Die Another Day



 そう考えれば、彼の態度は誠実だとさえ言えた。よそよそしくされたりはしなかった。おはよう少尉、とこちらは敬礼もしなかったのに、顔を合わせた途端に言ってくれた。
 随分とおかしな話だ。そんな彼の一挙一投足に、俺が一人で振り回されているだけなんだ。
 まったく滑稽で、おかしな話だ。
「ハボック少尉…?」
 様子を伺っていたらしいフュリー曹長が、ついにたまらずといったふうに声をかけてきた。
 大丈夫さ、とハボックは頭を振って、万年筆の尻でこめかみを叩いた。






 始末書を提出しに行った時、黒髪の上官は電話中だった。眼で「そこに置いておけ」と合図されて、黙ってハボックは書類を置いて執務室を出た。
 午後の一便にブレダ作成の書類も間に合った。強面の外見に反して、頭の回転が凄まじく早い同僚は、ハボックが口を出すほどの手間を取らせなかった。代わりにハボックは二つばかりブレダの抱えていた案件を引き受けた。
 一段落つき、遅れたランチを食堂でむさ苦しく二人でつついていると、夜に酒場に繰り出す約束をさせられた。営内では言い出しにくいが、奴なりに気を遣っているのだろうと思うと、素直に有り難いという気持ちが湧いた。
 その後、ハボックは軽装に着替えて、中庭の新兵訓練に加わった。上官の言葉をまともに受けたわけではなかったが、とにかく無性に身体を動かしたかった。もっとも本気で新兵に混じっての訓練ではない。指導教官側として参加した。
 武闘派で通っているらしい尉官の突然の参加に、新参たちは震え上がった。だが訓練にはお約束の『鉄拳による教育的指導』をこの教官が好まないというのを知ると、にわかに注目と人気を集めた。
 それでも叱咤を飛ばす時は怒鳴りもする。どうやっても捧げ銃の角度を合わせない馬鹿が居て、懲罰として練兵場の駆け足一○周を言い渡さざるをえなかった。後に引く形で個人への不満を隊内に残してはならない。それは長くなりつつある軍隊生活で学んだ智恵だった。
 横目でその様子を見ている内に、ハボックは理由のつけられない衝動に駆られる自分を感じた。苛立ちや焦燥、怒りにも似た衝動。そいつに背を小突かれるように、気付くと自分も懲罰兵に並走して練兵場を駆け出していた。並ばれた新兵も他の教官も仰天していたが、こうなると他人の眼はどうでもよかった。
 ひたすらに走った。長距離用のフォームを頭に描いて、その理想形で筋肉を動かし続けることで神経伝達をいっぱいにし、ただひたすらに踵とつま先で地面を蹴り続けた。何周目を回っているかも数えてはいなかった。
 走るために走る。息をするために肺を動かす。振り上げた右足の次は左足を。吐く息は均等に。振れる腕の角度はバランスよく最小限な動きで。
 その単純作業で脳が埋めつくされるのは快感だった。
「──…ク! おいッ、ハボーック!」
 叫ぶブレダの声が耳に入って、ハボックは唐突に立ち止まった。
「そのへんにしとけ!」
 どこから聞こえたのかとっさには判らない。自分の荒い呼吸と、がなり立てる心臓の鼓動が耳について、周囲の状況がうまく掴めなかった。
「バカヤロウ! お前、そいつ死ぬぞ!」
 汗だくの額をTシャツの肩でぬぐい、ようやく戻ってきた世界をぐるりと見渡す。少し離れたところで、さっきの新兵が今にもぶっ倒れそうな顔でよろめいていた。
 口は半開きで眼も顔色もヤバい。と思ったらそのまま棒っきれのように前につんのめる。
 間一髪で支えたのはブレダだった。
「オイッ 誰かこいつ救護室に運んでいけッ!」
 パラパラと新兵たちが駆け寄ってくる。
「ちょうどいい、救命実習もやっとけよ!」
 指示を出しながら彼らの手に仲間を預けて、ブレダはハボックに向き直って怒鳴った。
「お前の脚力に新人を付き合わせんな! いつまでもお前が走ってたら、横で懲罰者がやめるわけにいかねぇだろうがっ!」
「ああ、いや…、」
 息がまだ整わない。一○周程度で済まなかったのは感触で想像がついた。
「…そう、か。悪い」
 まだピクピクと動く腿の筋肉をさすって、ハボックは咳き込むようにして笑った。
「どうした」
「ハッ、今日は、お前に謝るの、何度目かなって、さ…」
「知るかよ」
 俯くと、汗と一緒に口の端から唾がこぼれた。確かに限界ギリギリまで走ったという実感があった。
 実感。ここに自分がいるという実感。生きているという実感。セックスにも似ている。あの人を抱いている時に感じた高揚感とも少し似ている。
「なあ、どしたよハボック。…今さらオメぇ、思春期の悩みでもないだろう」
 さぁどうかな、と笑って返しながらハボックは上体を起こした。
 空が青かった。二十歳を出たばかりのあの人が戦場で見たという空も、こんな色で瞳に映ったろうか。抜けるような空。雲ひとつない空。乾いた東部ではよく見る眺めだ。それはあの人に生きる実感を与えたろうか。
「───ヤベぇ」
「今度は何だ!」
「膝が笑ってきやがった。ブレダ、肩貸せ」
「やなこった。お前なんかにのしかかられたらこっちが潰れる」
 努力がいる。振り切るためには、それこそ死ぬ思いの努力が。



 アパートメントに戻ってきたのは深夜近くになってからだった。本気でブレダはハボックを酒場に引きずって行き、ブレダ曰く『ハボックの苦悩の種』を聞き出そうとした。
 もういいんだ、とハボックは言った。忘れることにしたんだ、もういいんだ。
 それだけで色恋沙汰だと感じ取ったブレダは、「お前、そのテの問題をいい加減仕事場に持ち込むな!」とごく真っ当な熱弁をふるっていた。
 仕事場に色恋を持ち込んだのではなく、正確には色恋が勝手に仕事場で派生したのだ。よっぽどそう反論してやろうかとも思ったが、下らない上に金髪の中尉への気持ちだと勘違いされても面倒なので、殊勝に「そうだな、反省するよ」とハボックは答えておいた。 
 無茶な運動と深酒とで足許は危なかった。それでも多少は周囲に気を配りながら、ハボックは上着を肩にアパートメントの正面階段をぶらぶらと上がりかけた。
「ご機嫌だな、少尉」
 突然、かけられた声にビクッとする。それが誰の声なのかは振り返らなくても判っていた。自分がこの声の主を取り違えるはずはなかった。
 なのに無意識に腰のガンホルダーに手が伸びていた。聞き間違えるはずがないと思えば思うだけ、本人がここに居るはずはないと確信を持って思えた。嘘だろう、と。
 肩から振り向きざま、声のした先にピタリと銃口を合わせる。
 向き合ったまま、しばらくハボックは一言も発せなかった。やがて相手はコートのポケットから両手を出して、軽い仕種でホールドアップの形を真似た。
「私だ、少尉。いつまでそうやっているつもりだ。銃を下ろせ」
「……え、だって、…」
「下ろせ!」