病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

二十二歳B


 第四皇子が直々に出向いてくることなど想定もしていなかった田舎の駐屯所は、突然のフラムアークの訪問に蜂の巣をつついたような騒ぎになり、知らせを受けた所長があたふたと出て来て対応に当たる事態となった。

 地元住民から廃屋に住みついた野盗に対する陳情が出ている件について所長は全く把握しておらず、副所長も寝耳に水といった有様で、誰がこの件の対応に当たったのか確認が取れるまでにしばしの時間を要してしまった。

 結局十人いる小隊長の内の一人がその陳情を預かっていたことが分かったが、奇妙なことにその情報は所内でも隊内でも共有されておらず、小隊長以外の隊員は誰もそんな案件が出ていることを知らなかったのだ。

「も、申し訳ありません。日々の業務に忙殺され、そのような案件があったことを今の今まで失念しておりました」

 赤ら顔を青ざめさせながらフラムアークの前に立ったいかつい風体の小隊長は、夏の盛りに冷たい汗をかきながらそう申し開きをした。

「それは妙だな? 廃屋に住みついた野盗が街道沿いに出て人を襲っているとなれば、決して小さな案件ではないだろう。このようなのどかなところではむしろ大きな事案だと言えると思うが。それを失念していたという言い訳にはかなり無理があるな」
「……! そ、それは……」

 フラムアークに矛盾点を指摘された小隊長はしどろもどろの答弁に終始し、最終的には野盗側から賄賂を受け取ってこれを放置していたことを認め、床にひれ伏して謝罪した。

 所長と副所長もこの不祥事に顔面蒼白となり、平身低頭の体(てい)で部下の罪と指揮系統に連なる業務体制の不備を詫び、速やかに野盗の対策に当たることと後日改善報告書を提出することを約束した。

 彼らの処分は必要各方面を通じて後日追って科すこととし、ひと通りの役目を終えたフラムアークが馬車に乗って駐屯所を出る頃には、日は沈み、厚い雲が垂れこめた空に夕闇が広がっていた。

「すっかり日が暮れてしまいましたね……明日は天気が崩れるのかなぁ、星が見えない」

 御者台で手綱を握りながら空を眺めやるアキッレの隣でそっくり返ったボニートがぼやいた。

「あの野郎がグダグダ言い訳してさっさと罪を認めねぇから……あー腹減ったなぁ」

 フラムアークは苦笑しつつ、御者台の二人に馬車の中から声を返した。

「急いで戻りたいところだが、暗くて視界が悪いからね。安全運転でお願いするよ」
「了解です。颯爽(さっそう)と問題を解決した後で馬車がこけてしまっては格好がつきませんからね」
「うーん、颯爽と解決となったかは分からないけど、それは避けてもらわないとな」
「ははっ、違ぇねぇ」

 そんなやり取りを交わしながら座席に背もたれたフラムアークは、馬車に揺られながら別行動中のスレンツェ達のことを思った。

 こちらの方はあってはならない癒着があったという結果だったが、彼らの方はどうだったろう?

 廃屋に野盗達はいただろうか? その中にクランを襲った連中はいたのだろうか。

 それとも―――……。

 そんな考え事をしていた時だった。

「……ん?」

 アキッレが何かに反応し、ボニートが目を眇(すが)める気配が伝わってきた。

「なんだぁ、あの灯り?」
「人か……? おい、あれ、バルトロじゃないか?」
「バルトロ?」

 その声にフラムアークは身体を起こして窓際に顔を寄せた。すると彼らの言う通り、前方の暗闇に揺れるカンテラの灯りが目に入った。灯りが映し出す人影は、確かにバルトロのように見える。

 ほどなくして馬車が止まると、アキッレ達と息せき切ったバルトロとのやり取りが聞こえてきた。

「やっぱりバルトロだ……どうしたんだ、一人で。何かあったのか?」
「―――た、大変だッ……大変なんだ! フ、フラムアーク様は!?」
「おい、落ち着け。どうした、何があったんだ? ひとつ深呼吸して言ってみろ」

 落ち着かせようとするボニートの気遣いがもどかしい様子で、バルトロは切羽詰まった状況を訴えた。

「クランの家で出されたお茶を飲んでいたら、とっ、突然みんなが倒れてっ! フラムアーク様にお知らせしないと! フラムアーク様は!? 中か!?」
「ああ、中だが―――それじゃ何が何だか全然分からん。もっと要領を得て喋れ」

