病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

二十一歳M


「ユーファお帰り〜! バルトロから聞いたよ、色々大変だったって!」

 宮廷に戻った後、久々にレムリアの元へ顔を出した私は、両手を広げて迎え入れてくれた彼女にハグを返した。

「ただいま」

 ああ、何だかこうしてレムリアの顔を見たら、無事に帰ってこれたんだって実感が改めて湧いた。

「さー入って入って! 今、飲み物を用意するね!」
「ありがとう。今日はこれからバルトロと会う予定があったりしない?」
「ううん、大丈夫だよ! バルトロとは昨日会ってゆっくり話せたから」

 去年皇帝の庇護が解かれて、制度上は人間と兎耳族の婚姻が可能になったとはいえ、宮廷内の目は未だ厳しいものがあり、レムリアとバルトロは現在もなるべく人目を避けて会わざるをえないような状況にあった。

「こんなふうにお互いの部屋で気兼ねなく会えたらなぁ、とは思うけど、周りの目があってなかなかね……。でも、宮廷の外で会うことも出来るようになったし、外で会えば宮廷よりは人目を気にしなくて済むから、前に比べたら全然いいかなぁ。そんな贅沢言えた義理じゃないってのもあるしね」

 レムリアは苦笑混じりにそう言ったけど、せっかく自由に恋愛出来るようになったはずなのに、一度根付いてしまった世間の風潮というのは、なかなかままならないものね……。

「じゃあ、今日は私があなたを独占しちゃっても大丈夫?」
「もっちろん! 独占してよ〜あたしも久々にユーファを独占したいし。いっぱい語り合おうよ〜」
「良かった。私も話したいことがたくさん溜まっているの」

 本音を言えばフラムアークとスレンツェに対する自分の気持ちや、彼らとの間にあった一連の出来事をレムリアに相談してしまいたかった。けれど、去年恋愛話に端を発したレムリア達の問題でフラムアークに迷惑をかけてしまっていることを踏まえると、自重せざるを得ない。それが残念で心苦しかった。

 レムリアのバルトロに対する気持ちを聞いていたことが、まさかあんなふうにフラムアークを陥れる手段として皇太子達に使われるなんて、思ってもみなかった。私の自覚のなさが招いてしまった苦い経験だ。

 レムリア自身もそれで私とフラムアークに迷惑をかけてしまったという思いがあるから、彼女は私がスレンツェに特別な感情を抱いていることを知っているけれど、あの一件以来、一度もそれについて触れてこなかった。

  フェルナンドとの対決姿勢が鮮明となった今、何を攻撃材料にされるか分からないから、これまで以上に迂闊なことは話せないし、気を付けなければいけないわよね……。レムリアに迷惑をかけることになりかねないもの。

 そんなことを心に留め置きながら、私はバルトロ達と別行動になった後、ガーディアへ立ち寄ってきた話をした。それを聞いたレムリアは大きなトルマリン色の瞳を輝かせて、もうずっと帰れていない故郷を懐かしがった。

「ええー、いいなぁ! 町の現状を見るのはちょっと怖いような気もするけれど、でもやっぱり、一度きちんと自分の足で訪れてみたい……。でも、そっか……今はもう、芽吹いた緑に抱かれて、みんな静かに眠っているんだね……。それを聞いてちょっと安心した……」

 瞳を伏せて少し寂し気にそう言ったレムリアは、その気分を振り払うようにパッと表情を変えて、フラムアークを褒め称えた。

「それにしても、やっぱりフラムアーク様はいい男だね! 忙しい中そうやって時間を調整して、ユーファの為にわざわざガーディアへ立ち寄ってくれるなんて……見た目も中身も素敵すぎる! うんうん、ユーファの育て方は間違ってなかった!」
「レムリアったら、語弊があるわよ」

 苦笑してたしなめる私の言葉などどこ吹く風で、レムリアのフラムアークへの称賛は続く。

「バルトロもフラムアーク様のこと絶賛してたよ! 予想外に戦場に引っ張り出されて、しかも倍以上の敵を目の前にして、バルトロは経験したことがないくらい緊張したし怖い思いもしたけれど、フラムアーク様が全く動じずに落ち着いて指揮を取ってくれたから、逃げ出さずに踏みとどまれたんだって。一生忘れられない経験をさせてもらったって、はにかみながら言ってたよ」

