(2) 伏見線 その2 |
撮影: 1969/7~10, 制作: 2017/4 |
京都市電伏見線の後半、竹田出橋から中書島に至る区間を紹介します。日本有数の酒の産地、伏見の城下町を走る市電の姿をお楽しみ下さい。 |
←市電伏見線、竹田出橋から中書島に至る路線図です。 この区間は豊臣秀吉が築いた伏見城のご城下で、道路が鍵形に曲がっています。また、棒鼻~肥後町では、狭い竹田街道をはずれ、西側にある専用軌道を走っていました。 京都市が京都電気鉄道を買収したのは1918(大正7)年ですが、当時の伏見は独立した自治体でした。近隣の深草町や竹田村とともに京都市に編入されて伏見区が誕生するのは、1931(昭和6) 年です。つまり、市電が京都の市外を走っていた事になります。 京橋電停の近く、魚屋通にある「伏見駿河屋」の前に記念碑があります。 廃止の直前1970年2月に、「鉄道友の会」によって建てられたものです。→ ※竹田出橋から北の区間は、前作をご参照下さい。 |
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Takeda Idebashi 前作の続きです。名神高速道路を背景に、[9]系統の中書島行きが南へ向かいます。「竹田の子守歌」で知られるこの付近は人家も少なく、淋しい感じがする場所でした。 (1969/10/10) |
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Nanasegawacho 七瀬川町の電停です。市電の軌道が道路の東寄りに敷設されているため、北行きの乗降は道路上からになります。しかも電停には安全地帯がありませんでした。竹田街道の交通量が少ない時代とは言え、乗降は命がけです。 |
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Jonangumichi 城南宮道の電停北側です。現在コンビニになっている敷地に、清酒名誉冠の工場がありました。 電停の名前は交差する道路の名前です。ここから西の城南宮までは、1km以上離れています。 (1969/7/20) |
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Bobana 棒鼻の交差点で、南を向いて撮影しています。左が竹田街道で、線路はこの先が専用軌道になります。 |
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Bobana - Tambabashi 専用軌道に入りました。家屋が建ってない、原っぱのような所を走ります。 |
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上掲と同じ場所で、中書島方面を見ています。 車両は900型のラストナンバー931号、1957年製です。全長12.9mの大型車ですが、側板の裾が一直線のすっきりしたデザインです。 900型には間接制御車と直接制御車の2種類がありますが、写真の車両を含む直接制御車のみが後年ワンマン化改造を受け、1900型となっています。 |
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上掲から南へ行ったところです。専用軌道の両側に人家が密集していました。手前に新高瀬川の堤防があり、なだらかな勾配を京都駅行きの[9]系統が下って行きます。 ※現在この区間は、一般の道路に転用されていて、バス路線になっていますが、北行きの一方通行です。南行きのバスは隣の竹田街道を通ります。 |
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新高瀬川にかかる鉄橋を、東側から見ています。京都の市内とは思えない、のんびりとした風景に包まれています。遠くに見えるのは長岡方面、西山の稜線です。半世紀前に味わうことが出来た至福のひとときでした。 ※現在この川はコンクリートで固められていて、流量もごくわずかになっています。 |
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新高瀬川の南側です。背景の建物は材木工場と、その関連住宅です。伏見では酒造業の他に、水運を利用した製材業も盛んでした。現在ここには大きなマンションが建っています。 |
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材木工場を過ぎたところから、線路は道路上の併用軌道になります。まもなく丹波橋の電停で、奥に見える大きな屋根と煙突が招徳酒造の工場です。 冒頭の写真はこの先で、北を向いて撮影しました。酒蔵の脇を走る市電が写っています。大変暑い一日でした。 |
Tambabashi - Higomachi ←丹波橋~肥後町にある疎水の鉄橋を、専用軌道で渡ります。 肥後町の西側にある大きなカーブ区間です。ここにも材木問屋があり、細長い土蔵造りの建物がありました。↓ |
Higomachi 肥後町では直角に近いカーブになっていて、交差点の角に専用軌道が設けられていました。 背景には古い建物が並んでいて、映画のセットのような雰囲気があります。ここから再び竹田街道を走ります。 |
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Otesuji 大手筋にある大倉酒造、現在の月桂冠(株)昭和蔵前です。月桂冠は伏見のお酒の中で全国的に最も有名な銘柄で、本格的な辛口です。 背景の建物は、現在も使われています。 |
Kyobashi 京橋の電停です。画面右端に清酒「富翁」の看板のある大衆食堂、電車の右に山小屋風喫茶店を改造した医院などが見えます。元は右隣の一階が医院だったようです。電車は中書島行きですが、早くも方向幕が京都駅に変わっています。 |
濠川に掛かる京橋を渡って中書島へ向かいます。この川を下ると、宇治川から淀川を経て、大阪に至ります。昔は、三十石船がここまで上ってきました。伏見が京の外港と言われた場所です。 ※写真を撮影した時代は、このように荒れ果てていました。現在では遊歩道などが整備されて、観光スポットになっています。市電を残しておけば、もっと人気が出たものと思われます。 |
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Chushojima 中書島の手前は専用軌道になっていて、踏切がありました。↑ 終点の中書島は、京阪電車の駅に隣接していて、大変便利でした。→ |
References: 京都市交通局「さよなら京都市電」毎日写真ニューサービス, 1978.9.30 http://www.gekkeikan.co.jp/index.html |