Everybody Wants To Rule The World



 カウンター型の仕切り向こうに見えるキッチンでは、その弟が鼻歌混じりで小鍋をレンジの火にかけている。どうやら軍配はココアに上がったらしい。それらを横目に、涼介は自分の定位置のソファに腰を下ろした。
 高校途中からやけに荒れ始めた弟だったが、最近はだいぶ周囲も本人も落ち着いてきた。マフラー改造したバイクが連なって、夜中に家の真ん前に停まるようなことも無くなった。
 一時期は取っ替え引っ替えだった『女友達』も──この頃はすっかりナリを潜めた。
 見せびらかすように、それは何かを必死で誇示するように。弟の不安定さをかい間見るようで、兄としても胸が痛むご乱行だった。
 けれども過ぎ去ってみれば、そんな涼介をあざ笑うかのように思いのほか弟の本質は変わってはいなかった。まっ黄色になった髪と派手めの服装は置くとして、笑顔もまっさらのあの視線も子供の時のままだった。
 ヤンチャの治まった理由としては、一つに四輪免許を取りに通い始めたことがあると思う。
 高校停学だの自主退学寸前だの、啓介は親を散々に手こずらせて、その見返り(普通は逆だ)で既に二輪免許と馬鹿高いレーサーレプリカタイプのバイクは手に入れていた。もっとも、そこいらに関してだけは涼介にだって大きいことを言えた義理ではない。自分も大学進学祝いの先取りで、金食い虫なスポーツカーを買わせた実績があった。
 わが子に対して時間を割けない負い目なのか、とかく財布の緩さにかけては尋常でない両親だった。子供の時から何かをねだって買ってもらえなかったことは一度も無かった。
 それでも、啓介の金の使わせ方は兄貴から見ても目に余った。どうして両親がそれを咎めないのか──その与える自由が逆に彼を傷つけ続けていることに気付かないのか──涼介にはずっと大きな疑問でもあった。
 十代半ばを過ぎての弟は、いつも自分が何が欲しいか分かっていなかった。少なくとも涼介にはそう見えた。
 目標が分からず不自由そうに苛ついて、まるで人に慣れない野良猫のように、ピリピリと思春期を過ごしていた。涼介の言うことにさえ耳を貸さない時期もあった。
 それが、兄の影響で四輪に興味を持ち始めてから一変した。あっけないほど彼は以前の明るさを取り戻した。
 今では嬉々として教習所に通う毎日だ。涼介がきつく止めなければ、学校をサボッてでも教習に励みかねない極端さだった。
「そういやお前さ、」
 ちょうどリビングにうろうろと現れた弟の背中に、涼介は何とはなしに声をかけた。
「ンー?」
「免許どうなったんだ? そろそろ取れてもいいんじゃないか? 仮免から後の報告を聞かないが」
「そ…うなんだけどさ! ちょっと、その、筆記の方でつまづいちまってて」
「はあ? お前、だって二輪免許あるのに、何だって今さら筆記の試験受け直してるんだ」
 そこで、苦虫を潰したような顔で啓介は振り返った。
「オレ、事故って免停くらっちゃってたろ。だからナンカ色々と…追加で試験受け直したりしなきゃなんねーの!」
 ああ、と少し呆れた気分で涼介は納得した。スピード違反とか路駐とか、そんな可愛いらしいタイプの免停ではない。この弟の場合はノーヘル、二人乗り、さらに暴走のあげくの抗争じみた事故での免停だった。
「四輪でそんな真似をやってみろ。速攻で俺はキーを取り上げるからな」
「しっねえよ! ……もう、しねぇ」
「頼むぜ。お前が一緒に出かけられるの、俺だって楽しみに待ってるんだからな」
 うん、とそこは真顔で啓介は頷いた。
 まだ彼には打ち明けてはいなかったが、弟が免許を取るのを見計らって、涼介は自分の走り屋チームを立ち上げる計画を立てていた。自分一人だったらそんなことは思いもしなかったに違いない。一匹狼を気取っていたつもりもないが、ぞろぞろつるんで走る気には今まではならなかった。誘われても、仲間に加わりたいと思うようなチームが一つも無かった。
 だが、このなつっこい割には喧嘩っ早い弟を、野放しで峠を走らせるのは不安だった。そして煩わしいことは何も考えさせず、ただただ走らせてやりたいという気持ちもあった。
 その土壌を、きっと自分なら用意をしてやれる。既に地元の峠では最速を誇り、『白い彗星』なんてこっ恥ずかしい渾名を頂戴する、今現在の自分の影響力を本気で奮う気でやるのなら。
「今取っても、…そうだな、受験が終わってからの話になるのかな…。まあ、合格祝いに車をもらうってのがネタとしては一番いいか」
「そんな先の話かよ! だいたい合格すっかどーかまだ分かんねえじゃん」
「言っとくが浪人の場合も俺は一緒には走らないぞ。俺の目に届く範囲の峠にはもちろん立ち入り禁止だ。車も相談には一切乗らない、勝手に自分で好きなの選べ」
「ンだ、そりゃ。きっつー!」
 きついと思うなら死ぬ気で頑張れよ。涼介がソファの肘置きにもたれたまま笑うと、大袈裟に啓介は膨れてみせた。
「アニキ、自分がデキがいいと思ってよー。人にまで難題押し付んのは反則だぜ」