 バルトロがそんなことを……。

「あと、スレンツェのことも興奮しながら話してくれた。彼、スゴい活躍だったんだって? バルトロ曰く、彼が駆け抜けた後は兵士で埋め尽くされた戦場が割れて道が出来たとか、たった一人で戦局を決めちゃったとか、にわかには信じ難いような話ばっかりで、あたしは話半分に聞いていたんだけど―――何かもう、バルトロの中でスレンツェは英雄扱い。フラムアーク様共々信奉(しんぽう)しているって感じだったよ」

 バルトロの目にも、スレンツェの活躍は際立って映ったんだ。

 実際、戦闘後はスレンツェを見る兵士達の目の色が明らかに変わったものね。

「多少の誇張はあるかもしれないけど、戦場でスレンツェの活躍を目にした人は大体同じようなことを言っているみたい。私自身はその光景を目撃していないから、何とも言いがたいけど」

 それを聞いたレムリアは感嘆の息を漏らした。

「はー、スッゴイなー。じゃあバルトロの話は決して大袈裟じゃなかったんだ……ああもう、見た目も中身も良くて、片や身分が高い上に指揮官として秀でているとか、片や剣を取らせたら英雄級の傑物とか、ユーファの周りの男達、レベルが高過ぎ! あたしの職場にもそんな逸材が一人くらいいてくれたら、日々の仕事ももっとやりがいが出るのになー。あああ、うらやましい〜」

 テーブルに頬杖をついてそう羨むレムリアに、私は微苦笑を返した。

「レムリアったら、バルトロは?」
「もちろんバルトロが一番だけど、それとはまた別だよ〜。近くに目の保養になるいい男がいるだけで、毎日の色めきが違ってくるじゃない。何となく楽しくなるっていうかさー、心の潤いは必要だよ〜」

 あっけらかんとした彼女の物言いは、私に小さな衝撃を与えた。

「そういうもの?」

 サファイアブルーの瞳を瞬かせる私に、レムリアは当然と言わんばかりに頷いた。

「そういうものだよ〜。本命がいようがいまいが、素敵なものは素敵だもの。女として素敵な男性に心惹かれるのは当たり前だよ〜」
「好きな相手がいるのに、別の相手を素敵だって思うのは、不実じゃないの?」

 思わず身を乗り出すようにして尋ねると、レムリアはちょっと驚いた顔をして私を見た。

「ユーファは考え方が固いなぁ。世の半分は男なんだよ? ちょっと顔が良かったり、優しかったり、話が面白かったり……素敵だな、いいな、って思うような相手はごまんといて当たり前! 思うだけだし、別に悪いことじゃないでしょ? 素敵なものを素直に素敵って思えない方がむしろ不健康なんじゃない?」

 そう返された私は言葉に詰まって、揺れる視線をテーブルの上に落とした。

「……じゃあ、好きな人と同じくらい素敵だなって思う人がいたら、どうするの? 選べないくらい素敵だなって思う相手がいたら、どうやって本命を選ぶの?」
「……ユーファ?」

 レムリアは私の様子がおかしいことに気が付いたと思う。

 けれど彼女は私を問い詰めることはせず、少し考えた後にこう答えてくれた。

「んー……それは人によっても違うと思うけど―――、あたしならフラれることは避けたいから、同じくらい好きな相手がいたとしたら、少しでも勝算がありそうな方に行くかなぁ……。だって、どうせなら幸せになりたいし」

 そういう選択肢のなかった私には、目から鱗が落ちる回答だった。

「あっ、今打算的だって思った? でもさ、同じくらい好きなんだったらそういうところで選ぶっていうのもアリだと思わない? だって好きっていう気持ちに偽りはないわけだし、それで自分も相手も幸せになれるんだったら万々歳じゃん」

 それは……確かにそうかもしれないけど―――……。

「……じゃあ、どちらも自分に好意を抱いてくれていることが分かっていたら?」
「ええー? それはまた悩ましいけどぉ……あたしだったら、ぶっちゃけ収入とか将来性とかで選んじゃうかなぁ……」