 その時にはただならぬ事態を察したフラムアークは人知れず馬車から下り立っていた。

「―――オレはここだよ、バルトロ」

 その声に弾かれたように首を巡らせたバルトロは、馬車を挟んで反対側に立つフラムアークの姿を捉えて涙ぐんだ。体格の良いボニートが邪魔になって、彼の位置からはフラムアークがそちら側から下りてきたところが見えなかったのだ。

「フラムアーク様、急いでお戻り下さい! クランの家で振る舞われたお茶を飲んでいたところ、彼女達を含め、皆が突然意識を失ってしまい―――!」

 全速力で馬車を回り込み緊急事態を告げるバルトロに、フラムアークは静かに頷いた。

「そうか。……残念だ」

 投げ捨てられたカンテラの灯りに、白刃が光る。

 夕闇に響いた金属音と、馬車に当たって油と炎を撒き散らすカンテラの破砕音に、アキッレとボニートは目を剥いた。馬が驚いていななき、御者台にアキッレを乗せたまま走り出す。

「うわ……っ!」

 突然のことに短い悲鳴だけを残して走り去っていくアキッレと、バルトロの一撃を自らの剣で受け止めたフラムアークとを忙しなく見やったボニートは、混乱の極みに達しながら、それでも状況を理解して腰の剣を抜き、第四皇子を狙う刺客へと変貌したバルトロへと肉薄した。

「バルトロ! てめぇ、どういうつもりだッ……!」
「気を付けろボニート! 彼はかなりやる!」

 フラムアークの指摘通り、バルトロと剣を合わせたボニートはその技量に驚愕した。

 こいつッ……!?

 スレンツェとは比べるべくもないが、ボニートも剣の腕前にはそこそこの自信がある。少なくとも第四皇子の護衛を務めるくらいの力量はあるのだ。だが、バルトロはそんな彼とやすやすと渡り合ってみせた。

 料理人兼物資補給係として任務に携わっていたあの優男とは思えない。

「っ……! とんだ食わせ者だぜ……!」

 フラムアークがこの男の初撃を受け止められたことが奇跡に等しいと、そう思った。重さも速さも正確さも、バルトロはわずかにボニートを上回る。アキッレがいれば二人がかりでねじ伏せられるだろうが、現状は雲行きが怪しい。

 その時、擦過音と共に微かな火花が夕闇に散って、近くから大量の煙が吹き上がった。フラムアークが上衣に忍ばせていた発煙筒を使ったのだ。

 そちらにバルトロが一瞬気を取られた隙を見逃さず、ボニートは剣を突き出した。だが、バルトロの反射はそれを上回った。彼は突き出された剣をかわしざま、懐から取り出した大量の香辛料が入った小袋をボニートの顔に向かって投げつけたのだ。

「がっ……!? ゲホッ、オェェッ……!」

 粉末状の刺激物に目と喉をやられ、涙と咳と嘔吐(えず)きが止まらなくなったボニートは戦闘どころでなくなり、いかつい顔を苦悶に歪めた。そんな彼を尻目にフラムアークへと向き直ったバルトロは、取り乱す様子もなく剣を片手にこちらを見つめる第四皇子へ問いかけた。

「……何故、分かったのですか。私が貴方に剣を向けると」
「……。ずっと引っかかっていたんだ。君とレムリアの件。状況に不自然な点こそなかったが、こちらとしては最悪のタイミングで、お膳立てされたようにオレにだけ痛手が及んだ状況は偶然で済ませるには手痛くて、上手く出来過ぎているなぁと思っていたんだよ。杞憂で済めばいいと思いながら、そこからずっと君を見ていた」
「……。だから、わざわざ私の死角になる方向から馬車を下りたんですね……。何も疑わずに手前から出てきてくれたなら―――もしくは馬車に乗ったままでいてくれたなら、勢いのままに距離を詰めて、ひと思いに楽にしてさしあげたのに……」

