プレシャス・ガーデン



 親父ともお袋とも、ろくろく口をきいていない時期だった。弟を引き取りに来たのは連絡受けてすっ飛んで来た長男で、さすがに自分の車では来なかった。あの走り屋仕様の車体ではケーサツ関係者に眉を寄せられる自覚があったらしい。
 けれどタクシーで家に着くなり、
《───乗れ》
 問答無用の口調だった。弟に対して、意外や、ここまで高圧的な態度に出ることは少ない兄だった。
《乗れ、啓介》
 三度、繰り返されて啓介は慌てて車の助手席に乗り込んだ。兄の意図はまるで見えないままだった。かつ、この日は口答えも質問も許されない雰囲気が漂っていた。
 車はよく見知った市街地を抜け、地元の山道へと上がって行った。何だ何だと啓介が思う内に、頂上付近で車は素早くUターンした。
《……なに、すんの?》
 おそるおそる、やっと彼は兄に尋ねることが出来た。だが答えが返っては来ないだろうとも、うっすらと兄がどうする気でいるのかも悟っていた。
《グリップ、掴んでろ》
 フロントガラスの向こうに視線を据えて、言葉短く告げられる。やっぱりそれは啓介の想像したように『返事』ではなかったが、彼は大人しく従った。
 啓介に対してだけは普段は比較的温厚なこの兄が、もしかして本気で怒っているのかもしれない、とも思ったからだ。
 右手は包帯だらけな上に腕も吊ってる状態で、しかしかろうじて左手首から先は無傷だった。グリップを掴むのに支障はない。握って、こちらから声をかけるより早く、車は突然にスタートした。
 そのスピードは激烈だった。一瞬、シートベルトに身体が引き戻されたほどだ。
《アニ、……っ》
《黙ってろ、舌噛むぞ》
 言い捨て、兄の目は夜道のヘッドライトの先を睨み続けていた。と、コーナーが近付く。スピードは弛まない。むしろ逆に跳ね上がったようにさえ啓介には感じられた。
《……!》
 息を呑んだ。ぐん、と身体左側から重力がかかった。必死でアシストグリップを掴み直す。次は右から。肩が助手席ドアに押し付けられて、打撲した辺りが激しく痛んだ。だがそれを庇う余裕も時間もない。
 続く短いストレートを全開で駆け抜けた後、兄の左腕が滑らかに動いてシフトダウン、なのに踏み込んだアクセルは弛められた様子もなく、
《アニキ……ッ》
 今度こそ、啓介は悲鳴まがいに叫んでいた。常識では考えられないスピードで車体はコーナーに突っ込んで行く。ライトの先には、白いガードレールと暗闇だけ。
 まさかアニキ。
 死ぬ気かよ。
 真剣に思った。馬鹿な弟連れて、色んなことに見切りを付けて、ここでアンタ一緒に死ぬ気かよ、と。
 無意識に両目を閉じていた。おかげで左右、予想がつかない重力に振り回される。切り抜け、それにホッとする間もなく、すぐに次々と襲い掛かってくる悪夢みたいな圧力。身体のあちらこちらが軋みを上げる。
《…お前が》
 兄の声に啓介は目を開けた。
 この目まぐるしい状況、このスピード感の中で、異質に淡々とした響きだった。
《お前が、何かが辛いのは俺にだって分かってる。ひょっとして、それは俺の責任もあるんだと思う》
《アニキ、ちが、…》
《でも啓介》
 瞬間、兄は歯を食いしばったように見えた。あるいは連続する急なコーナーに挑み続ける、細かいステア操作のためにそう見えたのかもしれない。
《俺は、こんなことでお前を見失いたくないんだ。まだたった十七年しかお前と一緒に居ない。それじゃあんまりに短か過ぎる》
 シフトアップ。踏み込まれるアクセル。エンジン音のうなるような咆哮の中、兄の声はなぜか一言一言ハッキリと聞こえた。
《我侭だって罵られても構わない。だけど俺は、──俺はこんな、わけの分からない状況で、お前と引き離されたくはないんだよ…!》
 気付けば、また啓介は目を閉じていた。
