葬送 -Requiem



 ジャン・ハボック。彼はある時期まで、自分をよくいる軍人向きの男だと思っていた。
 要は女と酒が好きで、いざとなったら拳で物事を解決する方がラクだと考えている単細胞。そうして軍人になった一番の理由はと尋ねられれば、『女にもてたかったから』とバカ正直に答える代わりに、『自分なりに国を憂いてであります、サー!』と真面目くさった顔で敬礼をしてみせる程度の知恵は持ち併せている、という意味合いにおいて。
 それがまかり間違って、兵学校から地方士官学校幹部養成科へ格上げなんて羽目になったのは、あの内乱による未曾有の人手不足のせいだった。
 俸給はざっと見積もっても二倍から三倍に、特別手当て配給もそれに習う。飯だって酒だって支給にありつき放題、それに金の三本線をチラつかせただけで、酒場の女共は向こうから縋りついてくること請け合いだ。
 そう耳打ちされて、断る間抜けも居ないと思った。
 ───割に合わねえ。
 やっと気付いた時には遅かった。金モールも徽章も見栄えはいいが、言ってしまえばそれだけだった。俸給の話も頭からの嘘ではないにしろ、肝心の使う暇がないときている。
 おまけに初っ端に当たった上官は最悪だった。襟を正せだの髪をとかせだの、尉官たるものの心得だのと、朝から晩までオウムのように同じことばかり囀る神経質な大尉殿。
 士官学校時代は「我慢してりゃいつかは終わる」と思えたものが、ジャン・ハボック『准尉』ともなれば「この延々と続くやっかいな日々には、少なくとも今は終わりが見えない」と、ようやく気付かされたというわけだ。
 軍人には二通りあって、大雑把に言えばそれは下士官と将校だ。自分はうまく立ち回れば特務曹長ぐらいには成り上がれる器量だと思っていたが、将校、しかも幹部候補なんてのには丸っきり不向きであったのだ。
《俺にはそうとも思えんがな》
 そんなことを真顔で言ったのは、東部士官学校同期のハイマンス・ブレダだった。こいつもかなり型破りの軍人で、上官の前以外で上着のボタンをはめているのを見たことがなかった。
 どの辺りを見ていてそう思う?、とこれも真顔でハボックは訊き返した。士官学校の、それなりに華やかな卒業セレモニーの行われた晩のことだった。
 同期の皆であちこちのパブやクラブを渡り歩いて、一つ覚えのように軍歌と国歌を唄い散らして、その度に帽子を天井まで投げ上げて、酔いつぶれた仲間を足元に見下ろしながらの会話だった。
 自分の座学の席次は地を這うほどで、それは今さら言うまでもブレダもよく知っていたはずだ。実際、最後の一年は綱渡りの心境だった。後期に士官学生も実戦投入されたのは幸運な──あるいは一部の者にとっては決定的に不幸な──アクシデントで、この件がなかったらハボックは卒業さえ危うかったろう。
 ハボックにはブレダが本気で言っているらしいのが心底に不思議だった。だがブレダは「判らないでいるお前がおかしい」という顔でハボックを見返しただけだった。酔っていたせいか、言葉を重ねて説明する親切心は見せなかった。
 しかしあの時のあのブレダの顔がなかったら、ハボックはとうに自分が軍属を抜けていたろうと今でも思う。
 もちろん、簡単に逃げ出せるような場所じゃない。アテにしていた恩給もパー、経歴によっちゃまともに次の食い扶持を見つけられるかどうかも怪しい上に、最悪、下手を打ったら軍法会議で禁固刑ものだ。仕官を死ぬほど反対していた田舎の両親には会わせる顔もない話だった。
 それから、後は意地だ。「貴様はそれでも軍人か!」と日々怒鳴りつけてくれた上官に対しての、自分なりの当てつけ。
 くそったれ、ここまで来たらそうそう簡単にドロップアウトなどしてやるもんか。せいぜいが死なない程度に踏ん張って、分不相応でない程度の昇級を果たし、後は可愛い女を見つけて孕ませ、人生晩年には孫子に囲まれての恩給生活。