 どこか無念そうに呟いたバルトロは、薄暗い視線をフラムアークへと向けた。

「ずっと……私を疑っていたんですか」
「レムリアはユーファの親友で、君はレムリアの恋人だ。……そうでないことを祈っていたよ。だが、君が同行する行程で何らかのアクシデントが起こった場合は、スレンツェとは別行動を取ろうと前もって決めていた。もし君が行動を起こすなら、そのタイミングだろうと思ったから」
「―――仕掛けたつもりが、罠でしたか……」

 バルトロは自嘲混じりの吐息をついた。

「あの人とはさすがに渡り合えませんからね……あれは―――あの強さは反則です……」
「バルトロ―――君の背後には、誰がいる?」

 フラムアークの問いかけにバルトロは口をつぐんだ。

「……言えません」
「これは、君の意志か? それとも何かそうせざるを得ない事情があるのか?」
「この期に及んでそんなことを聞くんですか? ずっとあなたを欺いてきて、今こうして貴方の命を狙っている私に?」

 口元を歪めるバルトロを真っ直ぐに見据えて、フラムアークは明言した。

「オレは、オレがこれまで見てきた君自身の全てが嘘ではないと思っている」
「……!」

 バルトロは何かに穿たれたかのように呼吸を止めた。

 その様子を見て、フラムアークは確信に近い思いを抱く。

 十中八九、バルトロ自身に弑逆(しいぎゃく)の意志はない。おそらく何者かに強制され、この行動を余儀なくされているのだ。

 そもそも初日から彼の様子は不自然だった。ずっと顔色がすぐれずどこか塞ぎがちで、いつも通り振る舞おうとしている努力は見受けられたものの、フラムアークやスレンツェの目には明らかな変調ぶりだった。

 暗殺者としてはこの時点で失格だ。

 それに今のところ、戦闘不能のボニートにとどめを刺そうとする気配もない。彼の立場からすれば目撃者であるボニートは速やかに処するべきで、フラムアークを確実に殺す為にも排除しておくべきなのに。

 そうなると、最初の前提が崩れてくる。バルトロが元々フラムアークの暗殺を狙って近付いてきたのだとしたら、時をかけて入念に準備してきた計画のはずだが、彼の行動は色々と不自然で解せないし、これまでの周到な流れから一転、ちぐはぐとして、違和感しかない。

 そこから浮かび上がってくるのは、バルトロは意志を持たない駒であるという憶測だ。

 本人には駒という自覚すらないまま、第三者の手によって知らぬ間に盤上に組み込まれ、配置した者が望むタイミングによって強制的にある種の制約を課され、その意思に則(のっと)った行動を取らされるように仕向けられた、使い捨ての駒。

 彼の場合は騎士団を望みながら配属がかなわなかった、その剣の腕前が仇(あだ)となったのかもしれない。

『フラムアーク様。この御恩は、一生忘れません。私はしがない下級貴族の次男で、何の力もない非力な身ではありますが、私に何か出来ることがございましたら、いつでも、何なりとお申し付け下さい。どこにいても必ずや駆け付けて、貴方の為に尽力すると誓います』

 あの日あの時、涙ながらにフラムアークの前で片膝をついてそう誓ったバルトロの姿に偽りは感じられなかった。

 それはこれまで行動を共にしてきた任務においてもそうだ。

 だから一抹の懸念を抱きながらも断定しきれず、ずっと泳がせながら様子を見てきた。

 その考えに間違いがなければ、バルトロが今回このような行動に出た理由はおそらく―――。

「人質か?」
「……!」

 フラムアークの問いかけにバルトロは目を見開き、明らかな動揺を示した。

「レムリアを取られているのか? もしくは家族―――あるいはその両方か?」
「―――!!」

 バルトロの目にみるみる涙が浮かび、堪えきれなくなったように溢れ出た。強張った肩が震え、フラムアークに向けられた切っ先がカタカタと定まらない音を立てる。

「……っ、ど―――どうしてっ……! どうして、気付いてしまうんですか……! 恩を仇で返すような私のことなど、いっそ、心の底から憎んで下さればっ……」
「誰に命じられている? オレでは君の助けとなれないのか?」
「っ……お許し下さい……」

