ハワード辺境伯の末娘アデリーネ嬢がフラムアークの凱旋を聞きイクシュル領から帝都へと駆け付けたのは、私達が宮廷に帰還してから半月程が経った頃だった。
「アデリーネ……」
自身の居室で彼女を出迎えたフラムアークは、若葉のようなペリドットの瞳に大粒の涙を滲ませる彼女の細い肩をそっと抱き寄せて、その来訪を歓迎した。
「迷惑なわけがない。会いに来てくれて、嬉しいよ」
「フラムアーク様……」
寄り添う二人はとても絵になっていて、久々の再会を果たした恋人同士そのものに見えた。
アデリーネ嬢に向けられる、慈愛に満ちたフラムアークの眼差し。柔らかな声。彼の腕の中で頬を染め、安堵の表情を浮かべる彼女の姿……。
これまでも似たような光景を何度も目にしてきたはずなのに、胸が鈍い音を立てて軋んだ。暗いもやが胸の奥を侵食していくようなこの息苦しさは、フラムアークへの想いを自覚してから時を重ねるごとにじわじわと増して、私を苛んでいるような気がする。
あの夜は、本当に現実にあったことなのかしら……?
そんなふうに考えてしまうくらい二人の間に漂う空気は親密で、私が入る隙間などないように思えた。
それに……フラムアークの真意は分からないけれど、少なくとも私が見る限り、アデリーネ嬢の顔は恋をしている女性の顔に見えた。安否を憂えていた大切な人の無事を確認して、心から喜んでいる顔だ。
臣下ならば惹かれ合う二人の再会を祝福し、温かな気持ちで見守らなければならないはずなのに、立場に反して、どうしようもなく心が沈んでいくのが分かった。
アデリーネ様は、とても可愛らしい方だ。
フラムアークと同い年で明るい茶色の髪をふんわりと結い上げた彼女は、丸いおでこをスッキリと出した気品のある優しい顔立ちをしている。楚々としていながら陽だまりのような明るさを持ち合わせていて、私やスレンツェにも最初から分け隔てなく、気さくに接してくれた。花も実もあるとてもいい方なのだ。
フラムアークが選ぶのも納得の女性。身分も皇妃とするのに申し分ない。家柄も品格も彼と並んで遜色のない、文句のつけようのない方なのだ―――。
お茶の用意を済ませた私は、ぎゅっと胸が引き絞られるような想いに囚われながら、フラムアークの居室を後にした。
「あの方はどういった方なのですか?」
アデリーネ嬢と初対面のエレオラがそう尋ねてきたので、暗い気持ちを押し隠して彼女にアデリーネ嬢の素性を説明する。
「まあ、フラムアーク様の……。しかもハワード辺境伯の御息女なのですね。失礼のないようにしないと」
「そんなに肩肘張らなくて大丈夫よ、とても気さくな方だから。私達にもとても優しく接して下さるの」
それを聞いたエレオラは笑顔になった。
「色も香(か)もあるなんて、さすがフラムアーク様の選ばれる方ですね。こちらへは度々いらっしゃるのですか?」
「そんなに頻繁ではないわ。イクシュル領は帝都(ここ)から遠いし……二〜三ヶ月に一度といったところかしら。なかなか会えない分、手紙でやり取りもしているみたい」
「では、積もる話もおありでしょうね」
「そうね。なるべく邪魔しないよう、二人で過ごす時間を有意義に使ってもらえるように配慮しましょう」
アデリーネ嬢は身の回りの世話をする侍女を一人と、十人程の護衛を伴って来ていた。
彼らも第四皇子と主との久々の逢瀬を邪魔しないように心掛けていて、極力二人きりにさせようとしている配慮が見て取れる。
二人が恋仲と目されるようになってから二年ほど経つし、アデリーネ嬢側はもちろん結婚を視野に入れて動いているんだろうな……。
そんな二人の仲は宮廷内でも関心が高く、アデリーネ嬢の来訪はあっという間に宮中が知るところとなり、人々は好奇の目で二人の様子を窺いながら、あることないこと興味本位に噂し合った。
毎度のこととはいえ、煩わしくてかなわないわ……。
聞きたくもない憶測混じりの噂話が勝手に耳に入ってくる状況にうんざりしながら中庭に面した回廊を歩いていると、丁度そこへアデリーネ嬢を伴ったフラムアークがやってくるのが見えて、私は思わず足を止めた。
