Everybody Wants To Rule The World



 言われたことにピンと来なくて、そうなのかな、と曖昧に涼介は言葉を濁した。
「あ、違うか。もしかしたら、単に誰にも興味がないってだけなのか」
 言ってから、彼女はカップをソーサーの上にコトンと戻した。
「ごめん。意地悪かったね、今の」
「いや…」
 多分、後の言葉の方が客観的には正しい。医者なんて職業を目指している割には、道徳心も人道心も、自分には甚だ欠落していることを涼介は知っていた。
 ましてやフェミニズムなんて。相手が男だろうが女だろうが関係はない。気を遣うべき場面で気を遣う方が、物事の運びが円滑に行くだろうからそうするだけだ。
 さして長くもない二十年強のこの半生、心の底からそうしたくて、誰かのために自分が動いたという経験はほとんど無かった。
 まあ、例外は、ある。何にだってきっとある。
 ただ悲しいながら、目の前の彼女がその特別な相手で無かったというだけで。
「───今さら、俺がこんなことを言うのは卑怯かもしれないけど」
 涼介は手許に視線を戻して、自分のコーヒーカップの取っ手に指をかけた。
「俺はお前を、いい加減に扱ったつもりは無かったよ。俺なりに、ちゃんと向き合ってたつもりだった」
「うん。そうなんだろうね。…そうなんだろうとは、あたしも思う。他のオンノコに目移りしたりとか、約束破ったりとかって無かったし」
 でもさ、と彼女は黒目がちの瞳を、感情を押さえるためのようにしばたたかせた。
「あたし、寂しかったな。一度も、ちゃんと欲しがってもらえなかったなって、今思ってる」
 かなり際どい言い回しの台詞ではあった。だが肉体関係にのみ言及した言葉ではないのは、良く分かった。
 ───それと切り離すことは出来ない言葉でも。
「そのことがね、あたしの言う『向き合ってない』って意味なんだ。けどリョースケには、分かんないかもね」
「分かる、って言ったらウソだろうな」
「正直だね」
「最後くらいは」
 うん、最後くらいは。彼女はまた少し笑って、前髪を細い指でかき上げた。
「こんなトコでこんな話ししてゴメンね。真面目に二人っきりで話したら、あたし泣いちゃうかなぁって気がしてたから」
「構わないよ。俺もこの方が良かった」
「そう? 意外。他に聞かれちゃうかもしれない場所じゃ、リョースケは嫌がるかと思ってたんだけど」
 正確に言えば、『お前が泣かないでくれて助かった。』
「どうせすぐに周り中にバレる話だろ。ゼミも一緒じゃ隠しようもない」
 かもね、と彼女はため息混じりに呟いた。
「ね、これってどっちがフッたことになるのかな。あたし? リョースケ?」
 変なことに女はこだわるんだな、と涼介は思った。確か前のカノジョと別れる時も、同じようなことを問われた覚えがあった。
 ねえタカハシ。あたしが振ったの? あたしからお別れ言い出したことになっちゃうの? ねえ、ひょっとしてうまく振らせたと思ってる?
 その時、自分が何と答えたのか思い出せなかった。敢えて言うなら、相手から振らせようと思ったことも一度もなかった。いつだってアクションを起こすのは彼女たちだ。来る時も、去る時も。
 今、この状況的にしたってどう考えても彼女からのアクションの物語な気がしたが、黙って涼介は冷え始めたコーヒーをすすった。
「答えられない?」
「どっちにしたって、遠因は俺なんだろ」
「…って、あたしは思ってるけど」
「……。お前が言い出さなきゃ、俺は別れる気はなかったよ。昨日、お前と電話してた時だって、そんなこと考えてもいなかった」
 彼女と話をしているのは好きだった。彼女の気の強そうな眼も、柔らかそうな茶色の髪も。だが大概の女という名の生き物は、自分が付き合っている相手の男がそう思っているだけでは納得をしないのだ。それが涼介にはいつも不思議だった。
 ───不思議で、納得出来ないことだらけだ、世の中なんて。
 車に乗りたいな、とふと思った。あの優美な白い車に乗り込み、イグニッションキーを回したい。シフトを叩き込むように入れ、エンジンと一体となったような感覚を味わいながら、深いロータリー音を響かせて夜の峠を疾走したい。
 クリアで理論的で、自分を理不尽に遮るものの何一つもない世界。
「ひとつ、頼みがあるんだ」
「なに?」
「友達では、居てくれるかな。二人で出かけることがなくても、寝なくっても、今までと同じように声をかけてくれないか」
 すぐ傍には人の居ないことを承知の上で、『際どい』言葉を口にした。彼女は今までの会話の中で、初めて泣き出しそうに顔を歪めた。
「そんなこと言っちゃうのが、リョースケ、やっぱり分かってないってことなんだよ」
「…そうか」
「いいよ、努力はする。すぐには無理だと思うけど。おはようって言って、またノート貸してよってたかって、ゼミのみんなで飲みに行ったり」
「カラオケでお前がまた酔っぱらって、メドレー連発で歌いまくったり」
 バカ、と彼女は潤んだ眼のまま口を尖らせた。
「分かった。そういうの、あたしなりに努力はする。でも少し、待ってくれる?」
「うん。…ありがとう」
 するりと感謝の言葉を口にした涼介に、一人、立ち上がりかけていた彼女は吹き出した。
「ヘンな会話! カップルの別れ話のラストが『ありがとう』だって」
「ヘンかな」
「ヘンだよ。凄くね。だけどいいよね、そういうのも」
 食器を片付ける素振りを見せた彼女に、いいよと涼介はそれを止めた。
「やるよ、俺が」
「ううん、自分で持ってく。そーいう気分」
 さよなら、と言って書類ファイルを小脇に挟み、カップの乗ったトレーを片手に乗せ、彼女は出口の方へ歩いて行った。真直ぐ振り返らずに、小洒落たカフェ風の学食を出て行った。
 見送り終わって、涼介はガラスの向こうに視線を戻した。灰色のアスファルトの上には、雨がポツポツと小さな染みを落とし始めたところだった。



「お帰り」
「……ただいま」
 玄関でジャケットを脱いでいると、ひょいと弟──啓介が顔を覗かせた。
「遅かったじゃん。どっか寄ってたの?」
「ちょっと車で走って来た」
「この雨ン中ァ!?」
 外はどしゃ降りの豪雨になっていた。暗闇の中でワイパーの向こうもろくに見えない、まさにバケツをひっくり返したような雨だった。
「だからこの程度で引き上げて来たんだよ。でなけりゃ時間がハンパだろう?」
「あー…」
 啓介は相槌を打ってから、突然、踵を返してキッチンの方に引っ込んだ。と思ったら、その場所のまま夜中なのに声を張り上げる。
「アニキ、なんかあったかい物飲む気ある!? コーヒーとココアとどっちがいい!?」
「どっちでも」
 ため息混じりに言ったら、すぐさま「ナニー!? 聞こえねえッ」という大声が返ってくる。
「───どっちでもいい!」
「ンだよ、張り合いねえなー!」
「お前が自分でも飲みたい方にしろよ」
 喋りながらリビングに入ると、テレビが付けっぱなしになっていた。音はなぜか消してある。とは言え、画面に映っているのはゲームの映像だ。コントローラーもその場に投げ出しっ放しで、今の今まで啓介がこれにかかりっきりであったことが窺えた。