所用を済ませ、スレンツェ達と共にユーファの待つ宮廷へと帰路を急いでいたフラムアークは、助けを求める声を聞き、馬の足を止めた。
街道沿いに畑が広がり、民家がポツポツと点在するような場所で、畑の奥には鬱蒼(うっそう)とした林が続いている。
「聞こえた? スレンツェ」
周囲を見渡すフラムアークの傍らで、やはり馬の足を止めたスレンツェが頷きを返した。
「ああ、聞こえた」
話す合間にもう一度、甲高い悲鳴のような声が聞こえてきて、スレンツェがそちらに手綱を操った。
「行って見てくる。お前は馬車の連中とここで待っていろ。エレオラ、来てくれ」
「はい」
連れ立って駆け出した二騎を見送り、フラムアークが馬車のバルトロ達とそちらを気にしながら待っていると、ほどなくして足を怪我した若い女性を連れた二人が戻ってきた。
「二人組の男に襲われていた。かどわかされるところだったらしい」
女性を地面に下ろしながらそう報告するスレンツェの隣で、エレオラが腰のポーチから携帯用の救急キットを取り出し応急処置を始める。最近帝国内を騒がせている事件とも重なる内容に、フラムアークは眉をひそめた。
「その男達は?」
「オレ達の姿を見るなり逃げていった。野盗のような身なりをした連中だった」
「そうか……」
フラムアークはエレオラの手当てを受けながら青ざめて震えている女性の前に片膝をつき、なるべく穏やかな表情と声で尋ねた。
「君はこの辺りの人? 襲ってきた連中に心当たりはある?」
女性はぎこちなく頷きながら、身分が高そうな整った顔立ちの青年を見上げた。
「はい……このすぐ近くの家に住んでいます。畑仕事をしていたところを急に襲われて、林の中に連れ込まれて……」
恐怖が冷めやらぬ様子の彼女は目に涙を滲ませながら、おおまかな状況を語った。
「見たことのない男達でした。でも、心当たりというか……最近、ここから少し離れた場所にある廃屋に野盗が住みついたという噂があって……旅人や商人が襲われたという話を聞いていたので、もしかしたらさっきの奴らがそうなのかも……」
彼女の話によれば、野盗達は半月程前からその廃屋に住みつくようになったといい、不安を感じた地域住民らが近くの駐屯所へ対策を取ってくれるよう陳情を申し入れに行ったそうなのだが、今のところ人が殺されるなど重篤な被害が確認されていないことと多忙を理由に先送りにされてしまっているのだという。
「それが本当なら由々しき事態だ」
フラムアークは眉根を寄せた。
帝国の各地に置かれている大小様々な駐屯所は、有事の際の国防はもちろん、国民の安全を守る義務も担っており、二十四時間体制で兵士が常駐している。
今回彼女を襲った男達が問題の野盗と同一かはさておき、こんな街道沿いに野盗が出没してそのような被害が出ていること、そういった情報が共有されていないこと自体が大きな問題だった。
実際、こうしてこの街道を利用しているフラムアークの耳にもそんな情報は届いていなかったのだ。
女性や子どもがかどわかされる事件が相次いでいる最中だというのに―――。
こういう事例(ケース)で散見されるのが、本来あってはならないことなのだが、犯罪者側から取り締まる側に賄賂が贈られていて見逃されているというパターンだ。
そういった懸念と、万が一にも帝国内を騒がせている誘拐事件と関連するやもしれない可能性を考慮すると、フラムアークとしてはこの件を放っておくわけにはいかなかった。
今日中に宮廷へ戻ることは叶わなくなってしまうが、仕方がない。
そんな成り行きでクランと名乗った被害女性を自宅まで送り届けることになった一行は、家にいた彼女の両親に事情を説明し、彼らにも情報を求めた上で、今後の動きについて話し合った。
「駐屯所にはオレが確認に行ってくる。アキッレ、ボニート、付いてきてくれ」
フラムアークは自身の付き添いに今回護衛役として帯同しているいぶし銀の兵士達を指名した。彼らとは何度も任務を一緒にこなしている間柄で、実力も気心も知れている。
「―――でしたらフラムアーク様、私も」
