葬送 -Requiem



 だけど、なあウェアリング少尉。と、手紙の差出人の名前を覚えていた自分に驚きながらも、ハボックは声に出さず呟く。君からの預かり物は、俺はちゃんと上官に渡したんだ。その答えが君の意に添うものじゃなかったとしても、それは俺の責任じゃない。
「あー、何なら上に行って正確なとこを訊いて来ようか?」
「……いいです、もう」
 何が「いい」のか微妙なところではあった。
 怒りの鉾先を向ける相手がお門違いなのを気付いて「もういい」なのか。自分の中の恋心なんてものに決着をつけた「もういい」なのか。このヘビースモーカーの少尉に、煙草についてのケチを今さら付けることの無意味さに対する諦めなのか。
「本日中に仕上げておきます。…そうですね、夕刻までには」
「ありがとう」
 自分の直属の上官が、アメストリス軍きっての女タラシだというのは、部下にとってはあまり楽しい状況ではない。場合によっては弊害もありうる。
 階上へ戻り、まずハボックは今受け取ってきた書類を所定の書類ボックスに放り込み、自分の席には寄らずに給湯室を覗き込んだ。暇そうにしている従卒の若者に、いくつかの用事を言い付ける。それからやっと自分の席に落ち着き、新しい煙草に火をつけた。
「あら、少尉」
 後ろを通りすがったリザ・ホークアイ中尉が、不思議そうに声をかけてきた。
「はい?」
「あなた、そういえば今日は早番じゃなかったの?」
「早番ですよお、そのはずでした。どっかのイカれた馬鹿がイカれた事件を起こさなきゃ」
 ああ、とホークアイ中尉は頷いた。
「昨夜の事件、あなたが担当したのね。お疲れさま」
 遅番だった彼女は、報告をさっき受けたばかりなのだろう。
 昨夜、発電所で凝りもせずにテロ騒ぎがあった。間抜けなことにその直前に別のテロ団の爆弾誤爆騒ぎもあって、声明が前後するという冗談みたいな事態が起きて、おかげで発電所そのものは無傷でテロ集団を取り押さえることが出来た。
 ここに、たまたま借り出されたのがハボック麾下の小隊だった。なまじ事件が入り組んでいただけに、午後過ぎの今まで報告書の作成に時間を食われた。
「一度突っ返されましたよ、これじゃ事件の流れが全然判んねえって」
「そうね。まだ全部に目を通してはいないけど、現場の混乱具合は私にも伝わりました」
 きっついなあ。ハボックが笑うと、ハニーブロンドの中尉も口許を綻ばせた。
 彼女はいつも清潔に折り目正しく、後れ毛一筋もなく長い髪を後ろで束ねてアップにしている。胸元まで下ろしている私服姿を何度か見たこともあったが、綺麗な絹糸みたいな髪だった。同じ金髪でもハボックとはまるで違う。色も質も、まるで。加えてきちんと毎晩の手入れをかかさない、あれはそんな艶のある見事さだ。
 それは彼女の人物像からすると少し意外な気がした。試しに耳打ちしてみたら、同僚のハイマンス・ブレダは複雑な顔で笑って教えてくれた。
《多分、大佐のせいだろ》
《大佐?、なんでだ。大佐がわざわざ中尉に言いでもしたのか? 君は髪を伸ばした方が似合うよとでも》
 セクハラまがいの言動が多い上官だが、腹心の部下のホークアイ中尉には一目置いていて、彼女を決して女性扱いをしないのが常だった。だからこそ、ハボックはあの上官の女性蔑視の根の深さを見たと思った。
 尊敬の念、親愛の念の最高級の示し方が、彼女を決して口説かないことだなんてのはイカれてる。
《まさか。そんなことを中尉に言うわきゃねえだろう》
《だ、ろうな》
《でも賭けてもいいぜ。東部に来てからだ、中尉が髪を伸ばし始めたのは》
 ホークアイ中尉に男の影はない。それどころか家族も友人もその気配を感じさせない。彼女は女性ながらに、品評会にケース入りで出品したいような『完璧な』軍人だ。公正で潔癖で、軍人である以外の彼女を思い浮かべるのは難しいくらいに。
