空は青く澄み渡っていて、これから宮廷で巻き起こる嵐など微塵にも感じさせない。
起き抜けに私から久々となる薬湯を受け取ったフラムアークは、ゆっくりとそれを飲み干すと穏やかな表情を見せた。
「うん、やっぱりこれを飲むと飲まないとでは目覚めが違うな。一日の活力をもらえた気がする」
まだ完全とは言えないけれどようやく復調した私は、今日の為に心を込めて調合した薬湯をフラムアークに飲んでもらえて、サファイアブルーの瞳を和らげた。
「そう言っていただけると腕によりをかけた甲斐があります。夜にまた、疲れが取れてぐっすり眠れる特別製をお持ちしますね」
「うん、ありがとう。約束だったもんね。全部終わったら、君が淹れてくれた薬湯を飲んで泥のように眠るって」
「ちゃんと覚えていてくれたんですね」
思わず感心すると、フラムアークはちょっと得意げに口角を上げた。
「ユーファとの約束は忘れないよ」
―――ついに、この時が来た。
今日は第三皇子フェルナンドの側近、グリファスによるフラムアーク暗殺未遂事件の審理が開かれる日だ。
そして、フラムアークが直上の兄フェルナンドとの決着をつけると明言した日―――。
「体調の方は大丈夫? まだ完調とは言えないんだから無理はしないで、もし途中で具合が悪くなったら我慢せずにすぐに周りに申し出てね」
フラムアークはそう言って、今日の審理に証人の一人として召喚されている私の健康状態を気遣った。
「はい、無理はしないと約束します。ですからフラムアーク様は審理の方に集中して下さいね」
「……うん。頑張るから見ていてね」
「はい」
頷いた私の長い雪色の髪をひと房掬ったフラムアークは、それにそっと口づけると、橙味を帯びたインペリアルトパーズの瞳に力強い意志の光を乗せた。
「君との未来を掴み取る為の、第一歩だ」
私が贈ったお守り代わりの香袋を身に着け、身支度を整え終えたフラムアークが執務室へ姿を見せると、既に集まっていたスレンツェとエレオラが改まった面持ちで私達を出迎えた。
「おはよう、二人とも」
「ああ、おはよう。いよいよだな」
「おはようございます。気合を入れて参りましょう」
フラムアークを一瞥したスレンツェは、気負った様子もなく傍目にはいつも通りの彼に、満足そうに頷いた。
「いい表情だ。問題はなさそうだな」
「うん。程良い緊張感と高揚感の中にいるよ」
そう応えるフラムアークからは静かな闘志が感じられるようだ。
「やるべきことは全てやった。あとは臨むだけだ」
「ああ、そうだな。存分にやってやろう。お前は前だけを向いていればいい。後背は憂うな」
審理に臨席する皇子達には一名ずつ専属の護衛が付くことが認められていて、フラムアークの護衛を務めるのはもちろんスレンツェの役目だった。
審理が執り行われる大聖堂の警備は皇帝直属の近衛騎士団が務めることになっていて、警護のエキスパートである彼らがその任に就いている以上、滅多なことは起こらないだろうけれど、スレンツェが傍についていてくれれば何よりも心強い。
エレオラには大聖堂に続く控えの間で待機してもらい、審理の状況に応じて臨機応変に動いてもらうことになっている。
「じゃあ行こうか。オレ達の目指す未来を皆で掴み取る為に」
私達を見渡してそう言ったフラムアークと強く頷き合い、心をひとつにして、私達は執務室を後にした。
全ての命運を決する最後の大局が、今、動き出そうとしている―――。
*
荘厳な空気を醸し出す大聖堂は近衛騎士達によって厳重な警備が固められ、物々しい雰囲気に包まれていた。
聖堂内の高座に君臨する皇帝グレゴリオを筆頭に、宰相や宮内卿を始めとする国の重鎮達が顔をそろえ、フラムアークとフェルナンドはその高座へ続く金糸の刺繍が施された深い赤色の豪奢(ごうしゃ)な絨毯を挟んで向かい合う形で顔を突き合わせている。
生存が絶望視された状況から奇跡の生還を果たした私は、体調面を考慮され、フラムアークの傍らに用意された椅子に座ってこの場に臨むことが許されていた。
さすがにまだ長時間立ちっぱなしでいるのは辛いから、ありがたい配慮だわ……。
エドゥアルトは二人の兄とは違う立ち場で臨むからか、兄達からは離れた壁寄りの場所にいる。その傍らには彼の護衛役を務めるラウルの姿があった。
