Die Another Day



 鋭く叫ばれ、慌てて銃を下げて安全装置をかけ直す。キョロキョロと周囲を見渡していると、「なんだ」と不審そうに訊かれた。
「あの、当番兵は?」
「居ない」
「はあっ?」
「置いてきた」
 さらりと流して、黒髪の上官はハボックを追って階段を上がってきた。
「ところでご覧の通り、私の息は白く凍えて身体も芯から冷えきっているんだ。中に入れてもらってもいいかね? それとも最初の訪問にして深夜に過ぎるかな?」
 見分けがつきにくいが、黒いコートは軍支給のものではなかった。襟内から覗くシャツも私服だった。それで、この男が一度帰宅してから、勝手に屋敷を抜け出して来たのだということが想像出来た。
 もしこれがバレたら、マスタング大佐邸の警護兵は懲罰モノだ。この人だって副官にどやされるくらいでは済まないだろう。
 今夜は本部で夜間上番のはずのホークアイ中尉に連絡を入れるべきか否か、ハボックは迷った。
「言っておくが」
 追い抜きざま、上官はハボックの胸を拳でトンと押した。
「今は私はプライベードだ。その私の行動についてお前がどうこう頭を巡らす必要はない。それからこれは冗談でなく本気で冷えきっているんだ。追い返すにしても部屋へ上げるにしても、頼むから結論は早く出してくれ。でなければ自主的に退散する」
「ま、…待ってください! 帰らないでください!」
 思いのほかに大声で叫んだらしい。ハボックの勢いに絶句したあと、上官は吹き出した。
「帰らないよ。お前が招いてくれるならな」
「…ほんとに?」
「ああ」
 だから、入れてくれ。苦笑とともに言われて、ハボックは後ろ手にアパートメントの玄関のノブを回した。


 ヤカンを火にかけて戻ってくると、彼はコートを片腕にしてまだ突っ立っていた。俯き気味の視線はどこかに真摯に向けられている。何をしているのかと横に回ってみれば、黙って男は手にした写真立てを眺めていた。
「あ、それは」
「家族か?」
「…そうです」
 ハボックが差し出した手にコートを預けながら、彼は写真立てを元の場所に戻した。
「わざわざ伏せてあるから、麗しい女性の写真かと思ったんだが」
「そういう趣味はないです。だいたい、今は付き合ってる女は……居ません」
 ふうん、と大して興味がないように彼は呟いた。それでますます、ハボックはこの男が何をしにこの部屋まで来たのかが判らなくなる。
 そのハボックの表情を読んだのか、
「慰労に来たんだよ、少尉」
 この部屋にはリビングなんてシャレたものはない。キッチンと続き部屋のダイニングと、狭苦しい寝室、ユニットバスで全部だ。食卓の椅子を引いて腰掛けた上官は、この安っぽい部屋に笑えるぐらい似合わなかった。
 それが何か腹立たしくて、ハボックは無意味に突っかかるような口調で言った。酔いも多少は残っていた。
「プライベートだっておっしゃいませんでしたか。不調で傍迷惑をかけまくってる部下への慰労ってんなら、どうぞ職場でお願いしますよ」
「いや? あくまでプライベートのつもりだが?」
「どこが」
「お前の苛立ちは上官である私へのものじゃない。一度は寝た相手に対する苛立ちなんだろう」
「そ、…っ」
 今度はハボックが絶句する番だった。
「だとしたら司令部で出す話題としては筋違いだ。私の言うことは間違っているか、ハボック」
 少尉、でなくファミリーネームだけで呼ばれたのが意味深だった。これまで彼にそんなふうに呼ばれたことはなかった。
「……俺は…」
 何を言いたいのか自分でも判らないまま口を開きかけた時、後ろでヤカンの吹きこぼれる音がした。
 慌ててハボックはキッチンに戻り、少し考えてから貰い物の真新しい紅茶の缶を開けた。司令部のコーヒーに彼がよく悪態をついているのを知っているからだった。
「ハボック。お前はどうしたいんだ?」
 出された紅茶のカップにも手を付けず、彼は真直ぐに尋ねてきた。
「私はお前を得難い部下だと思っている。まあ多少は…扱い辛い部分もなくはないが。得難く、失えないと思っている。それでは不満か?」
 いいえ、とハボックは答えた。
 それは全てが真実ではなかった。だが嘘では決してなかった。お前を失えないのだとこの人に言われて、歓喜に震える気持ちが嘘のはずはなかった。
「…おれ、」
 言葉を最後まで口にする前にハボックは横を向いた。なぜ涙がこぼれるのか自分で理解出来ない。感情が制御不能でどうしようもない。酔っているからだ、きっとそうだ。
「……ハボック」
「すい、ませ、…」
「なあ、泣くな。お前が私と寝たいというならそれでもいい。それを私は拒否しているわけじゃない。ただ、お前に全てはやれない。お前だけじゃない、誰にでもだ。それだけは誠意として伝えておく」
 ───好きなんです。
 あなたが好きだ、それだけなんです。
 言葉に出来たなら、多分ハボックはそんなことを伝えたかった。伝えられない代わりに腕を伸ばして彼を抱き締めた。逆らわない身体を力の限りに抱き締めた。
「……泣くな」
 抱いている今だけは自分のものだ。俺だけのものだ。
 それが嘘なのを承知で、ハボックは冷えた身体を胸に泣き続けた。




- end -

初稿 2006-10
改稿 2009-11





ここで一旦は終了。この二人の「寝てるんだけど、気持ち的にはまったくのすれ違い。しかも分かっててすれ違っている」関係は、オフセット本[オイフォリオン]に引き継がれてます。