バルトロが名乗りを上げたが、フラムアークはその申し出をやんわりと断った。
「バルトロはあまり体調が思わしくないんだろう? 無理せず待機しながら身体を休めていてくれ」
実はバルトロは初日からどこか顔色がすぐれない様子で、口数もいつもより少なめだった。フラムアークはそれに気付いていた。
「フラムアーク様……」
第四皇子の気遣いを身に沁みて感じている様子のバルトロにひとつ頷いて、フラムアークは話を進めた。
「スレンツェとエレオラは悪いが廃屋の方を確認してきてくれるか? 野盗達が本当に住みついているのなら、さっき君達を見て逃げた連中がその中にいるのかどうか……問題はその場所だな。地元の誰かに案内してもらえると助かるんだが」
「それなら私が。娘を助けていただいた恩もありますし……」
話を聞いていたクランの父親が名乗り出た。
「そうしてもらえると助かる。お願い出来るだろうか?」
「はい。ただ、私が留守にするとなると、この状況で妻と娘を残していくのが少々気掛かりで……」
「それなら心配無用だ。ここにいる残りのメンバーを護衛役として置いていこう。男五人で少し大所帯になってしまうかもしれないが……」
「いえ、そうしていただけるなら安心です。こちらとしては願ってもありません」
「そうか。ではそのように頼む。じゃあバルトロ達はこの家でクラン達の護衛に当たりつつ、必要に応じてオレやスレンツェのサポートに動くように待機していてくれ」
「分かりました」
皆がそれぞれ動き出す中、スレンツェがフラムアークにさりげなく耳打ちした。
「問題ないか?」
「うん。大丈夫」
「何かあったらこれを使え。どこにいてもすぐ駆け付ける」
上衣のポケットにそっと押し込まれたのは発煙筒だった。先端についた紐を引き抜くと摩擦で発火するタイプのものだ。
「三日ぶりにユーファの顔を見れるかと思っていたが、どうやら少し先になってしまいそうだな」
「残念だけど仕方がないね。目の前の問題を見過ごすわけにはいかないし」
「……そうだな」
傍目には何気ないそんなやり取りを交わして、フラムアークはスレンツェ達と別れ、護衛役の二人と共に馬車に乗り込み、最寄りの駐屯所へと向かったのだ。
*
厚みを増した灰色の雲の隙間から覗く日が傾き始めた頃、クランの父親の案内で件(くだん)の廃屋へとたどり着いたスレンツェとエレオラは、物陰から遠目にその様子を窺っていた。
草木に囲まれて苔生し、風景と同化してしまいそうな古ぼけた廃屋に今のところ人の出入りはなく、窓からも人影は視認出来ない。しばらく周辺の様子を探った後、二人は人気がないのを確かめてから建物内へと足を踏み入れた。
傾いたドアが軋んだ音を立てながら開いた先、雲に遮られた弱い西日が差し込んだ室内にはやはり人の姿はなく、不自然なくらいガランとして、物ひとつ見当たらない。長い間放置され張り巡らされた蜘蛛の巣と腐食して傷んだ床や壁だけが目に付き、不気味な静寂を漂わせていた。
「こ、これは……? どうなってるんだ? もぬけの殻じゃないか。確かにここに野盗達が住みついたと聞いていたのに」
困惑の声を上げるクランの父親を尻目に室内を見て回ったスレンツェとエレオラは視線を交わし合った。
「……スレンツェ様、これは」
「ああ。どうやら逃げられたな。最近まで間違いなく人はいたようだが」
天井には埃が積もり、建物自体の傷みと張り巡らされた蜘蛛の巣の装飾も相まって、一見するとしばらく人の出入りがないように映るが、床には不自然に埃が積もっておらず、埃だらけの窓枠とは裏腹に窓の表面には拭いた形跡があり、室内から外の様子を窺っていた痕跡があった。
野盗かどうかは分からないが、これらの状況は直近までこの廃屋にいた何者かが意図的に無人であったかのように装い、この空間から消え失せたことを物語っていた。
「どうあっても足跡は残したくなかったようだな。立つ鳥跡を濁さず、と言うが、こんなに不自然な痕跡を残してまで」
「このタイミングで訪れた私達にはその不自然さが分かりますが、役人や駐屯所の兵が確認に来るまで日数がかかれば、それも曖昧になってしまうかもしれませんね」