普段居合わせることのない錚々(そうそう)たる顔ぶれと厳粛な空気に嫌でも緊張感を覚えていると、おごそかな鐘の音と共に審理の開始が告げられ、刑務官に伴われたグリファスが近衛騎士に先導されて入ってきた。
囚人服を着た彼は腕と首に枷が嵌められ、その間を縦に走る細い鎖で繋がれている。フラムアークに斬り落とされた左腕の肘から先は欠損しており、両の足首は逃亡防止用の丸い金属製の重しがついた鎖で繋がれていた。
自害を防ぐ名目で口枷も施されたグリファスの容貌はやつれ、別人のように精彩さを欠いていたけれど、彼の姿を目にした瞬間、殺されかけたあの夜の記憶がまざまざと甦り、私は無意識のうちに膝の上に置いた両手をきつく握りしめていた。
そんな私の様子に気付いたフラムアークがそっと肩に手を置いてくれる。その感触にこれ以上ない心強さを覚えた私は、どうにか落ち着きを取り戻すことが出来た。
豪奢な絨毯の上を行くグリファスはフェルナンドともフラムアークとも、この場の誰とも視線を合わせることなく、皇帝グレゴリオの御前で膝を折った。
そして皇帝の御前での自害と偽証を固く禁じられた後、それを破った場合は一族郎党にその責が及ぶことが告げられた上で、グリファスの口枷は外された。
「……」
血色の悪いグリファスの顔には一切の表情が浮かんでおらず、目の前で読み上げられる自身の罪状のあらましをただ淡々と聞いている印象だった。
「―――罪人。これらの内容に対し異議の申し立て、あるいは何か申し開きなどはあるか?」
「……。ございません。概ねその通りでございます」
未遂も含め、皇族の暗殺に関わった者は死罪となるのが通例だ。その場合、絞首や斬首ではなく、車裂きのような遺体が原形を留めないむごたらしい刑が用いられる場合が多い。
にもかかわらず、グリファスは粛々とそれを認め、受け入れる姿勢を示した。
「全ては私の浅慮による独断愚行。己が罪を認め、如何なる処罰も受け入れる所存にございます」
―――周囲にこの状況は、どう映っているのかしら……?
目の前で展開される光景に私はきゅっと唇を結んだ。
忠義による献身……?
挺身の末に見限られた哀れな犠牲者……?
続いて私とフラムアークによる証言が行われ、私は緊張しつつも思い出しうる限りの情報を正確に述べながら、突き落とされる直前までレムリアとグリファスの結託に気付かなかったことや、その後のレムリアの話から、相当以前から二人の繋がりがあったことが示唆される状況などを証言した。
フラムアークは死亡したバルトロの言動から、第四皇子(じぶん)よりも強い権力を持つ人物の力が背後に働いていると感じたことや、自身の暗殺未遂の直後にレムリアが私を殺害しようと動いた一連の流れに、自身への強固な害悪感情が窺えると述べた上で、こう疑問を呈した。
「……私はそこに多大な疑念を覚えました。グリファスが主君である我が兄、第三皇子フェルナンドを次期皇帝にと望む上で、私は確かに目障りと言える存在だったのかもしれません。ですが、それにしてもやりようがあまりに悪質で、かつ大掛かりが過ぎるように感じられてならないのです。
皇族殺しは重罪で、犯す者には多大なリスクが伴います。私を排するにしても、もっと別のやりようがあったと思うのです。仮にも皇族である私に対し、皇子の側近の一人に過ぎないグリファスがこのような手法を取ることが合理的であるとはとても思えません。私個人としてはここまでグリファスに恨まれる覚えも筋合いもなく、これほど強固な悪意を向けられること自体があまりにも不自然で、釈然としないのです。一連の件があくまで彼の独断専行と言うのであれば、ここまでの凶行に至ったその理由をぜひ、この場で聞かせていただきたい」
フラムアークの求めに応じ、進行役の大神官がグリファスを促した。
「罪人。答弁を」
「……、聡明なる第四皇子フラムアーク様。貴方が病弱という先天的なハンディキャップを克服し頭角を現し始めてからというもの、私はいずれ貴方が我が主の未来を脅かす存在になるやもしれぬという懸念を抱いてまいりました。そして時を経るごとに貴方の勢いは増し、私の懸念は危惧へ、そして大いなる焦燥へと変わっていったのです。
……私はいつしかフェルナンド様の臣下として貴方という可能性を徹底的に潰さねばならぬという、強迫観念めいた独りよがりの使命感に囚われていました。今となってはただ愚かだったと思いますが、麻薬(オピューム)を常用し心身耗弱の状態にあった私には正常な判断が出来なくなっていたのです。何が何でも貴方を排除せねばならぬという、強い妄執に取り憑かれていました」
