Die Another Day



《まずいですか? 二人一組で巡回の規定があるのは分かってますが、私事でも単独行動が禁止なんて規定は……え?、あるんですか?》
 再び馬鹿笑いで返された。大佐に至っては執務机に突っ伏し、目尻の涙まで拭っていた。
《あなた、ねえちょっといい? ハボック少尉》
《はい》
《何のための複数員行動命令だと?》
《危険だからですよね? 軍人や憲兵を快く思わない者も多数居住し…》
《自分に照らし合わせようという気は?》
《は?》
《それを、我が身の危険としては認識しないわけ?》
 ハニーブロンドの少尉の顔を見つめて、ハボックは狼狽えた。なぜこんな基本的なことを尋ねられればならないのだろうと思った。
《我が身とは、思えないからです》
《なぜ》
 なぜ? そんなのは判りきっている。
《危険の程度が低いからですよ。下らない、当たり前じゃないですか。娼婦と酔っ払いとジャンキーが多いってだけが何だってんです。それで特別警戒地区だなんて、どこのお嬢さんに一人歩きをさせたくないんですか。宗教的テロ地区ってんならともかく、ふざけてますよ。過保護も大概にしろって俺は進言したいくらいですね!》
 語気は荒くなった。それほど笑われるようなことを言っているつもりもなかった。
 大佐はそんなハボックを面白そうに眺めていたが、やがて机端に手を伸ばし、あっけないくらい気軽に書類へサインを書き入れた。そうして最後にタン!、と印を捺すと、
《以上を許可する。主計官に回しておけ》
 突き返された紙っきれに、ハボックは気勢を削がれて彼を見返した。
 いつもの皮肉気な笑みでもなく、外面のいい、この男がよくやる隙のない愛想笑いでもなく。それは本気で楽しんでいる表情だった。
 こんな顔もするんだなと、少し不思議な気持ちになったのを覚えている。

 ───思えば。
 あの頃は『まだ』惚れてはいなかったはずだ。ただ、着任一年が過ぎようかという辺りで、「どう考えてもこの上官は変わってる」と改めて認識した一件ではあった。
 付け加えるなら、大家にはハボックの転居は喜ばれた。新入居者が軍人と聞いて、いかにも胡散臭げな連中が寄り付かなくなったからだ。番犬替わりとでも思っているのかもしれないが、家賃の差し引きまで申し出られた。階下の娼婦は時には夕飯まで差し入れてくれる。仲を深めておいて損はない、と見込まれたらしい。
 それらを後にヤケクソ気味で上官に自慢すると、冗談なのか本気なのか、「性病にだけは気を付けろよ」というアドバイスが返ってきた。自分が何と答えたのかは覚えていない。よもや馬鹿正直に「イエッサー、避妊具は常備します」とまでは言わなかったはずだが。
 そうして、興味の鉾先が彼個人に傾いていったのは、多分あの頃からだったろう。素顔を垣間見た気がしたのかもしれない。この男が他にどんな顔を持っているのかが知りたくなった。
 非番の日に呑みに誘ったのは確かあれのすぐ後だ。意外と酒に強くないのはその時に知った。他意なく同僚と二人がかりで酔い潰した。部下に担がれて戻ってきた官舎の主人に、警護兵は口を開けて驚いていた。
 それを見て、ああこいつらもこの男のこんな姿は見たことがなかったのだ、と優越感めいた気持ちがハボックには湧いた。我ながら奇妙な感情だと思っていたが、今なら判る。惚れたからだ。独占欲のようなものが自分の中にあったからだ。
 国軍一の女タラシと勇名を馳せる上官で、しかしまさか口説いた女相手にこんな醜態は晒すまい。人一倍、外面には気を配るタチらしかった。なのに、自分たちには気を許しているように思えて嬉しかった。
 だが門前で人事不省から立ち直られて、ここでいい、とあの時はすげなく追い返された。彼は警護当番兵の手を借り、瀟洒な邸宅の中へ入って行った。見送るハボックは玄関ホールを垣間見ただけだった。
 深いローズウッド色の階段の手摺、落ち着いた色調の毛足の長い絨毯。そういったごくありきたりな高級官舎の表装を、ツルリと指先で撫でたようなものだった。
 今は、違う。
 今は俺は知っている。あの人がどんなにいい加減にあそこで暮らしているか、部屋なんてせいぜいが書庫代わりで、どんなに生活そのものに興味がないか。どんな顔で眠りに落ちるか、どんな顔で昂って涙をこぼすか。
 どんな媚態で腰を揺らせて、あの酷薄そうな唇から哀訴を漏らすか…───。

 ハボックは浴びていたシャワーを水に切り替えた。骨に染みるような冷たさに奥歯を噛む。
 何だってんだ。朝っぱらからイカれてる。情熱真っ盛りのティーンエイジャーじゃあるまいし。
 そういえば、と思った。
 そういえば、俺はここ数年、本気で恋をしたことがあっただろうか。叶わぬ劣情に身を焦がして、枕を噛むような夜があっただろうか。
 女という生き物は純粋に好きだ。彼女らのくびれや膨らみは柔らかく、抱き締めると心地よかった。そして必ず、その奥には踏み込めない謎を持っていた。温室育ちの令嬢も街角の娼婦も例外はなかった。
 ハボックは、そんな女たちの謎の部分が好きだ。ただ綺麗な花を愛でるみたいに、花弁の奥に人知れず蜜をたたえている様を想像するのが好きだ。だがいつも別離が訪れる。彼女らはハボックが不誠実であると言う。分かってくれない、あなたには分かる気がない、言葉尻は違うながらも捨て台詞までいつも同じだ。
 謎めいた女に弱い。深い痛みがありそうな女に惹かれる。でも、それはいつからだっただろう?
 女の傷に触れるのは好まなかった。自分はそこにただ傷があるだけが好きだった。抱き合いながら、汗にまみれながら、女の痛みを想うのが好きだった。
 ───なのに、どうして。
 彼の傷を自分は知りたいと思うのか。その傷を舐めたい。痛みに溺れる唇から、細くこぼれる息をすすりたい。その顔を自分以外の誰の眼にも触れさせたくない。この昏い衝動。
 もう一度、と。
 願ったら彼はどんな顔をするんだろう。
 
 歯の根が噛み合わなくなってきて、ハボックは頭上から降り注ぐ水を温水に戻した。
 こうなるとティーンエイジャーより始末に悪い。なまじ経験があるだけに生々しい欲望が先を促す。記憶の追体験が止まらない。
 指先が遜色なく動く程度にまでは温まってから浴室を出る。手早く着替えながら、時計を見るつもりでふと窓辺の写真立てに目が止まった。家族の写真。姉と弟と、十四、五の頃の自分。それから子供たちの肩を抱く両親。
 無邪気に笑う人々から視線を外して、ハボックは写真立てを手荒く伏せた。




「いい加減にしろ!!」
 朝一番に大部屋に響き渡った怒鳴り声に、おそらくその場に居た全員が首を竦めた。当時者の二人以外は。
「事態を判っているのか!? どれだけの人数がこの件に煩わされたと思う!」
「申し訳ありません!」
「今週は何度目だ! ちょうどいい、外の新兵と一緒に訓練をやり直せ!」
「申し訳ありませんっ!」