Everybody Wants To Rule The World



 実の弟と最初に寝たのは多分十七の時で、『多分』というのはその境界がかなり曖昧だからだ。
 元々、異常なほど仲のいい兄弟と言われていた。特に弟は、兄に何も包み隠さず大きくなった。なついてジャレあって、犬っころのように二人で成長した。
 ──…つまりそれは、性的な芽生えにおいても同様に。
 弟のそういった第二次性徴は、おそらく他の子供の平均年齢より低かった、と兄・涼介は今になって思う。
 二歳違いの自分と、さして時期的には変わらなかった。自分が奥手なのかと当時は納得していたものだったが、今なら分かる。弟はこんなことにだけ心身共に非常に早熟だった。おまけに飲み込みが早くて切り替えも早くて、良くも悪くも直球勝負のセーカクだった。何のためらいもなく身近なぬくもりに擦り寄って来た。
 あの時に拒絶しなかったことを、二十一の今、涼介は少しだけ後悔している。そして何より一番の問題なのは、この『少し』だけ、という己の煮え切らなさなのだと、薄々にも自覚があった。
 リビングで、自室の机の前で、座っている自分の肩に後ろからまとわり着いてくる弟の腕は気持ちがいい。戯れの延長のように掌が首を辿って、シャツの胸元に指が忍び込んで来て、こすり付けられた頬の感触は嫌いじゃない。
 そりゃあ、いつでも無制限に相手をしてやれるほど涼介自身に時間も体力もストックがあるわけじゃない。弟の求める行為は当初のペッティングじみたものを通り過ぎ、いつしかセックスの最終的な段階に突入していた。その時点で涼介側の負担は思いのほか大きくなった。
 それでも涼介は行為自体の否定はしなかった。可能な限り弟の要求には応えてきた。彼のしたいように自分の身体を扱わせてきた。
 ───寂しかったからだ。なつかれるのが、求められる快感が、自分も確かに欲しかったからだ。
 だけど、いつまでもこのままで居るわけには当然いかない。
 十九歳になる少し前、要は高校を卒業するほんの手前、一度そこのとこを涼介は弟と話し合ったことがある。もとい、面倒がる弟をきちんと座らせて、互いの認識の再確認を行った。

