病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

二十二歳J


 その姿を目にした時、これは自分の願望が形になって現れた幻なのかと思った。

 この世とあの世の境の窮地に、彗星のように現れたその男(ひと)は、私が想像していた以上に強くたくましく成長しており、恐らく相当な実力者であるはずのグリファスを圧倒する力でねじ伏せ、撃退した。

「ユーファ!」

 片膝をつき、自らの外衣を外して私の肩に羽織らせてくれたその男(ひと)のインペリアルトパーズの瞳が、今にも溢れ出しそうな感情を宿して揺れている。

「よく、生きて……!」

 噛みしめるようにそう言って私を包み込んだ彼の言葉に、万感の思いを感じ取った。

 早鐘を打つ彼の鼓動。確かな温もりを伝えてくるその身体が滾(たぎ)る感情にぶれて、小刻みに震えている。

 心安らぐ彼の匂いと大きくて広い、硬い胸の質感に急速に安心感が込み上げてきて、涙腺が決壊した。

「……っ! フラム、アーク……! フラムアーク様っ!」

 私はしゃくりを上げながら彼にしがみつき、その胸に縋りつくようにして、声を上げて泣いた。

「怖、かっ……! 怖かった……! もっ、う、会えないんじゃないかと……!」

 胸の底にずっと抱えていた不安。その可能性が、何よりも恐ろしかった。

 嗚咽で言葉を詰まらせながら、私はフラムアークに縋りつく手に力を込めた。

 今こうして彼の腕の中にいられることが夢のようで、涙が止まらない。

 もう会えないかもしれないと思っていたフラムアークに会うことが出来て、こうして彼に助けてもらえて、溢れ出す激情に頭も言葉もついてこなくて、私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で彼を仰ぎながら、感情が迸(ほとばし)るままに想いを伝えた。

「貴方に、このまま会えなくなるかと思ってっ……それ、がっ……一番、怖かった……!」
「……!」

 フラムアークのインペリアルトパーズの瞳が狂おしい光を帯び、その双眸に、これまで頑なに隠してきた熱情の火が灯った。

「ユーファ……!」

 泣きじゃくる私の名を呼び、どこかためらいがちに伸ばされた彼の指先が、大切そうに、愛おしそうに私の頬に触れ、切なげにひそめられた彼の端整な顔が、ゆっくりと近付いてくる。私は高鳴る胸の鼓動を意識しながら、その光景を既視感をもって見つめていた。

 目の前の彼のこと以外、何も考えられなかった。

 ほんの一瞬、唇が触れ合い、すぐに一度離れて、確かめるように至近距離で見つめ合った後、堰を切ったように互いの唇が重なり合った。

 あの夜に感じたフラムアークの質感が、唇から伝わる熱が、置き去りにされていた感情と絡み合ってめくるめき、私の胸を大きく打ち震わせる。私達は無心に互いを求め合い、何度も何度も、どちらからともなく唇を重ね合って、その想いを確かめ合った。

 フラムアーク……フラムアーク……!

 こうして貴方と触れ合って、初めて分かる。

 自分がどれだけ、この瞬間を待ちわびていたのか。どれだけ貴方とこうありたいと望んでいたのか。

 この瞬間を、永遠に感じていたい。

 けれど極限まで体力を削られた肉体は、それを許してくれなかった。

 夢のようなひと時の中、急速に意識が遠のいていくのを感じた私は、必死にそれに抗いながら、薄れゆく意識の中で、フラムアークにどうしても伝えなければならないことを伝えた。

「私を、崖から突き落としたのは……レムリアです。彼女はおそらく、グリファスと繋がって……左腕に、彼女が作ったものと、よく似たブレスレットが―――……」
「! レムリアが―――!?」

 さしものフラムアークも想定していなかったのだろう、愕然とする彼に頷いたところで私の意識は白んでいき、そのまま彼の胸にもたれるようにして力尽きてしまった。

「ユーファ!」

 私を案じるフラムアークの声に混じって、エレオラらしき人物が駆けつけてくる気配と、緊迫した彼らのやり取りを耳にしながら、私の意識は深い闇の底へと吸い込まれていき、力強い腕にふわりと横抱きにされる感覚を最後に、完全に閉ざされてしまった―――。