 ううーん、と眉間にしわを寄せて唸るレムリア。

「ただ、後悔はしたくないからギリッギリまで思い悩むだろうけど。同じくらい好きとは言っても、やっぱり若干の違いはあるだろうし……」
「若干の違い……」
「ほら、ひと口に愛情って言っても、色んな種類があるじゃない? 恋愛、友愛、敬愛、家族愛―――そういうのを混ぜ込んじゃっている好きもあると思うんだよね。異性として抱く愛情が、どっちの方により多くいっているのか……そこをギリギリ見極めたいなぁって、あたしはそう思うけど」

 異性として抱く愛情が、どちらの方により多く行っているのか―――。

「それって……どうやったら見極められるのかしら?」
「いやー、それはもう、自分で心に感じるしかないんじゃない? 多分、分かる瞬間っていうのが何かしらあるんじゃないかな。理屈ではどうにもならない、直情的な感情に突き動かされる瞬間っていうのがさ」

 そんな瞬間が、私にも訪れるかしら―――?

 だとしたらそれはいったいいつ、どんなタイミング、どんな形で?

 それでフラムアークやスレンツェに迷惑をかけたりすることにはならないんだろうか?

 最悪、それをフェルナンドに利用されてしまうような事態になるようなことには―――……。

 ……怖い。

 漠然とした不安に苛まれた時、レムリアの明るい声が私をそこから救い出してくれた。

「あまり難しく考えすぎないで、自分が感じたありのままに進んでいけばいいんじゃない? あたしの心はあたしのものだし、ユーファの心はユーファのもの。心は他の誰でもないその人のものなんだから、その結果を第三者にとやかく言われる筋合いはない! ってね」
「レムリア……」

 具体的なことは何も言わなかったけれど、スレンツェに対する私の気持ちを知っているレムリアは、きっと私がスレンツェと……それに多分、フラムアークとの間で思い悩んでいることに気が付いたのだと思う。

 けれど彼女はそこを掘り下げることをせず、私が投げかけた言葉にただ答えを返してくれた。

 そんな彼女の心遣いが温かくて、嬉しくて―――私は思わず瞳を潤ませた。

「そうね……ありがとう」

 涙ぐむ私にレムリアはニカッと笑って、冗談めかした口調でこう言った。

「なんのなんの、また悩みや相談があったらいつでもお姉さんに言ってごらんなさい? レムリア流のアドバイスをしてさしあげるわ。何と言っても、あたしは恋の為に生きる恋愛脳の女だからね〜」

 よしよしと頭を撫でられて、その優しい感触に、堪えていたものが溢れ出した。

「……っ」
「うんうん、考えすぎて疲れちゃったね」

 唇を結んでボロボロ涙をこぼす私の頭を、レムリアはしばらくの間、その優しい指先で撫で続けていてくれた。



*



 それから数日後の夜。

 業務を終えて私の調剤室を訪れたスレンツェは、曇りのない真っ直ぐな眼差しを私に向けて、自分の気持ちを伝えてくれた。

「ユーファ。オレは、お前が好きだ」

 面と向かってハッキリとそう告げられて、ドク、と鼓動が高鳴る。

「お前を同僚ではなく異性として意識するようになったのは、領地視察に出立する前夜、お前の前で初めて弱音を吐いた時だったと思う。そこから少しずつお前への気持ちが育っていって、オレの中で特別なものになっていったんだ」

 その言葉に、胸が騒いだ。

 おんなじだ―――多分、私がスレンツェを意識するようになったのもそれがきっかけだった。

 それまで頑なに閉じていた扉を彼が開いてくれた瞬間。初めて心の深いところに触れさせてくれた瞬間。

「オレはこんな身の上だからお前を幸せに出来るはずもないし、この想いを告げるべきではないと、ずっとそう思ってきた。―――それに今の心地好い関係を崩したくないというためらいもあって、ずっと自重してきたんだ」

 スレンツェはどこか苦し気にそう言った。

「だが―――、もう、育ち過ぎたこの気持ちを抑えておくことが出来なくなった。お前の言葉は、オレに力をくれる。お前の笑顔は、オレに勇気を与えてくれる。お前の温もりは、オレに癒しと安らぎをもたらしてくれる。そんなお前を誰にも渡したくない、そう思うようになった。お前の存在は、もはやオレにとってなくてはならないものなんだ」