淡々と告げられたその内容に納得出来るはずもなく、フラムアークは瞳を眇(すが)めた。
「全ては麻薬(オピューム)の摂取による強迫観念と心神耗弱、そこに基づいていると?」
「はい」
「あれほど大掛かりで悪質な手法を用いてか? お前には大き過ぎるリスクしかないように思えるが?」
「……はい」
「……。あくまで私の命を奪うことが目的だったならば、ユーファを害する必要などなかったのでは?」
「彼女は保険です。万が一貴方の命を奪うことが出来なかった場合の―――。幼い頃より傍に仕え全幅の信頼を寄せる相手を失えば、さしもの貴方も動揺し、今度こそ隙が出来るであろうと愚考致しました」
「……お前がそのような手法を用いて道を拓くことを、お前の主が喜ぶと思ってのことか?」
「滅相もございません。一連の件は全て、愚かな薬物中毒者による独善的な使命感に基づいた愚行―――我が主には生涯秘匿するつもりでおりました」
「解せないな。お前の主は現状、次期皇帝の座に一番近いと言われている御方だ。お前がそこまでする必要があったのか? 私の存在が果たして、お前にそこまでの焦燥を抱かせるに至るものか?」
「……周囲の支持がどれほど高くとも、それはあくまで周囲の意見でしかありませぬゆえ―――全ては現皇帝である陛下のご一存、ひとえに次期皇帝として陛下に認められるか否か―――そこに尽きますから」
「つまり、お前の目には私が兄上を出し抜く可能性があると映ったということか。―――兄フェルナンドではなくこの私が次期皇帝に選ばれる可能性があるとお前は感じ、その私を害すべく動いたと?」
フラムアークの挑発めいた物言いに、大聖堂内が息を飲む気配で満ちる。
皆が注視する中、顔色ひとつ変えないグリファスからもたらされたのは意外な回答だった。
「恐れながら、フェルナンド様が貴方様に劣るとは私は考えておりませんし、恐れ多くも私ごときが陛下のご心中など推し量れるはずもございません。
私が危惧したのは、古くから皇族にまつわる伝承―――そしてそれを尊ぶ帝国の風潮に尽きます」
その言葉にざわり、と周囲がさざめいた。
古くから皇族に伝わる伝承―――?
それに覚えがなかった私はフラムアークを振り仰いだけれど、フラムアークもそれに思い当たる節がなかったらしく、私とスレンツェに目配せした後、慎重にグリファスへと声を返した。
「―――お前が言うその伝承とは、具体的に?」
それを受けたグリファスは進行役の大神官を通じて高座にいる皇帝グレゴリオに回答の許可を仰いだ。
何なの? 皇帝の許可を得ないと話せないようなことなの―――?
「良かろう。発言を許可する」
思わず喉を上下させる中、重々しい皇帝の響きを得て行われたグリファスの回答は、私達が予想だにしていなかったものだった。
インペリアルトパーズの瞳は、優れた帝王の資質を秘めたる者の証―――。
皇族に古くから伝わるというこの伝承が以前は宮廷内で広く認知されており、その瞳を持つフラムアークが誕生した際は、国を挙げて盛大な祝賀が催されたというその話は、私達が知り得ないものだった。
元々は祝福の御子として盛大にその生誕を祝われていたのだという、フラムアーク。
彼の虚弱体質が判明し、皇妃クレメンティーネが精神に変調をきたしてからは、それを憂えた皇帝グレゴリオの命により古い因習を尊ぶ風潮が禁じられ、それをおいそれと口にすることが出来なくなり、そのまま時が過ぎて、フラムアーク自身も、その後宮廷へ入った世代もこれを知らぬまま今日に至っていたという事実―――。
何、それ……!
私は言いようのない憤りが胸の底から湧き上がってくるのを感じて、唇をきつく結んだ。
―――虚弱体質だったから?
彼が望んでもいないハンデを背負って生まれてきてしまったことが原因で、本来受けるはずだった祝福とは真逆の、あんなひどい扱いを受けてこなければならなかったというの?
母親の精神の安定を図る為に、身体の弱い幼い我が子をあんなふうに皇宮の片隅に追いやって、謂れのない差別や冷たい仕打ちを受けているのを知りながらそれを見て見ぬふりをして、ずっと放っておいたというの!?
―――そんなのって、あんまりよ……!