*



 目が覚めると見慣れない天井が見えて、ベッドの傍らにはエレオラの姿があった。

 ああ……何だか最近、こんな展開ばっかりね……。

 ぼんやりとそんなことを思っていると、私の意識が戻ったことに気が付いたエレオラが、横合いから勢いよく私の顔を覗き込んだ。

「ユーファさん! 良かった、気が付いたんですね。お加減はどうですか?」

 心から安堵した様子の彼女にひとつ瞬きを返して、私は最近お決まりのようになってしまった文句を返した。

「エレオラ……。ここは……?」
「ユーファさん達が救出された場所から一番近くにある町の宿の一室です。フラムアーク様がここを借り上げて、主に重症者用の療養に当てています。軽傷者は独立遊隊が近くの空き地に建てた天幕で治療した後、帰せる者から順次帰還手続きを取っています」
「独立遊隊……」

 そういえば気を失う前、ラウルの姿を見たような気が……ということは彼女の主で隊長でもあるエドゥアルトもここへ来ているんだろうか?

 あの大規模な襲撃には、実は彼らも絡んでいた……?

 そこまで考えて、私はハッと目を見開いた。

「エレオラ、“比類なき双剣(アンパラレルドゥ・デュアル・ウィールド)”が……! 彼らが私達をあの館から逃がしてくれたの!」

 勢いよく彼女の袖を掴んでそう言うと、そんな私に彼女は優しく頷き返して、こう話してくれた。

「ええ、存じています。知った時は本当に驚きました……まさかこんなことが、と。カルロ様には無事お会いして、色々お話しすることが出来ました。独立遊隊が持っていた情報と彼らの協力を得て、犯罪組織のアジトと人身売買のルートを特定することが出来そうです。今はその辺りについてフラムアーク様とスレンツェ様、それにエドゥアルト様を交えての話し合いが行われている最中かと」
「そう……スレンツェもカルロと会えたのね……良かった……」

 あの時私を助けてくれた大柄な騎士は、やっぱりカルロだったんだろうか。分からないけれど、それはまたおいおい尋ねてみよう。

「彼らが掲げる名は以前と変わりませんが、現在は反帝国を掲げる秘密組織(レジスタンス)ではなく、どこにも所属しない自警組織(ヴィジランテ)として活動しているようです。もっとも人員数は大幅に減り、今は以前の一割、その半数にも満たないと仰っていましたが……」

 以前は総数八千にも及ぶ大規模な組織だったものね……現在は四百を切る規模にまで減ったとはいえ、スレンツェという旗印を失い、大幅な方向転換を強いられてなお、それだけの人々が付いてくるカルロはやっぱり人格者と言えるんだろうな。

「ユーファさん、“比類なき双剣(かれら)”のことを始め、積もるお話は色々とありますが、まずは体調の確認をさせて下さい。どこか痛かったり、気分が悪かったりはしませんか?」
「……動かそうとするとあちこち痛むけれど、安静にしている分には問題ないみたい。気分の悪さも今のところ大丈夫よ」
「そうですか、それは何よりです。でも念の為、ファルマさんに診てもらいましょうね。今呼んできますから、少し待っていて下さい」
「! ファルマもここにいるの!? 彼女は無事!? ひどいケガを負ったりはしていなかった!?」
「はい。あの混乱の最中、ファルマさんがフラムアーク様を見つけて、ユーファさんの危機を知らせてくれたんですよ。フラムアーク様がギリギリ何とか間に合って、本当に良かったです」

 そうだったの……ファルマは命の恩人ね。本当にもう、感謝してもし足りない。

 何より、彼女も無事で本当に良かった!

 そのことに胸を撫で下ろしていると、そんな私を見つめていたエレオラがどこかためらいがちに声をかけてきた。

「―――あの、ユーファさんは……」

 視線を向けると、彼女は逡巡するように口をつぐみ、いえ、と言って笑顔を見せた。

「ファルマさんを呼びに行ってきますね」

 エレオラ……?

 私はそんな彼女の様子に違和感を覚えたけれど、知らせを受けたファルマが慌ただしく駆け付けてくると、騒がしさにそれどころでなくなった。

「ユーファ! あんたはもうっ、あんな別れ方してっ……! 私の寿命がどれだけ縮まったと思ってるんだっ!」
「ファルマ……すみません、あんなふうにあなたに全てを託してしまって」
「それは別にいいんだよ! あんたが悪いんじゃないし、仕方ない状況だったのは重々承知してるから! けどさ……! 第四皇子にボロボロの状態で運ばれて来たあんたを見た時には、本当に肝が冷えた! ああ、もう、目が覚めて本当に良かった……! 丸二日寝込んだままだったんだよ……本当に本当に気が気じゃなかった!」