《恋愛は、ムリだよ。お前とは》
 親父もお袋も相も変わらず深夜勤務で、通いの家政婦さんも帰った後で、広い家には二人きりしか居なかった。言ってしまえば、二人にとってはこの状態がスタンダード設定、ごく当然の日常の一場面だった。
 いつもいつも兄弟二人。二人きりで。
《ムリなんだぜ? それ、お前はホントに分かってんだろうな》
 押しとどめられた腕を宙に浮かせ、弟は真直ぐに涼介を見返した。
《どうして?》
 その視線と同じほどにストレートな問い方だった。
 どうして、かな。一瞬、涼介は泣きたいような気持ちになった。どうして、なのかな。
 理由は知っているのに、世界中に向けて喚き散らしたいような気分になった。でもそんな気持ちはほんの一瞬だけで、すぐに感情の波は平静におさまった。
《当たり前だろ。兄弟なんだから》
《兄弟だと、ダメなんかな? 恋愛は》
 ああ、と涼介は頷くついでのように眼を逸らした。恋人みたいに仲が良い兄弟はやれたとしても、恋人同士にはどこまで行っても、きっとなれない。
《ふぅん》
 あまり感情の混じっていない声で、弟は呟いた。下を向いていたので、涼介にはその時、弟がどんな顔をしていたのかは見そこねた。
《───アニキの価値感って、どっかぶっ飛んでんね。兄弟でエッチしてんのは良くっても、レンアイはしちゃいけねーんだ》
 逆じゃねえ?、普通はさ。
 そうボヤく声音に、ポケットを探る衣擦れの音と、カチッ、という金属音が重なった。慌てて涼介は顔を上げた。
《おい、煙草! 俺の部屋では禁止って言っただろ》
 高校に入ってすぐ、そんな悪癖を弟は身に付けた。
 このぐれーはしないと、ウチの高校じゃナメられちまうよ。アニキのお上品進学校と違うんだからさ。そう言い訳され、日に1本は大目に見ていた涼介だった。とりあえず兄貴に言葉にして咎められれば、弟もわざわざ目の前で吸うことだけはしなかった。
《あ、ゴメン》
 なのにこの時は素直に謝った割にはそのまま火を点け、弟は立ち上がってベランダに続く窓ガラスをガラリと開けた。
 まだ春には早くて、夜の冷たい空気が室内に風を運んだ。弟は濃紺のカーテンの端を掴むようにして、その澄んだ空気の中に灰色の煙を吐き出した。
《で、どーしたいの。アニキ的には》
《別に今すぐどうこうしたいってことじゃない。ただ、それを覚えておけって話だよ》
《レンアイは別モンだって?》
《ああ》
 ふうん、とまた他人事じみて弟は呟き、煙草を口許に運び続ける。涼介は仕方なく本棚にあった灰皿(普段は小物入れ)を手に取り、中身を横の机の上に空けてカラにした。
 だがそこでわざわざ立って渡しに行くのも癪に思えて、ボーリングの要領で弟の足許まで転がしてやる。陶器の平灰皿はカーペットの上を縦にころころ軽やかに回転し、コツン、と弟の踵にうまく当たった。
《じゃあ、とりあえず当分は、エッチすんのだけはオッケーつこと?》
 弟の手が無造作に灰皿を拾い上げる。それを見ながら、何だか別れ話のもつれみたいな会話だな、とも頭のどこかで考える。いや、もつれてはいないか。互いにしごく冷静だ。どちらも声を荒げたりしていないし、故意に相手を傷つけようともしていない。
《いいさ。お前がそうしたいんだったら》
《アニキは? だから今、アニキはオレとどうしてぇの?》
 どうしたいか? 訊かれて思わず涼介は詰まった。俺は、いったい、どうしたいか?
《お前と───そういうことをするのは嫌いじゃないよ。セックス、するのは…イヤじゃない》
 ふ、と妙に大人びた顔で弟は笑った。もしくは何かを嘲笑するような顔にも見えた。
《ずっりーんだ、アニキ。それ、ゼンゼン答えになってねぇ》
《………》
 弟のそんな様子をあまり見たことがなかった涼介は、ドキリとして弟の次の言葉を待ってしまった。
 見ている内、煙草は吸い口近くまで短くなった。弟は手にした灰皿で煙草を揉み消し、分かった、とだけ呟いた。
《…啓介》
 くるりと背を向け、弟はベランダの外をしばらく眺めていた。ほどよく暖房のきいていた室内は、今は開けっ放しの窓ガラスのせいで随分と冷えてきってしまった。いい加減閉めろよ、と言うつもりで涼介は弟の名前をもう一度呼んだ。
《啓介───》
《分かったよ。アニキのしたいように、オレはするよ》
 音高くガラスを閉めると、ズカズカと弟は涼介の傍らまで戻って来た。それから当然のように涼介の肩に手を伸ばす。
《でも、こういうの何つーか、アニキ知ってる?》
《さあ》
《まんまセフレじゃん。フドートクもいいとこだよな。身体だけのお付き合い、ってヤツ?》
 だけ、じゃお前とは無いだろう。
 だって兄弟なんだから。世界中で、たった二人きりの血の繋がりがあるんだから。一生、いや例え死んでも、お前とはその場所に居られるだろう。
 しかし、その言葉は涼介は言いそびれた。弟の冷えた指先が耳許をくすぐり、項を辿り、セーターの内側にまでもぐり込んで来たからだ。
 キスが欲しいな。ちょっとだけ。
 嘘でもいいから、唇に恋人同士みたいな甘いキス。
 思ったが、矢張りそれも口にはしなかった。



「なんか、雨が降りそうだね」
 ガラス張り壁の外を見ていた彼女が囁くように言った。そうだな、と返して、涼介は夕暮れ近い大学構内を一緒に眺めた。
 だからなのか、それともまったく関係は無いのか、案外と学食の中に人の数は少なかった。
「コーヒー、良かったらお代わり取って来るか?」
「ううん。いい。まだ残ってるし」
 両手で大事そうにカップを持って、彼女は口許に運びながらクスリと笑った。
「なに?」
「なんだろ。別れ話の最中に、『コーヒーのお代わりいるか?』なんて、リョースケ、呆れちゃいそうにフェミニストだよね」