中庭を散策する二人は遠巻きに見守る周囲の目など気にしていない様子で、咲き誇る季節の花を愛でながら穏やかに談笑している。
皆から注目されるのが皇族の宿命だもの、皇帝になろうという人が、この程度のことで気後れなどしていられないわよね……。
私はそんなことを思いながら二人の様子を眺めやった。
フラムアークもアデリーネ様も実に堂々としていて、眩しいくらいだ。
私には……厳しいなぁ……。
きゅっと唇を結んで、私は半眼を伏せた。
こんな衆人環視の状況で逢瀬を楽しむなんて、私には無理だ。落ち着かなくて、とても出来そうもない。
でも、それが出来る人でなければ、彼の隣は務まらないのよね……。
―――遠いなぁ。
陽だまりの中庭に見えるフラムアークの背中が遠い。身近にいるようで、目に見えない壁で隔てられた遠い次元にいる人なのだと改めて思い知らされるようだった。
それを寂しく感じて暗澹(あんたん)とした気持ちになっていたその時、ちょっとしたハプニングが起こった。
どうやら小さな虫がアデリーネ嬢の頭に止まってしまったらしく、小さく悲鳴を上げてしゃがみ込んだ彼女の頭上にフラムアークが手を伸ばして、それを取り除いてあげている。幸い有害な虫ではなかったらしく、彼は肩を震わせる彼女に微笑みながら声をかけ、優しく手を差し伸べて助け起こしてあげていた。
顔を真っ赤にしたアデリーネ嬢はフラムアークを見つめ、彼はそれを見つめ返して、見ているこちらが恥ずかしくなるような甘酸っぱい雰囲気に包まれる。いたたまれなくなった私は、足早にその場を後にした。
止めようと思っても止められない醜い気持ちが後から後から溢れ出てきて、それで胸がいっぱいになり、そんな自分を心底嫌悪する。
どっちつかずの私にこんな気持ちになる資格なんか、ない。
そう思うのに、取り留めのない思考が頭の中をぐるぐる渦巻いて、消えてくれなかった。
私はフラムアークにちゃんと気持ちを伝えられたわけじゃない。
皇帝としての将来を見据えたなら、名実ともに伴侶としてふさわしいのはアデリーネ様だ。そんなこと、考えるまでもなく分かっている。
だからきっとフラムアークは、皇帝を目指す彼は、私への想いを自分の胸に押し込めてそれを語ることはないのだろう。一夜の夢の中にその想いを閉じ込めたまま、きっとそれを伝えることはない。
そもそも彼の私への想いは、母親の愛情を得られなかったことに端を発する、身近な異性に向けられた雛の刷り込みのようなものなのかもしれないし―――年だってずいぶんと離れているし、アデリーネ様と向き合ううちに彼の気持ちが変わっていくことだって、充分に考えられた。
―――だって、あれはもう一年以上前のことだもの。
私はおぼろげになっていく彼の感触をなぞらえて、そっと自分の唇に触れた。
あの頃とフラムアークの気持ちが変わっていない保証なんて、どこにもない。
そう思ってしまってから、矛盾だらけの自分の思考の卑しさに自嘲がこぼれた。
何を期待しているの? 私のフラムアークへの想いは彼の足枷にしかならないと、フェルナンドに格好の攻撃材料を与えてしまうだけなのだと、頭では理解しているはずなのに。自分からこの想いを伝えるつもりはないと、そう決めたはずなのに。
それなのに、無意識に彼の気持ちを求めてしまっている。彼に自分の方を向いていてほしいと、心の奥底でそう願ってしまっている。
身勝手で矛盾としか言いようのない、浅ましい情動。
―――こんな醜い嫉妬に駆られながら、一方で、スレンツェの手を離すことも出来ないクセに。
先日、真っ直ぐな気持ちを伝えてくれた彼のことを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
足元から終わりのない暗い底なし沼に沈んでいくような気がして、私は自己嫌悪に暮れながら、明けることのない深い深い溜め息を漏らしたのだった。
*
「スレンツェ様、見当違いなことを申し上げるかもしれないのですが……」
