葬送 -Requiem



 何だ?、という顔でブレダが見る。中尉はと見れば、それでもう判ってしまった顔つきだった。
「大佐のお加減はよろしくないわけ?」
「それは体調ですか、その他の部分も含めてですか」
「含めてです。もちろん」
 もちろん。ハボックはしばらく考えた。もちろん、大佐殿は五体満足だし、昨夜の出動だって特に大した問題はなかった(大佐は車を一台丸ごと燃やした。それもまあ、大した問題ではない)。
 昼食だって残さずに食っていた。後はたまった書類を右から左に流すのに大忙しで、居眠りに逃げ出す気配も本日はない──…。
「ずっと机に張り付いて仕事してますね。朝食と昼食時以外は休憩も取らず。…問題ですかね?」
「そうね問題ね」
 ふっと、彼女は雰囲気を柔らげた。
「よろしい、事情は了解しました。あなたが上がるついでに、大佐も連れ帰ってちょうだい。途中までの同乗もこの際だから許可します。…あ、ちょうどいいわ、送迎車の手配を」
 部屋から出て行きかけた従卒を呼び止め、中尉は早速、お偉いさん用の配車手続きを依頼する。その声を背中にして、ハボックは今日何度目かに上官の執務室へ向かった。
 迷ったがノック一回でまた返事は待たずにドアを開けた。
 正直に言えば待ちたいような気持ちが幾分かはあった。内側からかけられる誰何の言葉と自分の返事、そしてそこで初めて踏み込む許可が欲しいと初めて思った。
 だがハボックはそうはしなかった。なぜなら応えを待たないのが自分らしい態度だと知っていた。あの男からの許可を待ってはいけない。それは自分に求められるものではないからだ。
「大佐、お待たせしました。コーヒーです」
 先ほどより、僅かに高さが変化して見える書類の間から、上官は訝し気に顔を上げた。
「頼んだ覚えはないが」
「そうでしたっけ?」
「そうだ。だいたい何だってお前が従卒の真似事などしてるんだ」
「決まってます。したかったからですよ」
 構わずデスクの隅にソーサー付きのカップを置く。気押されたように、しばらくロイ・マスタングはそれを無言で眺めていた。
 背にある壁いっぱいに取った窓からは、午後の穏やかな陽が差し込んでくる。ガラスを区切る四角い枠の影が、広い部屋の真ん中辺りにまで伸びている。
 もうすぐ、ここにも夕暮れが訪れるのだ。影の長さを見つめながらハボックは思った。
「大佐。コーヒー、冷めますよ」
「ハボック少尉」
 はい、と返事をしながらハボックは胸元から煙草を出してくわえた。すると上官は何を思ったのかデスクの引き出しを開け、白い手袋を取り出して右手にだけ嵌めた。
 スッと優雅に指先が突き出される。
 ハボックが慌てて身を引くより早く、微かな破裂音のようなものが室内に響いた。鼻先で火花が弾ける。小さな炎が煙草の先端に灯っているのを見て、ハボックは迂闊にも笑ってしまった。
「何のサービスですか、これは」
「サービス? ただの気紛れだよ。…それとも」
 意識しているのかしていないのか、切れ長の黒い瞳が艶な視線をこちらに送った。
「私はお前に謝罪をした方がいいのか? あるいは、お前からの謝罪を受け入れるべきなのかな?」
「俺が何の謝罪をあんたにしなくちゃいけないんですか」
「いくらでもあるだろう。とりあえずは上官不敬罪だな」
「身に覚えはないですね」
 一服を思いきり肺まで吸い込む。燻る苛立ちのようなものを誤魔化すつもりが、余計に募ってしまったのは失敗だった。それはひょっとして、草の汁で紙に書き殴られた炙り出しのようなものであったかもしれない。
 ある一定以上の過熱が物事を覆す。形がなかったものが浮き上がってくる。だが俺は知っていた。最初からそこに影はあったんだ。
「大佐は判ってたんですか」
「何をだね」
 感情の感じられない声。この男は意地が悪い。それだって最初から判ってた。
「───俺があんたに惚れてるって」
 顔は見ないで言い捨てた。けれども瞬間、返す言葉をためらう気配が伝わってきて、ハボックの苛立ちを沈める効果はほんの少しだけ果たした。
「これはまた…、随分とストレート勝負だな」
「そういう性分です」
「ああ、だからお前は女性に袖にされ続けるんだよ」
 振り返ると、黒髪の大佐はこらえ切れないように喉で笑っていた。今までにも幾度か思った。この男はなんて数少ない色素で構成されているのだろう、と。
 瞳も髪も底が知れないほどの闇の色だ。ハニーブラウンの中尉と並んでいると一層にそれが引き立つ。では自分とは? 自分と並んでいる時、彼はどんな様子で人の眼に映るのだろう?
 電話。電話は鳴らない。去った人間は戻らない。
 過去はやり直しがきかない。どれだけの傷を負って、どれだけの切実さで祈っても。祈り続け、願い続ける人間は多いだろうが。ああ大佐、間違いなくあんたもその一人だ。
 世界全てを滅ぼしそうな焔を見た。この男の優美な指の先から放たれた、ありとあらゆるものを焼き付くしそうな業火を見た。
 ある日を境に突然、世界の景色そのものが存在を変えた。根こそぎに、自分自身さえも奪われる一瞬を知った。
 それなりの人生。
 くそったれが、とハボックは思った。それなりに幸福で平穏でありきたりで人生。そんなものに何の意味があるっていうんだ。あの荒れ狂う焔を眼にした後では。
「コートを取ってくれ、少尉」
 静かな声がハボックの思考を遮った。
「一段落ついた。私はそろそろ帰るよ。中尉にそう伝えておいてくれ」
「…車、の手配はもうしてあります」
 ほう、と彼は眼を眇めた。
「手回しがいいな」
「いえ、──…中尉が」
「なるほど。お前はどうするんだ?」
「よければ自分が運転を勤めます」
「断る」
 どんな表情を自分がしたのかは判らない。だがよほど情けない顔をしたんだろう。
 上官は苦笑に近い笑みでハボックを見返した。
「夜勤出動明けの男を運転に駆り出すほど、我が国軍は人手不足なのかね、少尉」
「それは、…」
「第一、お前が運転したら誰が車を帰営させるんだ。助手席に乗れ」
 片手を差し出されて、とっさに何を求められたのかが掴めなかった。しかしさっき彼が言った「コートを」という言葉にすぐに思い至る。
「大佐、あの」
 腕に渡すのではなく、コートをその両肩にかけながら、ハボックはらしくなく狼狽えた。
「この後、…自宅に向かうんですよね?」
「何をぐだくだと往生際の悪いことを言っているんだ! 早く帰る準備をしろ!」
 頭ごなしに怒鳴られると、身体が反射的に敬礼の姿勢を取ってしまう。上官は面倒そうな答礼で応えて、先に部屋を出て行った。