 バルトロは歯を食いしばるようにしてうつむいた。

 つまり、相手はフラムアークより格上ということだ。

「もうすぐスレンツェが来る。君が彼に敵わなかったとして、君の背後にいる連中もそこを責めはしないと思うが」
「その前に、決着をつけなければならないんです……」

 バルトロは小さく鼻をすすり、声を絞り出すようにして言った。

「横槍が入る前に私が貴方を殺すか、あるいは私と貴方、両方が死ぬことが人質解放の条件なんです……」
「……!」

 フラムアークは頬骨に力を込めた。

 その時周囲の闇が動いて、暗がりからゆっくりと、ならず者風のいで立ちをした男達が現れた。

 その数、二十人程。これまでどこに潜んでいたのか、微妙な距離を置きながらフラムアークとバルトロを囲むようにして、手に手に獲物を携えながらじりじりと無言のプレッシャーをかけてくる。

 一見野盗かと見紛うようないで立ちだが、そういう連中とは明らかに雰囲気が違った。

 もっと深い闇を纏った独特の気配―――状況的に考えて、バルトロの背後にいる人物によって差し向けられた刺客だろう。

「彼らが君の監視役であり、君が失敗した場合の保険であり、スレンツェの足止め役というわけか―――」

 そしておそらく、この男達が廃墟に住みついたという野盗達の正体だ。

 あの小隊長は彼らを本物の野盗だと思い込んで賄賂を受け取っていたのだろうが、彼らはその実野盗ですらなく、何もかもが最初から仕組まれていたことだったというわけか―――。

 だとするとクラン達は? 彼女達もそちら側か?

 油断なく男達を見据えながら、フラムアークは自身が置かれた状況を分析しつつ、目まぐるしく頭を働かせた。

 刺客の人数と彼らが五体満足であることから鑑(かんが)みるに、どうやらスレンツェ達とはまだ接触していないようだ。

「……っ、本当に、本当に申し訳ありません……! こ、こんな連中の手にかかってしまうくらいなら、いっそ私が……!」

 男達の出現に追い詰められたバルトロが涙を散らしながら動いた。

「よせ! バルトロ!!」

 振り下ろされる一撃をかわし、切り返しの剣を金属音を響かせて受け止めながら、フラムアークは訴えた。

「早まるな……! 一緒に考えよう、オレも君も、全員が助かる道はないのかを!」
「そんなもの、何晩も何晩もそれこそ寝ずに考えました……! けれど、そんな道ッ……何度考えてもありはしなかった!」

 張り裂けるような声で叫びながら、バルトロは再び剣を繰り出してくる。それをどうにか防ぎながらフラムアークは声を張り上げた。

「人質は実際にさらわれてどこかで監禁されているのか!? それとも……人質自身は何も知らずに監視されていて、君の成果次第で狙われる状況なのか!?」
「―――っ、後者、です!」
「なら……オレがもし君の後ろにいる人物だったなら……! 口先で脅すだけで、実際には人質に危害を加えるような真似はしない!」
「えッ……!?」

 瞳を揺らしたバルトロの剣を押し返すようにして後ろに大きく距離を取り、フラムアークはその根拠を述べた。

「君はハッキリ言って暗殺役に向いていない! 豊かな感情を殺しきれないし、そのせいで平静さを保てないからだ。だから対象者(オレ)にいとも簡単に気付かれるし、こうして対峙していても冷徹になり切ることが出来ない。そんな君にオレの暗殺を託して複数の人間を人質に取るなんて、そんな手の込んだ無謀な賭け、誰がすると思う? 実際に人が死ねば騒ぎになるし、色々な後始末に手間も時間もかかる。兎耳族のレムリアなんてその最たる例だ。成功率の低さに対して、負う危険(リスク)があまりに大き過ぎるんだよ。とても割に合わない」
「―――そ、れは……言われてみれば……確かに……」

 呆然とするバルトロにフラムアークは畳み掛けた。

「考えてみてくれ。そんな無謀な賭けに出るよりも、ここでこの連中にオレと君を殺させて君に全ての罪を被ってもらった方が断然効率がいい、そうは思わないか?」
「……!」
「死人に口なしだよ。今ならアキッレ達から君に不利な証言もたくさん取れるだろうし、あちらとしては非常に都合がいいだろうな。そしてそれこそが向こうの思惑だと思うよ」
「……!!」