 スレンツェ……。

 ずっと内に秘めてきた想いをそう吐露した彼は、黒い切れ長の双眸に真摯な光を宿して、向き合う私の気持ちを尋ねた。

「ユーファ、飾らないありのままのお前の気持ちを聞かせてくれ。余計な気遣いはしなくていい」

 表情や声のトーンから、スレンツェの真剣さと緊張感が伝わってくる。

 精一杯自分の気持ちを伝えてくれる彼に、私も隠さずに真っ直ぐに応えようと思った。

「スレンツェ……ありがとう、私のことを好きだと言ってくれて。率直に……とても嬉しいわ。私も、あなたのことを大切に……特別に想っているから」

 私の言葉に、彼が微かに目を瞠る。私は自分の胸に手を当てて、正直な気持ちを伝えた。

「私もね、あなたと同じ。同じ時を過ごすうちにいつの間にか、少しずつ少しずつ、あなたを想う気持ちが降り積もっていった感じなの……。初めはね、心配してあなたのことを見ていたのよ。初めて会った時のあなたはまだ十五歳で―――過酷な経験にひどく傷付いて、自分以外の全てが敵だというような目をしていたから―――……」

 あの頃のスレンツェは言うなれば虚(うつ)ろで危うい刃物みたいで、頑なに他人を拒絶する空気を纏っていた。

 病弱だったフラムアークを看ながら、殺伐としたスレンツェの方からも目が離せないと思ったのを覚えている。

「……お前とフラムアークの存在が、オレを人として繋ぎ止めたのだと思う」

 そう自己分析する彼に、私は少し頬を緩めた。

「だったら嬉しいけれど、それはあなたの人としての強さがあってこそだと思う。何か起こる度、あなたは自分と戦いながらそれを乗り越えて、今のあなたになっていった。私は間近でそんなあなたを見ていて、同僚として尊敬する傍ら、次第に異性としても心惹かれていった―――」

 けれど、無意識のうちにそれと並行する形で、成長したフラムアークにも惹かれていった。

 そっと睫毛を伏せた私は一度唇を結び、その事実をスレンツェに告げた。

「私はあなたのことを男性として、特別な目で見ているのだと思う。だけど……ごめんなさい。あなたと同じくらい気にかかって、特別な目で見ている男性(ひと)がいるの。あなたとその人、どちらにも同じくらい惹かれていて、答えが出せない。自分の気持ちをずっと考えているのだけれど、分からない。選べないの。
だから……ごめんなさい。真っ直ぐなあなたの気持ちに応えられる資格が、私にはないの……」

 誠実な彼に対してこんな答えしか返せなくて、不誠実でどうしようもない自分に目の奥が熱くなってくる。

「ごめんなさい、スレンツェ……私は、あなたの気持ちには応えられない」

 私の話を黙って聞いていたスレンツェはしばらくの沈黙の後、確認するようにこう言った。

「……つまり今、オレとお前は両想いの関係にあると、そういうことだな?」
「えっ? ……え、ええ。それはそう……だけど。でも」

 私はその意外な返しに戸惑って、濡れた瞳を瞬かせた。

「今現在両想いだと知って、オレが引く理由はないな」

 腕組みをしてそう結論づけるスレンツェに私は困惑の声を上げた。

「えっ……でも、スレンツェ。私はあなた以外の男性(ひと)にも同じくらい惹かれているって、そう言っているのよ?」
「フラムアークか?」

 ズバリ言い当てられて、私は息を詰めた。

「えっ……」

 そう呟いたきり絶句する私を、スレンツェは真っ直ぐに見つめている。

 見透かされている―――そう悟って、私は下目がちに口を開いた。

「……身分不相応だって、分かってる。出過ぎた想いだって、分かってる。こんな感情を抱いていい相手じゃないって、分かってる」

 けれど、あの夜気が付いてしまった。自分でも知らぬ間に走り出していた彼への想いに。

「……フラムアークは知っているのか? お前の気持ちを」

 私は小さくかぶりを振った。

「言えないわよ……言えるわけ、ない」

 真意は分からないけれど、フラムアークには表向きアデリーネ様という相手が存在するし―――それでなくても皇族と、それも皇帝になろうという人間と、兎耳族で平民の私が結ばれること自体が、まず有り得ないのだ。