フラムアークの執務室で二人きりになった時、エレオラからためらいがちにそう切り出されて、書類に目を落としていたスレンツェは視線を上げた。
「何だ?」
「はい。あの……今回のアデリーネ様のご来訪は、単にフラムアーク様のご無事を確認したかっただけでなく、何か別の思惑もあってのことなのでしょうか?」
その質問にスレンツェはひと呼吸置いて尋ね返した。
「……。どうしてそう思う?」
「特に理由があるわけではなく、何となく私がそう感じただけなのですが……」
エレオラはそう言い置いて、そう感じるに至った理由を説明した。
「久し振りに会われたのに、お部屋で二人きりで過ごされるより、外へ出て過ごされる方が多いなと思いまして……もしかしたら、二人でいる姿を周囲に印象づける思惑もあっての今回のご来訪なのかと、そう感じたものですから。そうでなければ……私がアデリーネ様の立場でしたら、衆人の注目を浴びてしまう外で一緒に過ごすよりは、大切な方と二人きりで語らう時間を取っていただけた方が嬉しいと、そう思ってしまったものですから……」
「そうか。エレオラはそういうタイプなんだな」
「お、多くの女性はそうだと思います。一概には言えませんが」
頬を染めてそう答えたエレオラは、スレンツェに素朴な疑問をぶつけた。
「スレンツェ様は……男性側は、そういうものではないのですか?」
「どうかな。一概には言えないが……オレはどちらかと言えばお前と同じタイプだと言えるかな。だからと言ってフラムアークがそうでないとは言えないが。今回の来訪について特別他の意図があるとは聞いていないが、アデリーネ嬢を連れ歩くのは単に見せびらかしたいだけなのかもしれないし、今後のことを視野に入れて彼女の顔を周囲に知らしめたい思惑があってのことかもしれないな。それに、彼女の存在を誇示することでまた小うるさい蠅が沸かないよう牽制する狙いもあるのかもしれない」
「小うるさい蠅……?」
「彼女が現れる前、玉の輿目当ての令嬢達がフラムアークの周りに沸いて迷惑を被った時期があったんだ」
「ああ、なるほど。そういうことですね」
納得した様子のエレオラにスレンツェはこう告げた。
「フラムアークにはそれとなくお前が気にかけていたことを伝えておくよ。あいつにそんなつもりはないのかもしれないが、アデリーネ嬢に寂しい思いをさせているとしたら申し訳ないし、お前のような違和感を覚える者が他にもいるかもしれない。あらぬ誤解を生んでも困るからな」
「私が穿った見方をし過ぎなのかもしれませんが……」
「いや。そういう視点は大事だ。また何か気付いたことがあったら遠慮せずに教えてくれ」
「かしこまりました」
スレンツェ自身もフラムアークもそういった機微に疎いとまではいかないと思うが、敏感とも言えない自覚はあったので、エレオラのようにそこを指摘出来る存在はありがたかった。
実際フラムアークの狙いは目下、フェルナンドからユーファを隠すことにあるのだ。
このタイミングでアデリーネ嬢が駆け付けてくれれば二人の仲はより信憑性を増し、彼女の影にユーファを隠すことが出来る。
そんな思惑が少々外に出過ぎてしまったようだ。
エレオラのように勘の良い者もいる。見せびらかし過ぎは禁物だな……。
そんなことを考えながらふと、先程の赤くなりながら一生懸命に自分の意見を述べていたエレオラの様子が思い出されて、スレンツェは口元をほころばせた。
「? どうかされましたか?」
目ざとくそれに気付いた彼女に怪訝な顔をされて、素知らぬふりを返す。
「いや……」
エレオラのあんな一面は初めて見た。存外可愛らしい反応をすると思ったが、言葉にすると叱りを受けそうなので、自分の心の中だけに留め置くことにする。
その後、外出を控え目にしたフラムアークは人目を避けてアデリーネ嬢と親密な時間を過ごし、数日後、アデリーネ嬢が後ろ髪を引かれながら宮廷を後にする姿を目撃した宮廷従事者達の間では、更に仲が深まった様子の二人について、婚約がそう遠くないのではないかという憶測がまことしやかに囁かれ、しばらく宮廷内はその噂で持ちきりとなったのだ―――。