 ぎゅっと唇を結ぶバルトロに向かってフラムアークは力強く言を紡いだ。

「バルトロ、どうか剣の矛先を変えてくれないか。そしてオレに君の力を貸してほしい。二人で力を合わせてこの局面を突破し、共に大切な人の元へ帰ろう」

 その申し出にバルトロは大きく瞳を彷徨わせ、戸惑いに喉を震わせた。

「―――しかし……しかしッ……! 正直、私はまだ混乱していて……! だって、もし貴方の言うことが外れていたら……!? 今この瞬間、レムリアが、家族が、本当に暗殺者に狙われていたとしたら……!? それに、貴方は私を信じられるのですか!? こんなっ……たった今、貴方を殺そうとしていた男を信じて、背中を預けることなど出来るのですか!?」

 それに対して、フラムアークは軽々と微笑んでみせた。

「オレは自分に都合のいいことは信じる主義なんだ。だって、バルトロはオレの為に尽力してくれるんだろう?」

 その言葉にバルトロはハッと息を飲んだ。

『どこにいても必ずや駆け付けて、貴方の為に尽力すると誓います』

 それは二年前、フラムアークに心からの忠誠を誓ったあの時、バルトロが彼に贈った言葉だった。そしてそれは昨年、テラハ領の丘陵地における戦いで、フラムアークが彼に引用してみせた言葉でもあったのだ。

 倍の軍勢を率いる相手を前に圧倒的に不利な状況の中、フラムアークは自身を守護する部隊をスレンツェ救出隊として送り出し、代わりに宮廷から帯同していたバルトロ達を自らの守護役に当てた。何の心構えもなしに突然戦場へと引っ張り出され顔面蒼白で剣を握るバルトロに、フラムアークはいとも涼しげにこう言ってみせたのだ。

『バルトロは元々騎士になりたかったんだろう? その気分を味わえて、ワクワクしたりはしないのか?』
『突然戦場に引っ張り出されてワクワクとか、無理です。正直に申し上げて、敵がここまで上がってきたら一巻の終わりですよ』

 のっぴきならない状況に全身の震えが収まらないバルトロに向かって、フラムアークは今と同じように、実に軽々と微笑んでみせたのだ。

『でも、バルトロはオレの為に尽力してくれるんだろう?』

 ―――そうだった。この方はあの時も―――。

 当時から既に灰色と目していたこの自分に、あの時フラムアークは確かにそう言って自身の背中を預けてくれたのだ。

 そこに思い至った瞬間に、バルトロの覚悟は決まっていた。

「……はい! はい、フラムアーク様!」

 バルトロが頷いた瞬間、叛意ありと見取った刺客達に動きが起こった。だが、それと同時に響き渡ったけたたましい馬のいななきが、彼らの動きを封じたのだ!

「―――!?」

 何事かと、思わずそちらに視線をやった刺客達は目を疑った。彼らの目の前に飛び込んできたのは、闇夜に燃え盛る一台の馬車が迫りくる光景だった。

 車輪を跳ね上げ、炎を吹き上げながら疾走するその馬車の御者台には決死の形相で手綱を握る男がおり、その隣には双剣を手に立つ長身の青年の姿が見える。燃え盛る凶器と化した馬車が二人の男を乗せたまま、恐ろしい勢いでこちらへと突っ込んでくる―――!

「スレンツェ! アキッレ!」

 喜色に顔を輝かせるフラムアークとは対照的に刺客達は色を失くし、退避をはかった。

「……ッ!」
「避(よ)けろッ!」

 全速力で突っ込んでくる火だるまの馬車に何人かが薙ぎ倒され、無残な悲鳴が宵闇に散る。ぶつかった衝撃で燃え盛る車体は大破し、大音量を上げて破片をまき散らした。派手に飛び散った火のついた破片から身を守ろうとする男達の間を外れた車輪が凶器と化して通り抜け、衝突直前に手綱から解き放たれた馬が、いななきながら炎の舞い散る混乱の地を駆け抜けていく。

 それに紛れるようにして降り立った双剣が闇を駆けた。刺客達に体勢を立て直す暇(いとま)を与えず、スレンツェが迅速に確実に人数を減らしていく!

