Die Another Day



 つまらない夢を見た。
 子供の頃の夢だ。田舎町の小さな雑貨屋で、両親や姉弟たちと暮らしていた頃。町の人間たちを相手に、日用品を売るためだけの本当に小さな雑貨屋だった。学校から帰ると自分も店を手伝った。レジスター横の棚には重たい瓶のキャンディー入れがあった。時折、その中身をひと掴み貰えるのが雑貨屋の息子の何よりの特権だった。
 町とは称していても、ほとんどの住民が農業に従事していた。店と名の付くものはその雑貨屋と他にし食堂兼居酒屋が一件しかなかった。鉄道も通っていなかった。一番近くの駅までは馬車で半日をかけなければ辿り着けなかった。
 ただ、その町には細い街道が通っていた。炭坑と国境が比較的近かったからだ。開墾のしようもない町の外れの、そこから色を塗り替えたように赤茶けた岩石混じりの平原に、荒れた道が愚直なまでに一直線に突っ切っていた。
 炭坑で採掘された荷は鉄道を使って中央へ運ばれるのが常だったが、国境警備部隊の人員移動はこの街道を使って行われた。大した数でもなかったが──せいぜいジープとトラックが二、三台だった──年に二回、その街道を軍用車が行き来していた。
 その季節がやって来ると、子供たちは街道沿いに交替で見張りを立てる。いっぱしの指示伝達系統を作って、秘密作戦めいたものを子供なりに精一杯気取る。当時、まだガソリン自動車は珍しかった。町にはどこかからの払い下げのオンボロの車が一台あるだけだった。
 軍用ジープは埃にまみれながらも、眩しいほど勇ましく見えた。もちろん、それに乗る軍人も同様だった。
 運良く天候に恵まれれば、幌を外している車に子供たちは出会うことができた。くわえ煙草で、あるいは水筒を片手に、談笑している男たちは周囲の大人たちとはまるで違って見えた。彼らは子供たちに気付くと、気さくに車から乗り出し手を振ってくれた。
 中にはわざわざ車を停めて子供たちを差し招く軍人も居た。包装紙に軍用マークのついたチョコレートをくれる、気前のいい者も居た。チョコレートはすぐに腹に納まって消えてしまうが、その包装紙は丁寧に皺を伸ばしてまた畳み直され、少年たちの宝物になった。
 そうして、これは滅多にない僥倖だったが、ジープやトラックの上に子供を引き上げてくれることも。
 エンジンの音の大きさと振動に驚きながらも、歓声を上げる子供を軍人たちは粗野な言葉混じりで笑った。弾を抜いた小銃にも触らせてくれた。

 そんなある日、一人の軍人が子供たちに尋ねた。いつも必ずこの町では子供たちの歓迎を受けるが、どうして隊がここを通るのを知ることができるのか?
 歩哨兵を立ててるからだよ、と得意げに子供たちは答えてみせた。秋の頭と春の頭に、軍人さんたちが通るのは分かってるから。みんなで順番を決めて、あの丘の上からこっそり見張ってるんだ。大人たちにはバレないように。それで、車が見えたらあの木に旗を揚げて、それを見たらまた別の場所の奴が別の旗を揚げて、町中のみんながちゃんと分かるようにしてあるんだ。
 数カ所の旗印のポイントを確認して、軍人は感心したように言った。
 これを考えたのはどの子だ?
 その表情が真面目なものだっただけに、子供たちは一瞬躊躇して口を噤んだ。しかし進み出て、オレだよ、と自分は答えた。ひょっとして叱られるのだろうかとも思った。覚悟を決めてその軍人と対峙した。
 軍人は重ねて尋ねた。
 どうやって場所を選んだ? 丘はともかく、他のも適当じゃないんだろう?
 まず最初に丘の高台から一番遠い家を割り出し、そこから見える場所を確かめ、また次にその場所から丘に向かってギリギリ見える場所を確かめ、それらの作業を繰り返して旗を揚げる家や木を決めたのだ、と自分は正直に答えた。
 一日中は、でも見張れないんじゃないか?
 一日中、見張る必要はない。国境とこの町の間にある部隊駐屯地は、ここから約二五〇キロは離れている。そこを朝方に出発するのだとしたら、この町を通過するのはどうやっても午後だ。その時間帯に当たりをつけて、毎日交替で歩哨を立てればいいだけの話だ。第一、午前中からやっていたら学校や親にバレてしまう。午後の時間だけをみなでやり繰りして高台の歩哨に当たるのだ。
 説明を聞いて、その軍人は子供である自分の目線まで屈み込んで言った。
 君は、軍人に向いているのかもしれんな。
 それから大きな掌でくしゃっと頭を撫でてくれた。しっかり勉強しろよ、ボウズ。そう最後に言い足して、男たちは車のエンジンをふかし直した。さっきの軍人は先頭車両の助手席に乗り込んでいた。 
 助手席のその男の号令で車の列は再出発した。口々に叫びながら手を振る子供たちに応えて、彼らも手を振り返した。
 けれどもどうしてだか、その時の自分は手を振らなかった。
 いつものように、みなの先頭をきってジープの後を追い掛けて走りもしなかった。何か、説明のつかない何か熱の塊のようなものが、自分の中に住み着いたのが子供心にも判った。
 おそるおそる触らせてもらった小銃の冷たい感触、自分の頭を撫でてくれた固い掌の無骨さ、男が屈んだ時に間近に見えた襟章や徽章、──そういったものが脳裏にこびりついていた。
 他の子供たちが散り散りに解散しても、自分は随分と長いこと、車列の消えた街道の先を見つめて突っ立っていた。