「お前の方からフラムアークに気持ちを伝えるつもりはないのか? これから先もずっと?」

 私は涙ぐみながら頷いた。

「……ないわ。それこそ、フェルナンドに格好の攻撃材料を与えてしまうだけだもの」

 そうよ。私のフラムアークへの想いは、皇帝を目指す彼の足枷にしかならない。

 そう頭では分かっているのだから、気持ちの方も簡単に割り切れてしまえたら良かったのに。

「……なら、ますますオレが引き下がる理由はないな」

 スレンツェはそう言って腕組みを解いた。

「えっ?」
「これからもフラムアークへ想いを伝えるつもりがないのなら、今後もお前とフラムアークの仲が進展することはない。片や、オレとはこうして想いが通じ合っているんだ。迷う必要などないんじゃないか?」
「……それは」

 私はサファイアブルーの瞳を彷徨わせた。

 それは先日、レムリアからも同じような見解を示されて、ハッとさせられた選択肢だった。

 けれど、それは―――。

「……確かに、そういう考え方もあるのかもしれないけれど―――でも、私的にはどうしてもそんなふうに割り切れない。モヤモヤしてしまって嫌なの。だって、スレンツェは私に全部の気持ちを向けてくれているのに、私はそうじゃないのよ? 半分、別の人に気持ちが向いてしまっているのよ? そんなのあなたに対して失礼だし、不誠実だわ。スレンツェだって、そんなの嫌でしょう?」
「確かに望ましいことじゃないが、そこはこれからのオレ達の関係次第で変えていける部分だと思っている。オレとしては、このまま平行線をたどるよりは望ましいというところかな。何も始まらないままじゃ、きっと何も変わらない―――そんな気がするんだ」

 彼のその言葉は私の痛いところを突いた。

 それは、今の私の現状そのものを示していたからだ。フラムアークへの想いに気付いて早一年以上が経過しているのに、未だ二人に対する想いは私の中で拮抗したまま―――何の結論も出せずにいる。

「さっきも言ったが、オレとしてはもうこれ以上育ち過ぎた気持ちを抑えきれそうにないんだ。十五でお前と出会ったオレは今年三十一になる。もういい大人だ。ここからは最盛期を過ぎて、徐々に衰えていくことだろう。十年後、お前の見た目は今とあまり変わらないだろうが、オレはもっと年輪を刻んだ外見になっている。そういうあせりもあるのかもしれないな」

 少し寂し気な笑みを口元に刻んだスレンツェを見て、私は小さな衝撃がゆっくりとさざ波のように広がっていくのを覚えた。

 人間と兎耳族の時間経過の違い―――忘れかけていたそれを目の前に突きつけられて、自分のこれからの十年と、彼のこれからの十年とでは心構えがまるで違ってくるということに改めて気付かされたからだ。

「スレンツェ……」

 私は不安定に瞳を揺らした。

 分からない……どうするのが正解なの?

 スレンツェの言うように、彼の手を取ってみるべき? そこから見えてくることもあるの?

 スレンツェのことをもっと深く知って彼への想いが更に深まれば、フラムアークへのこの気持ちは次第に薄れて、純粋に主従としての感情だけが残るようになるの?

 今彼の手を取らなければ、ひどく後悔することになるの?

 分からない―――私はどうすべきなの……!?

「……お前を困らせたいわけじゃないんだ」

 スレンツェはそう言って、私の頬を伝う涙を優しく指先で拭った。

「ごめ……ごめんなさい。こんなつもりじゃ……」

 言葉を詰まらせる私に彼は静かにこう尋ねた。

「オレにキスをされた時―――嫌だったか?」

 私は大きく首を横に振った。

 そんなことない。嫌な気持ちは全くしなかった。

「……嬉し、かった」

 驚いたけれど、嬉しかった。それが正直な感想だ。

 私の涙を拭っていたスレンツェの指が頬にかかり、私の顔を軽く上向かせるようにした。

 視線を上げた先に一瞬彼の精悍な顔が映り、直後に唇に覚えのある熱が触れて、私はビクッと身体を震わせた。

「……っ! ス―――」

 反射的にスレンツェの胸に手をつくようにして制止しかける私の手首を彼が握り、頬に添えられていた手が後頭部へと回されて、彼の方へ引き寄せられるような格好になる。スレンツェはそのまま私に唇を重ね続けた。