「難題ってほどか。免許にかけるその意気込みぐらい、お前が本気になるならどうにでもなるさ。…って、さっきからお前は何やってんだ?」
「砂糖! 向こうの棚にグラニュー糖が無かったんだよ。こっちのセットのどれかに砂糖壷あったよな? あと、ちょびっと洋酒が欲しいかなと思って。こないだどっかで飲んだんだ、チョコに入ってるみてぇな酒が入ってて、それがスンゲーうまかった」
 なるほど、それでさっきから飾り棚の前をうろついてたのか。涼介は身体を起こして、作り付けの飾り棚の一部分を指し示してやった。
「そこの左。白いやつ。ポットの後ろに砂糖壷あるだろ、それにだったら入ってるはずだ」
「あ、あったあった。入ってる」
 鷲掴むようにして、啓介はロイヤルコペンハーゲンの砂糖壷を引きずり出した。
「あーと酒。アニキどれがいい? これとかでいい?」
「バカ、ウィスキーだよそれは。甘いものに足すならコニャックかグランマルニエ辺りを選んどけ」
「だからどれっ」
 コニャック、コニャック、と探していて、啓介は目立つカミュのブックボトルを棚から掴み出した。名前を確認し「あ、ヨシ。これコニャックだ」と呟きながら持って行ってしまったが、あいつあれの値段知らねえんだろうなと思ったらまた笑いが漏れた。
 まあいいか。減ったのが親父にバレるほどには使わないだろう。たかだかココアに入れる香り付けだ。
 手持ち不沙汰になって、涼介はぼんやりテレビの画面に視線をやった。
 ロールプレイングなのかシミュレーションなのか、詳しくない涼介には何のゲームなのだかサッパリ分からない。一緒に攻略本らしきものまで転がっているのは、啓介にしたら珍しい。相当手こずってでもいるのだろうか。
 ゲームの類いは、何でものめり込んでやるタイプの啓介だった。対戦ものは何度か涼介も付き合わされたが、結局、どのゲームにも自分は真剣にはなれなかった。弟が一喜一憂してハシャいでいるのを見ている方が好きだった。
 やるとしたら。
 自分が真剣になって何かのゲームをやるとしたら、それはもっと切実で一瞬一瞬を賭けた命がけのゲームがいい。勝ちに行くことしか考えない、リセットなんてただの一度もきかない、傲慢さと不遜に満ちたゲームがいい…──。
「…アニキ?」
 いつの間にか、後ろには啓介が立っていた。
「何やってんの。別にチャンネル替えたっていいんだぜ」
「ン…」
 ソファの前のローテーブルにマグカップを置いて、啓介は背中からなつくように腕を回してきた。
「……今日、親父とお袋、居ないんだろ?」
「うん。マンションの方、泊まるって電話があったよ」
「じゃあ何で音が消してあったんだ…? わざわざリビングでやってたくせに」
 15インチのテレビは啓介の自室にも一台あった。もっぱら普段はゲームはそちらでしている。リビングでする時は『画面が大きい方がイイんだ』とか、『これは音がこっててイイんだ』とか、啓介なりのこだわりがある時がほとんどだった。だが弟は、
「にっぶいなぁ!」
「何が?」
 言われた意味が本気で理解出来ずに、涼介は不自由な姿勢から顎を上げて視線を流した。その先では、さも当然、という顔で啓介が笑っている。
「アニキのこと、待ってたんじゃねーか! エンジンの音がいつ聞こえるか、いつ聞こえるか、帰って来たら速攻で飛び出す準備スタンバイ!、って感じで。待ってんのが楽しかったんだよ。だから音はジャマだったの」
 ───ああ。
 そうか、と呟いて、涼介は自分の胸元で交差する啓介の腕に手を重ねた。
「ごめん」
「え? いいよ謝んなよ。言ったろ、待ってるのも楽しかったって」
 いつから、この弟はそんなに気長になったんだろう? 思った疑問が表情に出たらしい。
「……だってさ、」
 すり、と涼介の耳許に頬を押し付けながら啓介は囁いた。
「どこ行ったって、必ずアニキは帰って来るだろ? それって絶対に決まってんじゃん。待つってそういうことかなって思ったら──悪くねーよな。オレは好きだよ、アニキをここで待つの」
 やがて腕は柔らかく解かれ、ココアのカップへと涼介の肩越しに手が伸びた。少し寂しく思っていると、それを優しく両手に握らされる。落とさないように、指にまで手を添えられて、しっかりと。
 何だか涙が出そうに暖かかった。
「ナニ、やっぱ疲れてんね」
「……そうかも。そうだな…」
 一口、口をつけたココアは甘さは完璧なさじ加減だったが、やたらとアルコールの度合いはきつかった。「入れ過ぎだ」と照れ隠しもあって言うと「わざとだよ」とこれも邪気なく返される。
「こんぐらいが、今のアニキにはちょうどいいんじゃねえ?」
 頷くのも癪だった。そのぐらい、自覚してみれば涼介はクタクタに疲れていた。
「な、肩もヘンな具合にこっちまってる」
「凄いな…、自分で分かってなかったよ。そうか、俺は今日は疲れてたんだな……」
「───で、何だっけ、おんなじゼミ?、のあのカノジョとは別れて来たわけ?」
 さらっと会話の延長で言われて頷きかけ、涼介は次には絶句した。