだ。最前線配備じゃなかったろうが、記録によれば従軍はしてるだろう?」
 左手にグラスを持ち替え、まるで世間話でもするように上官が言う。
「…日がな塹壕掘ってましたね。予備科で、もうトートツに出兵が決まって。使ぇねえ新兵どもがって鬼の特務曹長に怒鳴られながら、毎日せっせと犬みたいに穴掘ってましたよ」
 呂律が少し怪しい気がした。しかし構わずハボックは一息に先を続けた。
「でもほんとに使えないヤツばっかでしたから、胸土より上に頭なんか出さなかった。特射台に立ったことだってないですよ。そんなのは古参兵の仕事だった。塹壕掘って、補給の弾帯持って塹壕から塹壕へ駆けずり回って、あそこは防御ラインで突撃部隊じゃなかったし、敵さんも無理に押してきてる感じじゃなかった。それでも死ぬ奴は死んだな。俺の同期で、まぁ割と無鉄砲な奴が居て、敵陣地を伺おうと頭を塹壕の上に出しちまったんです。途端に首から上がふっ飛びましたよ。真横で、こっちまで血でぐしょぐしょになった。あれが一番、…何だろう一番……すいません、俺もう酔ってんのかな」
「いいさ、私も酔ってる」
 嘘つけ。思ったがやはりそれも口にはせず、ハボックは自分も絨毯に寝転がった。
「大佐は? 大佐の話をして下さいよ。してくれるんでしょう?」
「私か。私は……」
 彼は最後のワインを一息に空け、何を思ったのかグラスを暖炉に投げ入れた。澄んだ音でガラスが粉々に砕ける。炎のくすぶる音、煙りの立つ音も重なった。
 ハボックがギョッとして頭を動かすと、さも可笑しそうに軽やかに笑った。
「殺してたよ。うん、とにかく殺しまくっていた。こっちは塹壕を掃討する立場だった」
「俺と逆ですね」
「ああ。自分で言うのも何だが、私は非常に効率的で性能のいい兵器だった。ああいう戦闘条件に向いていたんだ。前線に向かって焔を打つだろう、そうすると穴からウサギが飛び出してくるみたいに人間が飛び出してくるんだ。半分燃えながらな。それを味方が小銃で端から連射していく。あれが一番手際のいいやり方だったよ。ただ、耳が痛かったな。私だけ交代がきかないから仕方なかったんだが」
 本気で『仕方がない』と思っている口調だった。ハボックは眼を閉じ、なるべく詳細に想像しようとしてみる。丹念に、彼がその眼で見たものを自分の脳裏に思い描く。
 賑やかで平和な市場の風景を浮かべるより、なぜかそれは容易だった。
「──…一日そんなことをやってると、夜に帰営する頃には鼓膜がおかしくなってくる。頭がぼうっとして、人の顔の区別もよくつかなくなる。…そう言えば、一度ヒューズに殴られたな。私が何か妙なことを口走ったらしい。自分では覚えていないんだ。とにかくあいつが手を上げるようなことだったんだろう。後になっても、私は自分が何を言ったのかは聞かなかった。あいつが聞かれたくなさそうだったからだ」
「知りたかったですか? 自分が何を言ったのか」
「……そうだな。知りたかった」
 ふっと言葉が途切れた。
 この男の成分の何パーセントかは死者で出来ている。ハボックは不意にそんなふうに思った。
 弔いの列が地平線の彼方まで続いている。肌の色も眼の色も関係はない。誰でもない、己自身の死を弔い続ける死者の列だ。長い永い葬列。
「やがて前線は拡大した。正直に言えば、もうどこが戦闘地域でどこが非戦闘地域なのか、現場の将校達にも判っていなかった。敵が居たらそこが戦場だ。だいたいあっちは文字通り死に物狂いなんだ、民族の存亡がかかっていたんだからな。…延々と続く軍議や現場の裁量や、様々な事情の果てに、私は単独でそれまでにない大掛かりな練成陣を描くことになった」
 イシュバールの英雄。多くの人々は彼をそう呼ぶ。その裏で暗く囁く。人間兵器、狂気の錬金術師。
「自信はなかった。あまりに規模が大き過ぎた。理屈では可能だった、なのに私は自信がなかった。だが出来る出来ないじゃない、やらなけりゃならなかった。多少なりとお前も知っているだろうが、戦場というのはそういう場所なんだ。その時で既に、私の所属する大隊は三分の一以上の数を減らしていた。内乱の勃発から数えれば何万もの死者の数が出ていた。終わらせるべきだ、そう心から思ったのも事実だった。結果、私は…───」
 その時の疲労感を思い出しでもしたかのように、彼は仰向けに手足を投げ出して転がった。
「…結果、大佐は?」
「勲章を三つ貰ったさ」
「それから中佐に昇進」
「そうだ。大総統閣下の直々のお言葉とともに」
 しばらく彼は黙っていた。重くはないが、ほんの少し苦味を感じさせる沈黙だった。
 どのくらい、そうして二人して黙り込んでいただろうか。
 空が青かったよ、と大佐はぽつりと付け足した。
「そら?」
「……今でも時々思い出す。疲れ果てていて、…その時の私は本当に疲れ果てていて、肺が勝手に呼吸しているのが不思議に思えるほどだった」

 大地に仰向けに倒れ、視界の限りに広がる真っ青な空を見上げる。雲もない。影もどこにもない。自分の身体の下のこの影以外は。
 やがてジープの音が遠くから響いてくる。お迎えが来たのだ。帰らなければ。その前に立ち上がらなければ。風が強い。燻った煤の匂いももうしない。空ばかりが抜けるように青い。終わったのだ。
 終わったのだ。
 とりあえず、今は。

「大佐」
「何だ」
 ハボックは身体を起こして、彼の顔を覗き込んだ。微動だにせず、静かな眼が見つめ返している。
「あなたが好きだ。───これ、多分二度目の告白だと思うんですが」
「そうだったかな」
「…傷があるものを好きなのはおかしいですか。まっさらなものより、傷があって痛みがあって、壊れるかもしれないものを好きなのはいけませんか」
「……。いけなくはないさ」
 いい趣味だとは言い難いがね。
 呟いて、彼は夜の帳のような瞳をそれきり閉じた。
 頬に触れてみる。暖かい。当たり前だ、生きている。
 生きて、自分の目の前に居るのだから。
 思いがけなかった睫の長さに見とれながら、ハボックはそっと唇を近付けた。最初は触れるだけで。二度目は吐息が重なるくらいに。そうして三度目では、互いの熱を奪い合うほどに。

 弔いの鐘の荘厳さと静粛が胸に落ちる。だがそれはいつしか激情に似た焔に形を変える。
 彼は歩き続けるだろう、生きている限り。生きてその熱量が焔を生み出し続ける限り。
 この長い葬列の果てに何があるかを知ることが出来るのなら、自分の持てる何と引き換えにしても構わない、とハボックは本気で願った。これほど何かを懸命に願ったことはきっとなかった。あの戦場の湿った塹壕の中でさえ。
 命だってくれてやる。
 代わりに自分は胸に刻みつけるのだ。並ぶ者のない彼のふたつ名を。

 ───焔の錬金術師。





- end -

初稿 2005-
改稿 2009-11






初書き鋼。しょっぱなから私は色々と大佐に夢見過ぎです。
この頃はまだイシュヴァール回想も、当たり前ですが大佐のご自宅の設定も原作(公式)では出てませんでした。──…簡素なアパートメントって…国軍大佐がマジでっ!?
それはともかく、岩石砂漠で塹壕掘れるのかよってのは自分で突っ込みたい。