 優しくついばむように、時に柔らかく食むように―――形ばかりの私の抵抗をなし崩しにして、その熱でゆっくりと身体の強張りを解いていく。しっとりと繰り返される強引すぎない甘やかなキスは、あの夜の激しさを秘めた切ないものとはまた違って、私の胸を甘く震わせた。

 スレンツェ―――……。

「―――待てないが……待つ。もう少しだけ……」

 長いのか短いのか分からないキスの後、スレンツェは私の額に自分の額をこつんと合わせてそう言った。

「オレもいたずらにお前を困らせたいわけじゃないし、出来れば自分に全ての気持ちを向けてもらいたいという思いもある。だからお前の気持ちが整うまで、もう少しだけ……待とうと思う。だが、今までのように何もなかったようには出来ないから……隙あらば、今のように行動させてもらう」

 熱の残る唇を長い無骨な指先ですり、となぞられ、私は真っ赤になりながら、ためらいに揺れる眼差しを彼に向けた。

「それでいいの? あなたの時間を無駄にしてしまうことになるかもしれないのに……」
「どういう結果になろうが、オレはそれを無駄とは思わない。少なくともああいう理由で遠ざけられてしまうよりは、好きな相手の傍にいて触れていられる方が建設的だ。オレはオレの心の赴くままに行動するだけだから、お前が気に病む必要はない」

 スレンツェは凛々しい目元を和らげて私の頭に手を置くと、長い雪色の髪を優しくその指で梳いた。

「初めてこうしてお前の頭を撫でた時は『年下のクセに』とえらく怒られたものだったが、いつの頃からか怒られることもなくなったな。……人の気持ちは変化していくものだ」

 言い様、かすめるようにキスされて、まさかそう来るとは思っていなかった私は、完全に虚を突かれて動きを止めた。

「隙だらけだぞ」
「……!」

 目を剥いたまま声の出せない私にゆっくりと口角を上げてみせたスレンツェは、どこか色のある声で囁いた。

「有言実行、だ」
「……!」

 男の艶(つや)を滲ませた見たことのないその表情に、私は頬を上気させたまま、為(な)す術なく口をわななかせた。

「こういうことを繰り返し重ねていくことによって、また何かしらの変化が生まれるかもしれない。待つ間、オレはそれを期待して、こうやってお前に自分の気持ちを伝え続けていくことで、いい意味での変化が生まれるように努力するとしよう」

 完全に、手玉に取られている。けれどそうやって翻弄(ほんろう)されながらも、困ったことに悪い気はしなかった。

 スレンツェにやられっぱなしでしばらくは動悸の治まりそうもない胸を押さえながら、沸騰しそうな頭で自分がどうすべきかを模索する私の脳裏に浮かんだのは、先日のレムリアの言葉だった。

『あまり難しく考えすぎないで、自分が感じたありのままに進んでいけばいいんじゃない? あたしの心はあたしのものだし、ユーファの心はユーファのもの。心は他の誰でもないその人のものなんだから、その結果を第三者にとやかく言われる筋合いはない! ってね』

 スレンツェの好意に甘えて結論をずるずると先延ばしにするのは、良くないことなのかもしれない。

 けれど彼の言い分にも一理あると思えたし、私自身、彼に気持ちがあるのは事実で、下手に結論付けて後悔をしたくない、とも強く思う。

 ずるいのかもしれないけど……自分の気持ちに結論が出せない今は、スレンツェの申し出に甘えさせてもらうのが一番のように思えた。

 ―――もう少しだけ時間をかけて向き合ってみよう、自分の気持ちに。

 一縷(いちる)の迷いを覚えながらも、私はそう決断した。

 そんな私の気持ちを揺さぶる来訪者が宮廷を訪れたのは、それからほどなくしてのことだった―――。
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