Die Another Day



 直立不動で謝罪を続けるハボックと上官の間に、まあまあと割って入る者は今日はいない。頭から湯気を立てているのがここの実質最高責任者だというのがひとつ。ふたつ目の理由は、その副官のホークアイ中尉が、止める気配を見せていないからだった。彼女が口を挟まないなら、それは某かの正統性があるということだ。
 怒鳴るだけ怒鳴って、気が済んだというわけではなさそうだったが、ロイ・マスタング大佐は肩で息をしながら額を押さえた。
「中尉」
「はい」
 呼ばれて、初めてホークアイ中尉は自席から立った。
「セントラルへの連絡は?」
「訂正書類は本日中に発送する旨、伝えました」
「鉄道警備部隊へは」
「既に追加部隊は出発していますので、立ち寄る予定の駐屯地で連絡がつくよう手配済みです」
 慌ててハボックは口を挟んだ。
「すぐに書類を作成します!」
 チラ、と冷たい一瞥で上官はハボックを見た。
「その必要はない」
「…え」
「ブレダ少尉!」
「はっ」
「書類作成の引き継ぎを頼む。期限は今聞いた通り、午後の定時便に間に合うようにだ。詳細は中尉から聞いてくれ」
「了解しました」
 あの、とそれでもハボックは食い下がろうとした。だが大佐は取り付く島も与えず、踵を返して自分の執務室へと入って行った。
 しばらくは誰も何も言わなかった。
 慰めるつもりなのか追い討ちをかけるつもりなのか、それとも他意はないのか、最初に口を開いたのはホークアイ中尉だった。
「ハボック少尉、とりあえずあなたは始末書の提出を」
「……ハイ」
「そちらも本日中に。以上、勤務に戻りなさい。ブレダ少尉、書類の原本はタイプ室に確認して、訂正部分はハボック少尉から直接確認してください。作成後、大佐に承認を請う前に私も目を通します」
「了解です」
 のろのろとハボックは自分の席へ戻った。さすがに煙草に手を伸ばす気分にはならなかった。隣の席からフュリー曹長が気遣わしげな視線を送っていたが、下手な空元気で応えてみせるのも馬鹿ばかしかった。
「よ。邪魔すんぜ」
 気軽な調子を装って声をかけ、向いの席からブレダが自分の椅子を引きずって来た。
「なんだ、何を訂正すりゃいいんだって?」
「全部、かな…」
「んん?」
 全部、としか言い様がなかった。
 当方司令部に入る外部情報は、基本的に全てこの本部に一度は上げられることになっている。明らかに誤報・デマと分かっているものも含めてだ。それらの真偽を取捨選択を確認するのもハボックの仕事の内で、通信室から届いた『誤報』集を、うっかり真情報と混ぜてしまった。しかも最悪なことに緊急懸案と一緒にだ。
 それを大佐の承認印(もしくは副官の中尉の承認)がないことにも気付かず、通信員が緊急通達としてまた回してしまった。内容は東部メイン鉄道の分岐点・線路爆破予告。情報が入った時点で鉄道員には確認を入れ、既に異常なしで片がついている。
 しかし通達を受領し、ただちに最寄り駐屯地から部隊が出発した。結果的には、無意味に二個小隊を動かしたということになる。
「そりゃあ…その通信員も始末書もんだな」
「だと思う」
 事務勤めの彼女の名前を聞いただけで、ハボックもすぐに顔を思い浮かべることが出来た。確かに互いのミスが重なった結果だが、彼女の上官が必要以上に厳しい態度を取らなければいいと願う。
 一○○件の通報があれば、内の五○パーセントが確実にデマで、内の三○パーセントがあやふやで、精度の高い情報は五パーセントを出ない。
 その真偽を正して、誤情報を片っ端から潰すことから何ごとも始めるのだ。情報は有益かつ、貴重だった。どんなにいい加減なものでも取扱いには注意を要した。
「お前らしくもねぇなあ」
 同期のハイマンス・ブレダはその恰幅のいい身体をゆすって、『緊急』の赤判が入ってしまっている書類を数枚めくった。
「……仕事増やして、悪いな」
「お互い様ってとこか。ま、その内に旨い酒でも奢ってくれや」
 タイプ室で原本を改め、彼はこれから出動命令撤回の書類を作成する。通信ではホークアイ中尉の指示によって撤回命令は出されている。しかし、無駄に動かした部隊のための文字通り『言い訳』は、中央司令部宛で正式文書にて提出の必要が生じてくる。弾一発の扱いどころにもうるさいのが平時の軍隊というやつだ。それが二個小隊の誤出動ではシャレにもならない。
 重ねて、誰にとっても無駄な作業でしかなかった。
 意気消沈のハボックの口許に、ブレダは勝手に取った煙草を一本押し付けた。
「しゃんとしとけよ、お前はよ! ただでさえ目障りなくらいデカいってのに、それが背中丸めてりゃ辛気臭くてたまんねえ」
「すまん」
「奢れよ! 本気で!」
 肩を叩いて、ブレダは大部屋を出て行った。結局煙草には火をつけないまま箱に戻して、ハボックは始末書作成に取りかかった。
 せめてこっちを先にさっさと上げて、少しでもブレダを手伝うのが筋だろう。大佐が自分に訂正書類を任せなかったのには意味がある。自分一人で落とし前をつけられない方がはるかにキツい。
 何やってんだ、俺は。
 最後のこれが一番痛いが、凡ミスを含めれば今週は三件目だ。上官が人前で怒鳴ってみせるのも当然だった。普段、子飼いの部下には無茶苦茶なことを言う上官でも、案外と真義は通していた。現場以外で本気で声を荒げることも少なかった。
 叱責を受けた自分が情けない。これはいわゆる恋愛ボケってやつか。ここが戦場だったら確実に死んでいる。あるいは自分だけならともかく、周囲の者を危険に巻き込む。
 思ったあとで、苦笑ともため息ともつかないものがハボックの口からは漏れる。
 恋愛なんて。
 そんな上等なものじゃない。ただの一度も、そんな気持ちを交わしあったことはない。身体を繋げたら、そこで想いが通じ合うものだなんて、自惚れられるほど自分はスレていないわけじゃない。
 忘れた方がいいのは判っていた。始末書の書き出しを眺めて、ハボックは今度ははっきりと自嘲の形に唇を歪める。
 翌朝に何の態度も変わらなかったあの男を見て、それは痛感したはずだった。彼の近くに居たいのなら。彼の行く末を見届けたいのなら、こんな馬鹿げた感情は捨てるべきだ。その証拠にどうだ見てみろ、自分の足許さえ今は危うい。
 それに、そうだ薄情な女に惚れるのは慣れている。侮られるのも、あしらわれるのも。