(6) 鶴舞公園から堀田へ |
撮影: 1968~1969, 制作: 2015/8, 改訂: 2024/8 |
前作の続きです。大池町から東に進むと鶴舞公園の交差点に出ます。鶴舞公園は1909年(明治42年)に制定された名古屋初の西洋式公園で、正しくは「つるまこうえん」と呼びます。翌1910
年に鶴舞公園で関西府県共進会が開催されました。その時の観客輸送のため、上前津~鶴舞公園~新栄町に開通したのが公園線です。 鶴舞公園には東新町と高辻を結ぶもう一つの路線があります。公園から北側が高岳延長線、南側が東郊線です。こちらは大正年間になってから開業しています。東郊線を南に辿ると高辻、さらに堀田駅に至ります。 |
↑ 国鉄中央本線のガードをくぐる[30]と[35]系統です。中央本線(西線)はすでに瑞浪まで電化されていましたが、中津川行きなど一部の列車は気動車で運転されていました。 (1968/6/5) ← 鶴舞公園の交差点です。右が国鉄鶴舞駅、北側から来た[80]系統が大池町方面へ曲がります。 (1969/5/17) |
||
鶴舞公園の歩道橋の上から1300型を撮影しました。この古い電車は[33]や[34] 系統で良く見かけました。 (1968/6/5) |
||
鶴舞公園の北側、大学病院前です。後方は、名古屋第一工業高校の校舎で、"一工"の文字が見えます。同校はのちに中部工大(現中部大学)の付属校になり、日進町(現日進市)に移転しました。 |
||
上掲と同じ場所で、北側を向いています。この路線は1910年(明治43年)に開業した公園線です。循環の[3]系統も走っていました。 |
||
これも同じ場所です。拡幅された広い道路をそれて、線路は左側の狭い道路を老松町へと続いています。 |
||
ここは上掲から一筋西側を走る高岳延長線の丸田町です。写真の車両は高床車で知られる1050型の1054号です。 ドアが開いているので、ステップが2段になっていることが分かります。 |
||
同型の1051号を鶴舞公園で撮影しました。こちらはドアの閉まった姿です。外観的には1400型と良く似ていますが、床面が高いため台車周辺の形状が異なるほか、背の高い印象を受けます。 |
||
ここから東郊線を南へ向かいます。 鶴舞公園~東郊通一丁目では、「電タク」のマークでおなじみの愛電交通の社屋が目立つ存在でした。 |
東郊通一丁目の電停です。女生徒の隣に独特のスタイルをしたプリンスグロリアが停車しています。 | ||
東郊通では時折、3000 型連接車の姿を見ることができました。これは高辻車庫から出庫して黒川に向かう、[34]系統の区間運転です。 東郊通三丁目~円上 (1969/5/17) |
||
円上(えんじょう)の電停です。東郊通は、都市計画道路として大正12年に開通しました。両側に並木のある側道が続く広い道路で、その中央を市電が走っていました。 (1969/6/5) |
||
高辻の交差点です。夕立などで大雨が降るとしばしば冠水し、低辻と揶揄された場所です。タイヤの広告がある建物が高辻車庫(運輸事務所)で、乗務員の交替が良く見られました。 東郊通から来た[35]系統が左折して滝子方面に向かうところです。 |
||
高辻車庫の構内です。現在この場所には市営のマンションが建っています。 (1969/6/26) |
||
左に写っている16号は、花電車の車体です。「名古屋まつり」には化粧を施されて、市内をパレードしました。その写真は後日公開します。 右の3000型の方向幕が覚王山になっています。 残念ながら覚王山線や東山公園線の写真は撮らずじまいでした。 |
||
高辻から南は堀田通と名前が変わります。この辺りには自動車関連の販売店の外、デンソーやブラザーなどの大きな工場が並んでいました。 雁道~堀田通五丁目 |
||
堀田通五丁目の電停です。名古屋高速の高架道路はこの堀田通の上にも通っていますので、鶴舞公園~堀田駅前で当時の面影を探すことはきわめて困難です。 |
堀田駅前から北を望んでいます。とにかく広い通りの真ん中を市電が悠々と走っていました。 |
[30]と[34]系統の終点、堀田駅前です。名鉄本線の神宮前~呼続が立体化される直前で、パノラマカーが地上を走っています。 (1969/2/26) |
Reference: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%88%9E%E5%85%AC%E5%9C%92 |