プレシャス・ガーデン



 血の繋がった兄貴とニクタイカンケーを持っている。

 どちらかが養子だとか、せめて腹違い種違いとかいう事情はまるでない。生き別れていて知り合ってからそれを互いに知っただとかいう、ドラマチックな展開もまったく無用。正真正銘、生まれた時から同じ屋根の下で過ごす実の兄貴だ。
 問題は。
 と、ここで弟・啓介は首をひねる。問題は、自分がそれに何の違和感も抵抗感も、カケラっほども持ち合わせていないということなのだろう。
 実際、どこをひねくり回してもそんな感情は出て来なかった。逆さに振られよーが蹴っ飛ばされよーが、だって無いものは無いのだ、しょーがない。この辺りの割り切り加減は、己が事ながらいっそ清々しいほどの潔さだ。
 一番最初は、まぁ今にして思えば子供の『触りっこ』レベルの戯れから始まった。生えたの生えないの、オネショしただのバカだなお前それはオネショじゃないよだの、わーニーチャンたいへんだオレやっぱ病気かもっ、だから違うってよく聞け啓介っ!、だの。
 言い様によっちゃ、微笑ましい幼い兄弟の会話から。
 啓介の兄はその当時も、神童、天才の名を欲しいままにしていたお子様だった。小学校中学年にして親父の書斎で医学書眺めるのが楽しみの一つという、とんでもないガキだった。そしてかなり理屈っぽかった。己より更に幼い弟に図解入り医学書を指し示してみせ、一生懸命に小難しい解説を並べ立てた。
 もちろん、そんなモンをごくごくフツーの低学年生が飲み込めるはずはない。悲しいかな、兄の努力はほとんど報われなかった。だからさ、と結局はため息で、兄は弟に『実践的』な説明を余儀無くされた。
 ───後になって思えば。
 と、ここでまた啓介は一人で苦笑する。
 なまじ自分の性的発育が、人より早かったのがこの件を大いにややこしくしたのかもしれなかった。周囲の誰一人も、おまけに自分自身ですら、このテの知識がこの歳の少年に必要だとは思ってなかった。そんな程度にはまだ幼くて、なので彼が「何でも出来る。何でも知ってる」と信望してやまない兄貴のところに、半ベソで駆け込んで行ったのは当然の結果と言えるだろう。
 月日と共に行為は当然のようにエスカレートしていった。あるいは、彼は確信犯的に、細心の注意を払って兄との関係を深い場所までもつれ込ませた。
 それはもう細心に細心を重ねて。通信簿に「落ち着きが足りない」「物事に対して大雑把すぎる」と毎回毎回書かれる彼にしてみれば、恐ろしいまでの注意力と気配りと、湯水のように精神力を注ぎ込んだ成果でもあった。
 ただ、と十九の歳を数えようとする現在、啓介は少しだけ後悔している。
 惜しむらくは、彼はうまくやり過ぎた。あまりに自然に、ごくごく生活に密着した習慣として、兄との関係を築き上げ過ぎた。
 それをハッキリ自覚したのは十七の時で、兄に『お前とは恋愛は出来ない』と爆弾発言をかまされた時だった。
 まさにこっちにしたら爆弾だ。何言ってんだあんたは、と思わず怒鳴りつけそうになった。この後に及んで。あそこまでオレにあんたを好きにさせて。
 だがしなかったのは、兄が『本気で』そう思っているのが分かったせいだ。
《どうして?》
 精一杯平静を装って尋ねた弟に、兄弟だから、と兄はそれこそ今さら後ろにひっくり返りそうに倫理的な台詞をのたもうた。
《当たり前だろ、兄弟なんだから》
 前々からうっすら思っていたある種の予想を、啓介はこの時、確定レベルまで引き上げた。
 ───この人、やっぱ価値観がどっか常人と違うとこにぶっ飛んでやがる。
 頭がイイ頭がイイとは分かっちゃいたが、下手すりゃナントカと紙一重な部分があるのはよく知っていた。時には唐突にワケの分からん(と、啓介には思えた)理論だか数式だかと何日もとっ組んでいて、やけに晴れ晴れとした顔で現れたと思ったら、弟が「勘弁して下さい!」と叫ぶまでとうとうと語り続けたりもすることがあった。
 コワいのは、自分の感覚が「他と違う」ことに、兄自身がピンと来ていないという凄い事実だ。しかしそれが一般生活レベルまではギリギリ及んでいないらしいのを、弟は影ながらホッとしつつも眺めていたのだ。
 だがこれは違う。どー考えてもおかしい。
 肉体関係はオッケーで、気持ちだけはノーっつうのは、あえて世間の常識──なんてモノがこの際どの程度必要とされているのかは甚だ疑問だが──で考えたら逆じゃないのか? 気持ちのないセックスの方が、世間一般の「倫理観」とやらに、外れる行為とされてるのじゃないか?
 けれど、それを討論しても埒があかないのは啓介にも分かっていた。だいたい口で兄に勝てたと思えた覚えも一度も無かった。
 彼が兄に勝てる方法は一つだけだ。明言すると無茶苦茶に情けなく聞こえるが、要は兄の方から折れさせること。兄自身が諦め、もしくは納得して、歩み寄ってくれる気になった場合。
 そうして、啓介は経験的に知っていた。ケースによっては、それが凄まじく手間と時間がかかることを。
 手間はともかく、厄介なのはこの時間ってヤツだ。押してもダメだ。そんなことじゃこの人の気持ちは揺らせられない。ひたすら、きっと自分は待たなくてはいけないのだ。
 その、おそらくは永い永い時間に思いを馳せて、気が遠くなりそうになった彼だった。
 抱き締めて、頬に唇を寄せて、あんなに切ないだけだったのは後にも先にもあの夜だけだ。
 まだ春には早い冷たい夜。忘れられない、怖くてキスも出来ないままだった。気持ちがそこに無いのが、こんなに寂しくて切ないことだと、どうして賢いこの人には分からないんだろう。
 そう思いながら、世界で一番大好きな人と、身体だけ抱き合った十七の夜。……けっこー泣ける。