 ───とにかくその時の私は疲れ果てていて、肺が勝手に呼吸しているのが不思議に思えるほどだったんだ。己の意志では指の一本も動かしたくなかった。例えそれが生死に関わるようなような事態でもね。もう好きにしろと。何が起きようと俺の知ったことかという気分だった。だからあの時に敵襲があったとしたら、そのままそこに寝転んで殺されたろうな。……。
 こんなふうに?、とハボックは絨毯の上に両手両足を伸ばしたまま尋ねる。
 そう、こんなふうにだ。同じように黒髪の大佐も仰向けに天井を眺めながら答える。
 ───五〇〇ヤード近辺には生き物の気配はまったくなかった。友軍もだ。それを最低安全圏内として、位置を下がるように私が指示を出していた。遮蔽物もまったくなかった。私が全てを焼き払った後だったからだ。空が青かったよ、抜けるような青空だった。雲ひとつなかった。籠にワインとサンドイッチとチーズを詰めて、ピクニックに出かけたくなるような空だったな…──。


 地方副司令官の官舎ともなるとそれなりの邸宅で、けれども使用されている部屋は極端に少なかった。客室はともかく、応接室の家具・ソファに至るまで、白い埃よけのシーツを被せられたままになっている。
 ハボックはさすがに呆れ、あんた何年ここに住んでるんですか、と漏らした。上官はしらっとした顔で、五年と少しだ。それがどうした、とさも大したことではないかのように言った。
 どうしたもこうしたもない。まともな神経とは言い難かった。警護勤務で門前に配備されたことはあっても、中に踏み込んだのは初めてだったハボックは、これじゃ警護兵も報われねえなとつくづく思った。