 つまらねえな、とチラリと考えたのも本当だったが、ジャン・ハボックは自分の生き方に満足もしていた。
 それなりの人生。英雄になれるほどの才覚も度量もない代わりに、見合った平凡さと食い扶持とささやかな幸福なんてものを、自分はきっと手に入れることが出来るだろう。
 突然の辞令が降りたのはそんな時だった。
 新兵配属から半年経つや経たずで、栄転だとは言い含められても、態のいいやっかい払いをする気としか思えなかった。
 そこに至ってもハボック自身に不満はなかった。幸か不幸か、神経質なオウム大尉殿のおかげで、こいつに比べれば他はどんな上官でもマシに違いないと心から信じられた。
 ───すぐに後悔した。
 軍属になってから二度目の、人生においておそらく最悪最大の深い後悔。
 それこそ自分の人生なんてものが、ひどくちっぽけに思える瞬間があるということを、ジャン・ハボックはこの時まで知らなかった。
 信仰も哲学もロクなものを持ち合わせていない自分が、全てを投げ打って構わないと思える一瞬。このために生きていのだと思えるほどの一瞬。根こそぎに何もかもを持っていかれるような。嵐のような激しさと熱量。
 馬鹿げているのは承知していた。だが、これが正しいのか正しくないのか、真にそこまでの価値があるのかどうかも、今となってはどうでも良かった。
 ただ、そこに自分は居合わせたのだ。
 そんな落とし穴のあった自分の人生に、例えば運命の神様とかいった大層なものに、感謝をしていいのか恨み事をぼやいていいのか、ハボックには判らない。判ることはないだろうとも思う。
 多分、死ぬまで。





「大佐ぁ」
 おざなりなノックを一回、返事は待たずに上官の部屋のドアを開ける。閉める時は片足を使って、しかもくわえ煙草で入ってきた部下を眺めやり、ロイ・マスタングはその柳眉をしかめた。
「いい加減、言い飽きたんだが」
「書類、追加です。終わった分があったら持って行きますが。それともそろそろコーヒーでも用意させますか」
「少尉、ノックというのは返事を待つためにあるのではないかね?」
「はあ。そういう風習の地方もあるんでしょうね。俺はよくは知りませんが」
 何か言おうと口を開きかけ、しかし結局はため息を代わりについて上官は諦めた。
 手にしていた書類をデスクにどさりと積み上げながら、おやおやと内心でハボックは思う。この程度の減らず口に応戦なしとは、いつものロイ・マスタング大佐らしからぬ振るまいだ。五倍は返ってくる覚悟で突っかかってみせたのに。
 そんなハボックをロイはちらっと見上げて、
「すまんな、つき合ってやれなくて」
「は? 何がですか」
「これを中尉に。そっちはタイプ室にだ、さっさと持って行け」
 デスクの端の二つの書類の束を顎で示して、またインク壷と書類の山の間に戻ってしまう。
 ハボックは黙って上官の背後の窓の外を眺めた。雲ひとつなく、空は呆れるほどによく晴れ上がっていた。
「……少尉。何をしているんだ?」
「空を見てます」
「それは判る。私は言わなかったか? さっさと自分の仕事に戻りたまえ」
 イエッサー!、とわざとらしく踵を合わせた敬礼で答え、ハボックはデスクの上から書類を取り上げた。言われた通りにひとつの束は大部屋のホークアイ中尉の席へ、もうひとつは階下のタイプ室へ。
 急ぎですか、と事務官に尋ねられて、「多分」と灰皿を目で探しながら適当に返した。その答えが気に入らなかったのか、くわえ煙草なのが気に入らなかったのか(きっと両方だ)女性事務官は長身のハボックをキッと睨み上げた。
「この部屋には灰皿はありません」
「ああ、すまない」
「灰を落とさないで下さい!」
 先週までと随分と態度が違う。