 そう言って涙ぐむファルマの様子から、彼女が本当に私を案じてくれていたことが伝わってきて、胸がじんと熱くなった。

 ファルマ……。

「すみません、心配をかけてしまって。それから……そんなふうに心配してくれてありがとうございます。あなたも無事で本当に良かった。エレオラから聞きました、あなたがフラムアーク様に知らせてくれたんだって。そのおかげで、私はまたこうして皆のところへ戻って来ることが出来ました。あなたには何から何までお世話になって、本当に何とお礼を言っていいのか……ファルマ、色々とありがとうございました。あなたがいてくれて本当に良かった。心から感謝しています」

 心からの気持ちを伝えると、ファルマは少し照れくさそうな面持ちになって謙遜した。

「そんなに大したことはしていないよ、薬師として友人の為に当たり前のことをしただけさ。何より運が良かったんだよ。あのタイミングであんたの主が来てくれて、あの混乱の中で彼を見つけられて、本当に運が良かった」

 私は小さく首を振って、前身頃を合わせるタイプの清潔な寝間着に着替えた自分の姿と、あちらこちらに施された手当ての跡に視線を落とした。

「それはきっと、あなたにしか出来なかった『当たり前』ですよ。あなたにしか成し得なかった、あなたがいてくれたからこそ開かれた運なんだと思います。この着替えや手当てだって……本当にありがたいです」
「ちょっと照れくさいけど、まぁそういうことにしておこうかな。あ、ちなみに着替えと手当てはエレオラと二人がかりでやったんだよ。まあまあ大変だったかな」

 冗談ぽく顔を見合わせる二人に私はちょっと微笑んで、先程聞いた自分の状況を振り返った。

「私、丸二日も眠っていたんですか……」
「無理ないよ。ケガが治りきってないのにだいぶ負担をかけちゃったし―――それに、手酷い暴行を受けたんだろう?」

 ファルマは気遣わしげな表情になって、言葉を選びながらこう言った。

「辛いことを思い出させるかもしれないけど、私と別れた後あんたの身に何があったのか、ひと通り話してもらえないかな? 場合によっては別途処置が必要になるかもしれないし……」

 ファルマが何を心配しているのかはすぐに分かった。彼女は私が性的暴行を受けていないか、そこを心配してくれているのだ。

 着ていた寝間着はあの男に引き裂かれて半裸同然だったわけだし、状況的に彼女の懸念は当然と言える。ショーツは身に着けていたはずだけど、正直どんな状態になっていたのかは分からないし、彼女としては未遂と断定しきれずこの質問に至っているんだろう。

 おかしな話だけれど、そういう意味では私はグリファスに救われたと言えるのかもしれなかった。あのタイミングで彼が現れなければ、私はあの男に力づくで蹂躙されてしまっていたのかもしれない。

 それを思うと、心の底からゾッとした。

 私はファルマと別れてからの出来事を二人に話し、彼女達もまた、これまでの一連の経過を語ってくれた。

 それによると、私とファルマを連れ去った馬車の行方を追っていたフラムアーク達は、別ルートからの情報でやはり犯罪組織の拠点を目指していたエドゥアルト率いる独立遊隊と途中で出会い、急遽彼らと連携する流れになったのだという。

 ただフラムアークはフェルナンド側から間者が放たれている可能性を考慮して、現場まで彼らとは距離を置き、敢えて迂回ルートを進む選択を取った。

 フラムアークが二人の側用人だけを従えて犯罪組織の拠点へ向かっていることをフェルナンド側が知れば、攻勢をかけている相手側はこれを好機と捉え、一気に畳みかけてくるだろう―――これまでの流れからここでグリファス自身が出てくる可能性が高いと踏んだフラムアークは、相手がそう仕掛けてくることを狙って、彼らが手出ししやすい環境をわざと整えたのだ。

 フラムアークはこの機にグリファスと決着をつけ、それをもって水面下ではなく公然の場でフェルナンドとの全面対決に臨む決意を固めていたのだ。

 レムリアがあちら側の間者で私を突き落としたことを知らなかったフラムアークは、この時点でグリファスが私の口を確実に塞ぐ必要があるとは考えておらず、後になって自分より私の暗殺の優先順位の方が上だったことを知り、ひどく肝を冷やしたそうだ。

