君のために出来ること。



「へえ…」
 投げ出すように靴を脱ぎ、啓介が階段を上がってくる。普通だ、しごく普通に喋ってるのに。どうして遠いと思うのか本気で不思議だ。
 真正面に立たれても腰を上げない涼介に、啓介は少し屈んでもう一度尋ねた。
「どしたの、アニキ。まさか、どっか具合悪ィ?」
「いや。手を貸せよ」
「……うん」
 心無しか、触るのを避けられている。やっぱりそれは気のせいじゃない。涼介が自分から手を出して待っているのに、少しためらう素振りで啓介は腕を伸ばした。
 嫌がらせ混じり、下段にいる啓介に思いきり体重をかけて立ち上がる。ふ、と息を吐いて体勢を立て直してから、涼介は鞄を拾うために屈みかけた。
「アニキ、……」
「なんだ?」
 呼ばれて顔を上げると、なぜだか啓介は目を大きく見開いて涼介を見ていた。それから眉をしかめて、一瞬悩む表情を浮かべてから、
「ちょっとゴメン!」
 いきなり両肩を鷲掴んできた。
「啓介、な、あぶな…っ」
 よろけて、また弟に縋りつくような形になる。それを下から支えて、啓介は鼻先をぎゅーっと涼介の肩口に押し付ける。
「何やってんだっ 危ないだろ!」
「──アニキ、呑み屋に居たのか?」
「え? いいや、今日は別に呑んじゃいないが」
「どこに居たのさ?」
「何でそんなこと」
「いいからッ どこに居たって、訊いてんだよッ」
 下からとは言え、凄まじい勢いで意味も分からず弟に怒鳴られ、さすがの涼介もムカッときた。
「何だって、そんなことをお前に申告しなきゃいけないんだ!」
「言えねーよーなとこに居たのかよ!」
「関係ないだろ!」
「言えねえんだなッ」
 どうどう巡りの怒鳴りあいに陥りかける。その馬鹿ばかしさに気付いたのは、兄弟喧嘩の常がそうであるように兄貴の方で、涼介は啓介の腕を振り払ってから叫び返した。
「史浩と居たんだよ! いつものファミレスに!」
 負けたと形容するより、これは諦観に近い。いくら今の機嫌が悪かろうとも、弟の駄々に慣れた長男の習性とでも言うべきか。
 なのに、啓介の反応ときたらば、涼介にはまったく理解が出来なかった。上目遣いで涼介を睨み上げ、唇を噛んでからボソリと言う。
「ウソだね」
「…何だって?」
「ウソだな! そんな、ファミレスで史浩と居たくらいで、こんな匂い…。誰かとよっぽどくっついてねーと、ここまで匂いは移んねぇだろうが!」
 何のこっちゃ。
 と、涼介が瞬間思っても、責められる筋合いではないはずだ。両目を瞬かせて、「意味が分からん」と顔に書いて突っ立っていると、とうとう啓介は逆ギレたように喚き散らした。
「アニキ、煙草くせーんだよッ セーターに思いっきし匂いが残ってんじゃねえか!」
 ───ああ。はい。
 本日、涼介が着ているのは毛糸の軽めのセーターだった。鼻を肩に寄せて、クン、と自分でも嗅いでみる。確かにちょっとは…するかもしれない?
「おい、凄いな。お前自分も吸ってて人の匂いが分かるのか? 人間離れした獣なみの嗅覚だ。あ、今度ウチの大学きて計らせろよ」
「あんた、ビミョーに話を逸らそうとしてんだろう…」
 そんなつもりは、毛頭ない。ただ本気の本気で驚いただけで。
「自分で吸った」
「ああっ?」
 ごまかしてんじゃねーぞ、と凄む弟は、さすが元いっぱしのヤンキーだ。
「本当だ、自分で吸った。証拠品ならそこにある」
 史浩の煙草を勝手に四、五本吸いまくったので、いいと言われても詫びにその場で一箱、買って渡した。ものがキャビンなだけに、ごく当たり前にファミレス内で売っていた。その際、深い意味なく吸いかけの箱は返さなかった。残り一本で、わざわざ渡すのにみみっちさを感じたせいもきっとある。
 鞄を開けて、その『みみっちい』箱を渡してやると、啓介は鳩が豆鉄砲くらったような顔でそれを眺めた。
「吸った? アニキが煙草を?」
「何となくな。場がもたなくて…。おい、全部じゃないぞ、元は史浩のだったんだから」
 ほら、とダメ押しで指先を差し出してやる。くんくんくん、とどう見ても犬みたいな仕種で鼻をひくつかせ、やっと「…ほんとだ」と啓介は呟いた。
「だいたい、俺に煙草の匂いがしたぐらいで、そこまで凄むお前もおかしいぞ」
「き、気になるじゃねえかよ! あんたの周りって、ヘビースモーカー居ねえのによ」
「お前以外はな」
「そうっ、オレ以外はね!」
 ヤンキー時代引きずり、その悪癖だけはどうやっても治せなかった。涼介の自室を禁煙にするのが精一杯で。
「久し振りに駄々こねてるお前と戦った気分だよ…」
 ぼやくと、啓介は口元を歪めて、「違うだろ」とまたボソボソと呟いた。
「そうか?」
「ちっがうだろう! これは、これはな、男の嫉妬なの!」
 しっと。
 単語を飲み込むのにしばらくかかった。
「……。誰が? 誰に?」
「オレ、オレが! あんたに匂い移すほど接近してベタついてた、見も知らねえヤローだかオンナにだよ! いや居なかったんだけどっ」
 はあ。と相槌とも何ともつかぬものを漏らして、涼介はまじまじと啓介の顔を見返してしまった。
「ちぇ、…あんた分かってねえから。オレはホントはスゲェ独占欲激しいタイプなんだぞ…」
 その割には。
 愚痴っぽく漏らしかけ、今度は涼介が唇を噛む番だった。
「え? その割には?」
 あーチクショウ、言いたくない。でも、もう何だか。こうして弟と向かいあって久し振りに喋ってるって、それだけで、自分の栓みたいなものがゆるゆるになっていく感じがしてる。ゆるゆるに、融けて流れ出して、弟の腕や肩に縋りついてしまいそうに。
「その割には、お前…」
「うん」