 フラムアークは目を痛めたボニートをかばいながら、彼にその状況を伝え励ました。

「ボニート、アキッレがスレンツェを連れて戻ってきてくれたぞ! 辛いだろうがもう少し頑張ってくれ」
「面目、ねぇッ……」

 そんな彼らの盾となるように剣を振るい、馬車の直撃を免れた刺客からの襲撃を防いでいるのはバルトロだった。

「フラムアーク様は、殺させない……!」

 そう気を吐き、フラムアークに敵を近付けさせまいと、自身の禊(みそぎ)をするように激しい剣戟(けんげき)を展開する。

 その時、混乱に紛れてフラムアークの元へたどり着いたアキッレが、肩で息をつきながらその安否を確認した。

「フラムアーク様、ご無事ですか!?」
「ああ、おかげで助かったよ、君こそ怪我はないか?」
「少々火傷を負いましたが、大丈夫です」

 そう答えながら辺りに首を巡らせたアキッレは、この時バルトロの存在に気が付いた。バルトロはちょうど対峙していた相手を倒してこちらを振り返ったところで、直線上で二人の視線がかち合った。

 次の瞬間、バルトロは鬼気迫る表情で剣を手に、フラムアークへと向かってきたのだ!

「!」
「―――待て、アキッレ! バルトロは!」

 気付いたフラムアークが制止の声を上げるが、剣士であるアキッレは脊髄反射的に敵と認識したバルトロを攻撃する動きへと移っていた。

 炎と闇に彩られた戦場に、肉を貫く生々しい音と苦悶の呻(うめ)きが響く。

 アキッレの剣はバルトロの腹部を、その目の前で投げつけられたバルトロの剣は背後からフラムアークを射ようとしていた暗殺者の首を貫いており、目を剥くアキッレの前で、血反吐を吐いたバルトロは膝から崩れ落ちた。

「―――!?」
「バルトロッ!!」

 フラムアークが叫びながら駆け寄るが、明らかな致命傷と分かるそれを前に、為(な)す術がない。

「……! しっかりするんだ……!」

 奥歯を噛みしめるようにしながら手を握って呼びかけると、バルトロはうっすらと目を開けて、血の気を失いつつある唇を動かした。

「フラ……、アーク、様―――申し、訳、あり……ません……」

 フラムアークは首を振ってバルトロに感謝の言葉を述べた。

「いいんだ。ありがとう、オレの命を救ってくれて。……何か、伝えたい言葉はあるか」

 その間にも赤黒い血だまりがみるみる地面の上に広がっていく。バルトロの命の期限が刻々と迫っているのが見て取れた。

「ど……うか―――どうか、レムリア、を……か、ぞくを―――お、おね、が―――」

 再び吐血し、咳込むバルトロを安心させるようにフラムアークは頷いた。

「任せてくれ。君の大切な者達に危害が及ばないよう、オレが責任を持って対応に当たる」

 柔らかく微笑んでみせたフラムアークに、バルトロはわずかに頬を緩め、無念の涙をこぼした。

「あ……あり、が、とう……ござ……、レム、リア……愛……てる、と―――……」
「……うん。伝えるよ」

 ひゅう、とバルトロの喉が鳴った。くぐもった音と共に血の泡が噴き出て、焦点の定まらなくなった眼球がぐるん、とひっくり返る。

「…………」

 もはや声を出すこともかなわなくなったバルトロは、最後に執念で唇を動かして、フラムアークに何か伝えようとした。フラムアークは彼の最期の言葉聞き逃すまいと、目と耳を凝らした。

 グ……リ……。

 その形を刻んだところで無念にもバルトロは力尽き、事切れた。

 フラムアークは瞑目し、きつく唇を結んだ。

 まだ温かいバルトロの手を握りしめ、込み上げてくる激情を押し殺し、彼の冥福を祈りながら、その命を無駄にしないことを心に誓う。

 全てを終えてやってきたスレンツェはその光景を目の当たりにして、おおよその状況を察した。バルトロの手を握ったまま黙するフラムアークの背後にそっと寄り添い、残党の襲撃がないか周囲に目を光らせながら、淡々と状況を報告する。

 フラムアークはそれに頷き返しながら、責務に徹することで己の立場を律し、冷静さを保つよう努めていた。

 その頃になって、ようやく異変に気付いた駐屯所から遅ればせながら一小隊が駆け付けてきて、事態の収拾に当たり始めた。

 深まる夜の闇を彩る炎の残滓(ざんし)が、あたかもこの場で散った者達への送り火のように、夏の夜空に重苦しい白煙を吐き上げていた―――。
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