君のために出来ること。



 案外、親身になりすぎてこういったことの冷静なジャッジには向いてない。他人にはそこそこシビアに突き放した言動もするくせして(なのに一見はそうは見えないらしいのは人徳か)、一度、己の身内と判断した相手にはつくづく甘い。泣こうが怒ろうが喚こうが、付き合うと決めた件にはとことん付き合う。要はお人好しスレスレ、『情に篤い』タイプってやつだ。
 …や、知ってたけどね。でなきゃこんな自分と長々付き合いも続くまい。腐れ縁では片付け切れない縁の深さを、そろそろ感じ始めている相手でもあった。何か面白い(あるいは面倒な)ことをおっ始める時には、こいつにまずは一声かけて(あるいは絶対巻き込んで)やろうかなと思うほどには。
 しかしまあ何にせよ。
 ───しばらく、この店には来れないな。
 なんとなーく周囲あちこちから伺われている視線を感じながら、ほとんど開き直った気持ちで、涼介は煙草の煙を肩口に吐き出した。


「ただいま」
 お帰りー!、という明るい声は、今日も玄関口で返って来ない。車庫に車がないのを分かっていても、涼介は奇妙に切ない気持ちでキーを置く。
 両親は今夜も居ないようだった。キッチンのスケジュールボードは確かめていなかったが、きっとマンションの方に泊まりだろう。月末は医療関係の事務が大忙しだ。
 寂しい、よりは。
 切ない。
 ここまで最近の自分が、弟に依存していたとは知らなかった。彼がバイクの仲間と暴走行為にふけっている時も、『心配』ではあったが『切なく』はなかった。戯れに時折続く、身体の接触のせいもあったかもしれない。
 そう、身体の接触。スキンシップなんて生ぬるい言葉を通り過ぎ、奥の奥まで繋げるセックス。大して意味のあるものではないと思っていたのは、浅はかな子供の時分のことだった。
 意外にも、それに先に気付いていたのは弟だった。お恥ずかしながら指摘されてから初めて涼介は自覚した。弟が。弟だけしか。自分が奥の奥まで、底の底まで、繋がりたい相手は居ないのだという凄い事実に。
 自覚した途端、実は大いに慌てた。そんな排他的な生き方、人としてはどーなのか。社会生活的に問題じゃないか。
 しかし、けろっとして弟は言った。
《今までと変わんねぇよ?》
 変わんねえよ、何言ってんだよアニキ。オレたち、ずっと一緒に今まで居たよな?、ずっとお互いが好きだった。それは帰る場所があるってことなんだよ、絶対に安心出来る場所があるってイミなんだ。
 ───待て待て、オトウト。ちょっとそれは詭弁くさい。
 詭弁?、違うよ。だからオレ、出かけたアニキに言うのが好きだよ、お帰りって。あんたが帰って来るって知ってるから、お帰りって言いたくて待ってられるよ。オヤジやオフクロも家の中には居る時あるし、史浩やチームのみんなとワイワイやるのも楽しいけどさ。朝ンなったらオレだって出かけるし、オレたち別々に学校行くし、アニキも知らないダチだって居るんだから、そりゃアニキにだってオレの知らない人間関係もあるんだと思う。でもさ、帰って来るんだよ。オレはアニキのとこに、アニキはオレんとこにいつだってさ。
 お帰りって、そしたらまたこうやってギューってすんの、オレは好きだな。それってアニキの言うハイタテキとかなんとか言うのと、きっと違うよ。
 ───な、だいじょうぶ。
 ポンポンと肩を抱かれて、涼介は弟の口のうまさに目眩がした。そんでもって、耳まで赤くなりそうな自分に狼狽えた。
 バカやろう、とその時には無意味に罵り、弟の腕を振払うしか出来なかった。だが見ると弟は笑っていた。頬の熱さはごまかせなかった。
 チクショウと思った。本当にもう、チクショウ、だ。
 甘やかすことはあっても、二つ下のこの弟に甘やかされることがあるなんて思ってなかった。だいたい、長男としてそこそこ厳しく躾けられて育った涼介は、甘やかされる、なんてのにはそもそも慣れてなかった。
 なのにお前、チクショウ。あんな腕と抱擁が必要だなんて、俺に今さらガキみたいな自覚を植え付けて。
 居ないじゃないか。帰って来ても、お前の声が俺を迎えない。何が「お帰りって言うのが好き」だよ、大バカやろう。
 ───あ、ヤバいぞ俺。泣きそうかも。
 思考の巡りのあまりの下らなさに、思わず階段途中で座り込む。開いた膝の間で頭を押さえ、涼介は深々と嘆息した。
 と、聞き慣れたエンジン音が響いてくる。腕の時計を見ると深夜2時。立たなきゃな、とはぼんやり思う。このままでは、玄関を開けた弟と正面から向かい合う形になってしまう。…そう、よく弟が自分を迎え入れてくれてた、あの体勢で。
 そんなカワイイ真似、今だけはしたくない。第一、どんな顔をすればいいのかも分からない。立って、脇の鞄を拾って階段を上がらねば。
 とは思いはするが、どうにも足が動かない。根でも生えたみたいに身体が重い。どーしたもんか、参ったな…。
 ガレージが開いた。車が細かいタイヤ音で滑り込む。エンジンをタイマーに切り替え、ガレージがまた閉まる音がして、3段ばかりのコンクリートの階段を上がり、玄関の鍵が回って、
「たっだいまーっと」
「……お帰り」
「わあ!」
 そうか、お前。ドアを開ける時、一人でもいつもそんな全開で開けるのか。知らなかったよ、変なクセだ。
「な、何やってんの、アニキ!?」
 それには答えず、「走って来たのか?」と無表情に質問だけ投げる。
「あー、うん。…うん、そう」
 啓介は頭の後ろをぼさぼさとかいて、横のチェスト上の陶器のケースに、FCのキーと並べて自分のFDのキーを落とし込んだ。
 何となく習慣でそうする兄弟だった。親父のベンツや母親のワーゲンのキーも家にある時はそこに置かれる。その2台と違って、兄弟の車を自身以外が動かすことはあり得ないのに、思えばこれも奇妙なクセだ。
 そう言えば、と涼介は思い返す。
 子供の時は自転車のキーもそこにしまったものだったが、バイクのキーだけは啓介はケースに並べようとしなかった。深く考えたこともなかったけれど。そうして、FDのキーがそこにあるのに気付いた時も、当たり前のように受け止めていたけれど。
 ───いつか、俺の知らない場所にお前はキーをしまうこともあるのかな。
 俺じゃない誰かが、お前に『お帰り』って言葉をかける時も来るのかな。
「アニキどしたの? オレを待っててくれた、…ってのじゃなさそーだけどさ」
 チラッと、啓介の視線が涼介の脇に置かれた鞄に注がれる。
「アニキも帰ったばっか? 遅かったね」
「そう言うお前は随分と早かったな」
 らしくなく厭味を言ったつもりだったのに、啓介は額面通りに素直に受け取り、
「そー、今日なんかヘンな奴らがつるんで上がって来やがってさー! 対抗車も多くなっちまって、あんまりウゼぇからさっさと引き上げた」