「それも狙いだろうな。こちらはその工作のおかげでどの程度の人数がここにいたのかも分からないし、伸び放題の雑草に覆われた建物周辺の足跡をのんびり数えている暇もなさそうだ。まもなく日は暮れ、雨が降れば外の足跡は消える……あたかもこの廃屋はずっと無人のままで野盗などいなかったと、そう主張するかのような撤収の仕方……手際が良過ぎるしタイミング的に嫌な予感しかしないな。一度クランの家まで戻って皆と合流しよう」
「はい」
厳しい表情で頷いたエレオラはスレンツェにある疑念を投げかけた。
「私達が遭遇した男達は、もしや始めから―――」
「可能性はある。第四皇子一行と知った上で、オレ達が通るタイミングを見計らって犯行に及んだのかもしれない。フラムアークの性格上、見過ごすことなど出来はしないからな。ましてや帝国内で問題になっている案件と関連を匂わせるような内容であれば、あいつが次にどう動くかは予測しやすい」
「彼(か)の者に連なる者の仕業でしょうか?」
エレオラの指す「彼の者」とは無論第三皇子フェルナンドのことである。
「そうでないことを願いたいが―――とりあえず、現状はまんまと分断させられた格好だ」
「ではクラン達は―――」
声を潜めるエレオラをスレンツェは視線で制した。
「表情や言動に不自然な点は見られなかったが、現時点では何とも言えない。もう少し情報が集まるまで注意を怠らないように警戒してくれ」
「承知しました」
廃屋を検分し終え、入口で待っていたクランの父親と共に急いで皆の待つ家へ取って返したスレンツェ達は、そこで思わぬ光景を目撃することとなる。
そこで彼らを待ち受けていたのは、テーブルを囲むようにして倒れている待機組の面々と家主の母娘の姿だったのだ。
「……!」
テーブルに突っ伏している者、椅子に寄りかかるようにしている者、床に転がっている者―――テーブルの上には茶菓子と茶器が散乱してカップの中身がこぼれており、振る舞われたお茶に何かが混入されていたと推察される状況だった。
「―――ク、クラン! マチルダ! いったい何が……!?」
青ざめたクランの父親が娘と妻に駆け寄り、スレンツェとエレオラも急いで倒れている仲間達の様子を確かめる。
「……皆、眠っているだけのようです。どうやら飲み物の中に睡眠剤が入っていたようですね」
ひと通り皆の様子を見て回ったエレオラは、とりあえず毒物ではなかったことに安堵の息をもらしたが、それを聞いたクランの父親は色を失くした。
「わ、私の妻と娘は、人様に薬を盛るような人間ではありません……!」
「ええ、分かっています。大丈夫ですよ。薬を入れた張本人なら、それを飲んだりはしませんものね」
実際は偽装の為に飲むこともあり得るだろうが、エレオラはそんな素振りを一切見せず、動揺する父親を安心させるように大きく頷いてみせた。何よりこの時、彼女にはそれ以上に気掛かりなことがあったのだ。
そして、それはスレンツェも同様だった。
「エレオラ。この場をお前に任せてもいいだろうか」
そう問われ、瞬時に彼の意図を察した彼女は、迷わず胸に手を当ててその役を引き受けた。
「お任せ下さい。どうぞこちらのことはお気になさらず、お気を付けて」
「すまない、宜しく頼む。……お前も充分に気を付けろ」
「はい」
言わずとも通ずる聡明なエレオラにスレンツェは感謝とわずかな憂慮の入り混じった眼差しを向けて、踵(きびす)を返した。
わけが分からない様子のクランの父親にそれとなくフォローの言葉をかけながら、エレオラはスレンツェが自分を信頼してこの場を任せてくれたことを誇りに思い、足早に遠ざかっていく彼の背中を見送った。
いつかは彼がこちらの身を案じずとも、安心して背中を預けられる存在になりたい。その為にも今はクラン達の動向に注意しつつ、この場を守り切り、彼が目の前のことだけに集中出来るように努める。
スレンツェの信頼に応えられるよう全力を尽くす―――それがエレオラの役目であり、存在する意義であり、彼女自身の望むところでもあるのだ―――。