当事者のフラムアークは私以上に色々と思うところがあっただろうに、表面上はそれを出すことなく粛々とグリファスに問い重ねた。
「……伝承(それ)が、お前が度し難い暴挙に及んだ最たる理由だと?」
「はい」
「まかり間違えばその伝承が、お前の主の次期皇帝の座を阻む要因となるやもしれない―――その危惧が御しがたい強迫観念へと置き換わり一連の件に及んだ―――というのがお前の言い分か」
「はい」
「だとしたら本末転倒もいいところだ。そのお前の所業によってまさに今、主の地位を貶めかねないこの現状を何とする!?」
「……。申し開きのしようもございません」
どこまでも淡々としたグリファスの答弁に、込み上げてくる深い怒りを持ち前の理性でどうにか抑え込んでいるといった様子のフラムアークは、それに耐えかねたように矛先をフェルナンドへと向けた。
「兄上―――フェルナンド殿下にお尋ねしたい。今のグリファスの弁をお聞きになって、貴方はどう思われますか!?」
二人の直接対決に皆が息を凝らす気配が伝わってきた。
グリファスがフェルナンドの下で暗部に関わる仕事を取り仕切っていたことは、この場にいる誰もが耳にしたことのある黒い噂だ。
それはあくまで噂の域を出ないもので真相は誰も知らない―――けれど、誰もがそれを当たらずとも遠からずと認識しているいわば公然の秘密であり、この場に臨席する誰もが今回の件はフェルナンドの指示でグリファスが行ったものなのであろうという暗黙の認識の中にあることは明白だった。
これは図らずも露見してしまった罪、この審理は体裁を整える為に必要な儀式で、グリファスはフェルナンドの身代わりとして裁かれているのだと―――。
けれど、それを口にする者は誰もいない。
圧倒的強者によるトカゲの尻尾切り、近い将来皇帝になる可能性が高い相手にわざわざ不興を買いたくないと、誰もがそう思っているのだ。
次期皇帝筆頭候補(フェルナンド)に抗する者は、限られている。
そんな空気の中、その限られた者であるフラムアークから意見を求められたフェルナンドは、母親似の秀麗な面差しに深い心痛の色を滲ませた。
「薬物に蝕まれていたとはいえ、グリファスの犯した罪は到底許されることではなく、看過することなど出来ないものだ。側近であった彼のこのような状況に気付くことの出来なかった私の監督責任は限りなく大きい。彼を監督する立場にあった者として、心よりお詫び申し上げる。此度(こたび)の一連の件、本当に申し訳なかった。どれほど言葉を尽くしても尽くし足りない」
胸に手を当てがい、深々と腰を折って弟に謝意を示す兄にフラムアークは迫った。
「貴方ほどの方が臣下の異変に気付くことは本当に出来なかったのですか? 彼の行動に違和感を覚える機会はいくらでもあったのでは?」
「グリファスは優秀で私は彼を心から信頼していた。故に一任している事案も多く、様々な権限も与えていた為、彼の異変に気付くことが出来なかったのだ。言い訳にしかならないが、結果的にこのような事態を招いてしまい、猛省している。私に対する彼の忠心がまさか、このような方向へ向いてしまうとは想像だにしていなかったのだ……」
後悔してもしきれない、そんなやりきれなさを滲ませてフェルナンドは視線を落とした。
「……貴方はご自身の監督責任を認められるのですね」
「ああ。それについては抗弁しようもない。いかなる処分も甘んじて受けよう」
フェルナンドは殊勝な面持ちで頷いた。そんな彼の姿は傍目には自身の落ち度を認めて心から反省し、配下の過ちに真摯に向き合おうとしている心ある主君のように見えた。
もちろん、その姿がパフォーマンスであることは私達には疑いようもないのだけれど。
既に裏で様々な手を回しているであろう彼にとって今重要なのは、このような醜聞を表に出してしまった自身のダメージをどれだけ最小限に抑えて立ち回るか、そして己の価値をいかにして保ち皇帝グレゴリオの心証を下げずに留め置くか、そういった部分に尽きるのだろう。
そんな兄にフラムアークは言った。
「貴方に対する処分は後ほど陛下より下されることと思いますが―――私は今回の件の悪質さを鑑み、二度とこのようなことが起きることのないよう、グリファスとヴェダ伯爵家、そしてレムリアへの厳しい処断を望みます。貴方が誠意を見せて下さるというのなら、戒めの意味を込めて、どうかご自身の手で彼らを厳しく処断していただきたい―――私はそのように望みます」
フラムアークの要望に大聖堂内がざわめいた。それを受けたフェルナンドは微かに目を見開き、そしてこの時、それまで一切の感情を映してこなかったグリファスの表情が初めて揺れ動いた。
穏やかな人柄で知られるフラムアークがまさかこんな提言をしてくるなど、彼らとしても予想外のことだったに違いない。