 そんな女が、毎夜自分の髪を丁寧に手入れをする。寝室で、鏡の前で。
 あるいはブレダの言うことは正しいのかもしれなかった。
 ハボックはそのことを考える度に不思議な感慨を覚える。気心の知れた、女くささをまったく感じさせない中尉でさえこうなのだ。同じ生き物とは思えないほど、彼女らがハボックにとって不可解な思考回路なのは道理だった。
「ところで大佐は?」
「あー、大人しく仕事してますよ。今日の分はさっき渡されて、そこに」
 中尉は自分の席に積まれた書類を眺めて、小首を傾げるような仕種をした。
「なんスか」
「まだ執務室に? 大佐も今日は早番では?」
 ハボックは肩を竦めて答えなかった。代わりに向いの席からブレダが口を出す。
「大佐も出動したんですよ」
「え?」
「そのう、大佐もですね、昨晩は夜勤で詰めてましたんで」
「それは知っています」
 ピシャリと中尉は叩き返した。
「───で?」
「で…、昨晩はハボックのとこの小隊が待機でしたから、通報が入った時点ですぐ出動になって、…」
 おい俺に説明させるな、という視線でブレダがこちらを見る。当たり前だ、その時点ではブレダは本部に不在だった。この司令本部で夜間上番していた将校は、ハボックと副司令官のロイ・マスタング大佐だけだった。
 ブレダに促され、仕方なくハボックは付け足した。
「あの人ついて来ちゃったんですよ。一言でまとめると」
「まとめ過ぎです」
 すんません、となぜか肩身の狭さを感じて謝罪する。
「その間、つまりこの本部には将官が不在だったというわけ?」
「…そうなりますね」
 他の部署には誰かしらが居ただろうが。少なくとも、司令本部直属の尉官以上の者は居なかった。
 言い訳半分で言うなら、ハボックだって一応は止めた。問題はこの「一応」というヤツで、死ぬ気で止めたのではないのは確かだった。
 行くぞ、と。
 簡潔にそれだけを上官は言った。従卒に任せずに自分でコートを取った。
 司令部交換室が最初に受付けた電話は、市内の公衆電話からだった。その録音記録をハボックは上官と共に確認した。最初の一声だけしか記録には残っていなかった。切羽詰まった響きで、もしもし、軍の警備担当への回線はこちらですか。
 それから爆音。多分、二度目の。
 後は交換手の女性事務官が必死に呼び掛ける声。もしかしたら男の呻きが少し聞こえたかもしれない。
 ハボックはその時、ハッとして横に立つ上官を見た。彼は無表情だった。毛筋ほども顔色を変えなかった。
 卓上の地図を見て位置を確認し、素早く小隊の集合をかけさせる。本来、それはハボックの領分だ。コートに腕を通しながら正面玄関に向かう上官に追い縋り、やめて下さいよとハボックは言った。何だよアンタむちゃくちゃだ。
 更に彼を追い越して、立ち塞がるようにして最後には怒鳴っていた。
《───居ませんよ! 誰を助けに行きたいのかは知りませんが! そこにあんたが助けたい人は居ない!》
 殴られるのを覚悟の台詞だった。なのにやはり彼は表情のない顔で、ただ一言だけ言ったのだ。
 行くぞ、と。
「それで、昨日分のノルマがこなせず、大佐は今現在も残業をなさっていると認識していいのかしら」
 夕刻前の時間に「残業」という単語も奇妙ではあるが、実際に早番上がりの人間がまだ仕事中というのは、他に形容のしようがない。
「中尉のその認識は、えー、非常に的確であると思われます!」
「自分もハボック少尉に同意するものであります!」
 少尉二人の場を和ませようとする努力は、逆に彼女の怒りをますます煽ったらしい。目尻を吊り上げながら、中尉が再び口を開きかけたのを見計らったように、
「失礼します!」
 元気よく入ってきた若者の声にハボックは助けられた。
「コーヒーをお持ちしました!」
「ああ、こっちだ」
 トレーごとコーヒーを受け取って立ち上がる。