 残像が残る。鮮やかに暗闇を切り裂くライト、迫るガードレール、それから陰影を伴って浮かぶ兄の白い横顔。決して明るくはない車内なのに、兄の表情が泣きそうに歪んだのを見たのは錯覚だろうか。
 瞼の裏側がぐっと熱くなった。息をするのが苦しかった。痛めた何本かの肋骨のせいだけじゃない。
《───ごめん》
《謝るな。謝られたいわけじゃ、ない》
《違う、でも、アニキ…ごめ…》
 言葉がうまく出て来ない。ついに、みっともなくも啓介は泣き出した。何年ぶりかの素直な感情の涙だった。止まらない。胸の奥から湧き出すように溢れ続ける。
 どのくらいそうしていたかは分からなかった。
 いつの間にか車はスピードを落として麓の通常道路に入っていた。国道沿いのコンビニの灯り、信号の灯り、何より車道の両側に灯る街灯が、静かな夜の街で眩しいほどだった。
《啓介……》
 優しく、隣から兄が名前を呼んだ。理屈的には快適であるハズもない、このスピードのみを追求し続けた美しい車は、今はその声と同じくらいに優しく啓介を包んでいた。
《なあ啓介。…帰ろう?》
 ステアを握っているのは当然兄で、行き先の決定権も当然ながら彼にあって、けれども兄は啓介に選択権をそうっと委ねた。
 帰ろう、と。一緒に同じ場所に帰ろう、──と。
 鼻水をすすって、うん、と啓介は頷いた。ウィンドウに押し付けるようにしていた顔を上げ、それから兄の方を見ながらちゃんと答えた。
《うん、アニキ。帰ろう。…帰るよ、オレ》
 あんたがそこに居てくれるなら。そこを、あんたが必ず帰る場所だと言うのなら。オレも帰る。あんたと一緒に居られる絶対の場所に。
 ───その時の兄の顔を、啓介は一生忘れはしないだろうと思う。
 気恥ずかしい言葉だが、そう、本当に花が綻ぶような。暗雲立ち篭めていた陰鬱な空に、光がパァッと射し込むような。
《ありがとう》
 どうしてだか兄は礼を言った。何だよソレ意味わかんねぇよ、と照れ隠しでぼやくと、
《お前が俺の弟で居てくれて。…感謝してるって意味だよ。ありがとう》
 馬鹿正直に兄は返事を寄越した。弟、の単語に、そりゃちょっぴりは引っ掛からないでもなかったが、《うん》と今はとりあえず素直にまた頷けた。
 そうして信号待ちでブレーキを踏みながら、兄も照れたみたいに呟いた。
《俺も、大概に人付き合いが下手だしな…。お前だけだ。預けていいって思える相手は》
 預ける、という意味をしばらく啓介は考えた。身体のことだけではないらしかった。でもきっと遠くもない。勘で思う、兄にとってはその二つはかなり近い場所に位置している。
 まだ鼻先に残る水分をすすって真面目に考察していると、やがて兄はチラッと視線をこちらに流した。
《悪い》
《へ? …なに?》
《この車、ティッシュボックスは乗せてないんだ》
《い…らねぇよ!》
《いるだろう。その顔はどう見ても》
 ちくしょう、帰ったら速攻で押し倒そうかとか人が思ってる時に。なんつームードのねぇことを抜かす人なのだ。
 いらねえったらいらねえッ!、と大きく啓介は叫び返して、ウィンドウを兄の制止も聞かずに全開で開けた。
 夜風がまだ火照った頬に気持ち良かった。



 あれから一年あまり。
 奇跡的に高校卒業単位も何とか賄えそうで(いや実は親父が学校側に相当捩じ込んだらしいが。こればかりは大人しく頭を下げた)、免停期間解除を待ち焦がれ、いそいそと免許センターに通う日々である。兄に言わせると「それより受験勉強が先だろう!」だそーだが、本人はまぁ至って呑気だ。
 だって大学なんかどこだっていい。この緩いオツムじゃ今からしゃかりきになったって高が知れてる。
 しょせんは親だってそう思ってる。「高校中途退学を奇跡的な更正によって免れたデキ悪い次男が、大学進学する気になっただけでも万々歳」と。代わりに期待は全部長男へ。申し訳ない気持ちが兄に対してはあったが、その内に啓介も気が付いた。
 この人、ホンキでプレッシャーなんてものを感じてねぇ。