 重傷を負ったグリファスの身柄はラウルがしっかりと確保し、必要な手当てを施して、現在は独立遊隊の厳重な監視下に置いてあるという。

「それは……エドゥアルト様はフラムアーク様側に付いた、と考えていいの?」

 状況から光明を感じてそう尋ねると、エレオラは微妙な表情を見せた。

「それが……そういうわけではないようなのです。エドゥアルト様はあくまで独立遊隊としての任務でこちらへ赴いた結果、偶然にも皇族暗殺未遂事件の現場に遭遇したという体(てい)を貫いておられるようでして……。現場で取り押さえた人物がフェルナンドの側近グリファスだったことに独立遊隊内でも衝撃が広がっているようですが、エドゥアルト様が今後どのような態度を表明されるのかは定かでありません。グリファスはフラムアーク様暗殺未遂の現行犯として捕えてありますが、これから宮廷でどのような取引がなされ、どのような形で処遇が下されるのか、現状は不透明です」

 そんな……。

 眉宇を曇らせる私にエレオラは力強く言を紡いだ。

「でも、現状がどれほど混迷を深めていたとしても、フラムアーク様はきっとその中から道筋を見つけられますよ。私はそう思います。無事にユーファさんの意識も戻ったことですし、きっとユーファさんの証言がフラムアーク様の助けにも繋がるのではないでしょうか。色々と思うところはあるでしょうが、とりあえず今は身体を休めて、一日も早く回復するように努めて下さい」

 彼女の隣でファルマも大きく頷いた。

「そうそう、ケガ人はまずは第一に傷を治すこと考えて。……それにしても宮廷ってところは、噂に違(たが)わぬ伏魔殿なんだねぇ。王侯貴族に関わらず、宮廷勤めの人達は大変だ。ま、大したことは出来ないけど、私も微力ながら力添えするからさ、元気だして」

 エレオラ……ファルマ……。

 彼女達のその言葉は私にささやかな力をくれた。

「―――そうね。今は何より、回復に専念することが私の努めね。一日も早く回復して、フラムアーク様の役に立てるようにならなくちゃ」
「そうだよ、その意気! よし、さっそく薬湯を煎じて持ってこようか? あ、その前にまずはガーゼを取り換えておこうかな」
「あ、じゃあガーゼの交換は私が……ファルマさんは薬湯の準備をしてきて下さい」
「そう? じゃあ傷を診てから行くよ。エレオラ、包帯を外してもらえる?」
「はい。ユーファさん、前を失礼しますね」

 そう言ってエレオラが私の寝間着の前身頃を開いた時だった。

 廊下から慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、次の瞬間、勢いよく部屋のドアがバン、と開け放たれ、息せき切ったフラムアークが姿を見せたのだ。

「エレオラ! ユーファが気が付いたって―――」

 息を弾ませてそう言ったフラムアークは寝間着の前を大きくはだけた私を見て一瞬静止し、次いでカッと赤くなった。

「―――っ、ごめん!」

 再びバンッと勢いよく閉まったドアの向こうで、「ノックもなしにいきなり開けるヤツがあるか」とスレンツェの小言が聞こえ、フラムアークが彼に強めに小突かれている気配が伝わってきた。

 一瞬の出来事に呆然としている私の前で、ファルマがポツリと呟いた。

「ずいぶんと初心(ウブ)な反応するねぇ……この間はあんなに泰然としてたのに」

 それを聞いてハタと思い至った。

 考える暇もなかったけれど―――私、フラムアークに助けられた時、かなりあられもない姿だったんじゃ?

 ショーツははいていた(と思う)けれど、キチンとはけていたかどうか定かでないし、上は引き裂かれた布地を引っ掛けてただけで、もしかしたら色々と出てしまっていたのかも……!

 それに気が付いた瞬間、言葉にならない羞恥が込み上げてきて、猛烈にいたたまれなくなった私は両手で顔を覆い隠した。

 あの時は必死で、自分の見た目を気にする余裕もなかったけど、いやあぁぁぁ……! 冷静に思い出してみると恥ずかし過ぎて死にそう……!

 全身を朱に染めて羞恥に打ち震える私を見やったエレオラがファルマをたしなめた。

「ファルマさん……」
「ああ、ごめんごめん。ええと、見たところ傷は悪化していないようだし、さっ、薬湯を煎じてこようかなー」

 そそくさとファルマが部屋を出て行った後も、恥ずかしさが収まりきらない私はしばらく、気遣わしげなエレオラの傍で悶え続けたのだった。
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