 その後、彼は少々(あるいは、かなり)乱れた思春期を過ごす羽目となる。だって悔しくって、馬鹿ばかしくって。
 こんなにこんなに好きだって思ってるのに、自分はそれを伝える努力を惜しんでやしないのに、相手に『受け取る気がまるで無い』のだ。そのくせセックスに際しては拒絶が無い。伸ばした腕に逆らわないどころか、実は兄もそれなりに…ノリノリだったりする夜もある。
 ぶっちゃけ、身体の相性も悪くは無かった。つーか、良いハズだった。これは啓介の数ある実践経験の感想によるためデータ的に裏づけも取れている。いや、細かい突っ込みを入れると確かに他は皆女性であるので──そこに関しては比較対象のモレがあるのは否めないが。
 寝てぇな、もしくはヤんのもアリだな、と思う不特定多数相手と関係に及ぶのは、案外と彼にとっては簡単なことだった。親に感謝の気持ちを抱くチャンスは滅多にないが容姿関連にだけは素直に感謝。ツラもそこそこ良けりゃタッパだってある。おまけに財布の感覚も同年輩のヤツらと我ながらひと桁違う。これで周囲に人が賑わないワケが無い。
 ただし、彼は自分で気付いていない。その恵まれ過ぎた環境こそが、彼をいつまでも兄貴離れ出来なくさせていることを。
 どんなキレイな女も、つるんで退屈しないダチ達も、彼の陰を癒す足しにはならなかった。いつだって知らず知らずに彼には自信がなかった。あまりに恵まれたそれ以外の部分、容姿や財布具合といった即物的部分以外で、本気で自分を見ている相手が居るとは信じてなかった。
 ダチに誘われ、バイクに血道を上げ始めたのはそんな時だ。
 自惚れでなく、どうやら自分にはある種の才能があるらしい。最初はバイクのメーカーやその金のかかり具合を誉めそやしていたヤツらが、その内に彼のテクニックや度胸を口々に称賛するようになっていく。
 オレ自身だ。これは、オレだ。
 身の震えるような昂奮というものを啓介は生まれて初めて味わった。もちろん、両親の覚えはめでたくなかった。けたたましい騒音を引き連れて帰って来る息子と、派手な服装のその仲間を眺め、これみよがしに眉をしかめた。
 正直、啓介はそんなのはどうでもよかった。なのに兄の反応だけが怖かった。もしあの兄貴にあからさまな軽蔑の視線を向けられでもしたら、啓介は比喩でなく本気で死ねそうだ。速攻、自分で息の根を止めそうだ。
 だが、兄はそういった反応には及ばなかった。ただ少しため息をついて《…そっか。お前はバイクの方が好きなんだな》と寂しそうに呟いた。
 その言葉の意味はすぐに分かった。兄は大学の推薦入試が終わった直後から、大学デビューも果たす前から、なんといきなり四輪に入れあげ始めた。しかもこのハッチャケ弟が「ハンパねぇ」と舌を巻く勢いで。
 スピードが好きらしい、のは選んだ車種から簡単に想像がついた。ならどーせだったら二輪に興味持ってくれりゃ良かったのに、と啓介にしたって残念に思った。ニクタイカンケーのすれ違いを除けば、啓介は珍しく兄貴に対して「分かっちゃいねー」という気持ちを抱いた。
 スピードを追求してスリルの中に身を置きたいなら、何と言ってもバイクが一番に決まってる。マシンとまさに一体となり、身体ごとで風を切る方が、芯の芯まで昂奮出来るに決まってる。
 と、後にこれは発想の大転換を迫られることとなる。
 まず第一に。
 兄は「スリル」を求めているのとはちょっと違った。求めてないこともまったくなくはなかろうが、兄が真実求めているのは、ひたすらに「最速でありうる」ということだった。要は理屈であり理論であり、まっさらでピカピカのデータだった。
 やがてバイクのグループ同士の抗争で、啓介が派手に怪我して免停をくらった時。病院から帰って来るなり、兄は《乗れ》と自分の白い車を指し示した。