「くっそ、寒いな…!」
 飛び起きてジャン・ハボックがまずしたことは、寝室のストーブに火を入れるのでも顔を洗うのでもなく、ベッドサイドのチェスト上から煙草の箱とライターを掴み取ることだった。一服二服を味わった後、ようやくストーブに屈み込んで、燃え残りの炭を底の方からひっくり返す。見つけた火種の傍に丸めた紙を放り込み、その上から炭ではなく乾いた木切れを何本か足してやると、赤々とした炎がさほど待たずに燃え上がる。
 この頃には一本目の煙草は根元近くまで灰になっている。それを灰皿に揉み消し、寝巻き替わりのTシャツとズボンを脱ぎ捨て、浴室へ。と言ってもバスタブはない。シャワーが設置されているだけの簡素な浴室だ。それでも二十四時間いつでもボイラーが使用できるというのは、このクラスのアパートメントにしては破格だった。
 これが気に入ってハボックは住まいを決めた。
 不規則な勤務時間の軍人である以上、深夜や早朝に帰宅するのはザラだった。司令部のシャワーを使うという手もあったが(実際、そうしている者は多い)、寝起きの悪い自分には『目が醒めた時にはまず煙草とシャワー』が必須条件で、多少ボロだろうが狭かろうが、壁が薄くて隣の部屋の睦み事が憚りもなく聞こえてこようが、これ以上の掘り出し物はないと思えた。
 あえて付け足すと、この地区は治安もあまり誉められたものではない。士官宿舎を出て新住居の更新を申請した時、直属の上官二人は馬鹿笑いした。呆れられるとは思っていたが、そこまで笑われるとは想像もしていなかった。ましてや、普段から厭味ったらしく人をからかう黒髪の大佐はともかく、冷静沈着、一部では『氷の女』とまで異名を取る女性中尉までが笑い転げたのは意外だった。
 何が可笑しいんですか、とふてくされた顔で尋ねると、
《お前の度胸に敬意を払ってるんだ》
 要旨を掴み辛い返事をしたのは黒髪の大佐で、
《自信家だ自信家だとは思ってたけど…少尉、やっぱりあなたは見上げた根性だわ。当然、服務規程を理解した上での申請なわけね?》
 中尉に言われて、やっと彼らの意図を呑み込んだ。
 アメストリス国軍では、集合官舎に居住していない場合でも、出勤・退勤時の軍服着用が義務付けられている。地方の駐屯地ではかなりおざなりの規定だったが、少なくとも司令本部のような場所においては、よほどの隠密行動でもない限り私服出勤の了解は得られない。
 つまり、いわゆる『治安の乱れが確認される特別警戒地区』を、軍服で堂々と一人ぶらつくと宣言したことを笑われたらしいのだ。