日に日に状況が改善して、町の表情が明るくなっていく。
それが感じられるから、また明日に向かって頑張れる。その繰り返しで前進していく。
モンペオに本格的な支援の手が届いてから、二週間。簡易的なレクチャーを受けた即席の看護要員が少しずつ増えていくに従って、私達薬師の負担も徐々に軽減されてきていた。
「第四皇子は病弱だって噂を耳にしたことがあるくらいで私は正直名前も覚えてなかったし、その人がここへ来るって聞いた時は率直に言って迷惑千万だと思ったけど、なかなかどうしてやるじゃない。期待してなかっただけに良く映るのかもしれないけど、町の住人達、特に女性からの評判は高いようだね」
朝食の席でファルマにフラムアークをそう評価された私の表情はほころんだ。
「あの方は幼い頃、病に臥せりがちで辛い思いをされてきましたから……その経験もあって、ベリオラの鎮圧に尽力したいと期するところもあったのだと思います。やると決めた以上は、責任をもって成し遂げる方なんです」
「ふぅん……そういった過去を乗り越えてこその今、か。何にしろ、優れたリーダーシップを発揮してくれるのは私らにとってありがたいことだ。ああいう皇族がいるんなら、この国もまだまだ捨てたもんじゃないな。見た目にも華があるし、ユーファはいい主に仕えているじゃない」
「はい。そう思います」
誇らしい気持ちになって頷くと、ファルマは悪戯っぽく口角を上げた。
「ふふ、嬉しそうな顔しちゃって。そういえばおばちゃん連中が言っていたけど、皇子の側用人もスゴくいい男なんだって?」
その軽口に、心臓が反応した。
「スレンツェのこと、ですか?」
「スレンツェっていうの? 私はまだ見たことがないんだけど、その人、患者達を収容した隔離天幕で手伝いをしてるらしいじゃない。女性の患者達がみんな彼に世話を焼いてほしがって、争奪戦が起きているって噂を聞いたよ」
そ、争奪戦……!?
穏やかでないその情報に、私は軽く目を見開いた。
「そうなんですか?」
「おばちゃん達の話によればね。噂だから話半分てトコだろうけど、それが本当なら大したモンだ。ベリオラに罹患(りかん)している女にそんな元気を出させる男って、スゴいよねぇ。どんだけフェロモン出てるんだって話だよ」
あはは、と愉快そうにファルマは笑ったけれど、私は微妙な笑顔になってしまった。
先日フラムアークから聞いたところによれば、スレンツェは患者の移動といった比較的力が必要とされる仕事を手伝っているようなのだけれど、今は違うのかしら? それともその移動業務を巡っての争奪戦が起きているの? 担架ではなく肩を貸したり横抱きにして運んでいるのだとしたら、それも頷けるかも……。
その場面を想像した私は、一気にモヤモヤしてきてしまった。
スレンツェとはこの町で別れてから、まだ一度も会えていない。もうずっと、顔も見れていない。
いやだ、スレンツェ自身はきっと真面目に仕事をしているんだろうに、周りが彼をそういう目で見ているのかもしれないと思っただけで、こんなにもおこがましい気分になってしまう自分がいる。
宮廷では彼の素性が知られていることもあり、どちらかと言えば周りから距離を置かれる環境にあったから、今までこういった騒ぎに直面することがなかったけど―――そうよね、普通なら周りが放っておくはずがないのよね……。
そんなこんなでどうしてもスレンツェにひと目会いたくなった私は、その日急いでお昼を食べ終えると、短い休憩時間を利用して彼がいるという隔離天幕へと向かった。
私は主に初診の患者を診ていることが多かったからこっちへは夜間の緊急時にしか来たことがなくて、昼間にこうして足を運ぶのは初めてのことだった。
「やあユーファ、お疲れ様。どうしたの?」
これから昼休憩に入ろうとしていたらしい男性薬師に声をかけられてスレンツェのことを尋ねてみると、彼はスタッフの間でも相当有名になっているらしく、すぐに情報を得ることが出来た。
「ああ、彼ならさっき水を汲みに行ってくれたみたいだよ」
「広場にある水場?」
「いや、あっちは混んでいるからそっちの奥にある井戸の方だと思う」
「ありがとう」
お礼を言ってそちらへと向かいながら、久し振りにスレンツェの顔が見れると思うと、何だかドキドキしてきた。
スレンツェは、私を見たらどんな反応をするかしら……?
私はこんなふうに勝手に盛り上がってしまっているけれど、きっと彼はいつもと何ら変わらない表情で、あの低い良く通る声で私の名前を呼ぶんだろうな……。
でも、それだけでも、私はきっと特別な気持ちになる。多分とても、幸せな気持ちになる……。
少しすると教えてもらった井戸が見えてきて、その傍らに見覚えのある長身のシルエットを見つけた私は、胸を高鳴らせながら彼の名を呼んだ。
「スレンツェ―――」
呼んでしまってから彼が一人ではなかったことに気が付いて、続く言葉を飲み込む。
「ユーファ」
私を振り返ったスレンツェの隣には、看護要員が身に着けるスモック式の白いエプロンを着用した二十代半ばくらいの女性がいた。肩甲骨の辺りで緩やかに揺れる、ふんわり青みを帯びた黒髪と同色の毅然とした瞳が印象的な、綺麗な人だ。エプロンの下には動きやすそうな紺色のワンピースを着用している。
スレンツェは私の予想に反して切れ長の瞳をやや見開くと、引き締まった口元を少しだけほころばせた。
「何だかずいぶんと久し振りな気がするな……調子はどうだ?」
そんな彼の反応に、胸がきゅっとしなる。落ち着かなくなる心を押し隠して、いつも通りを装いながら声を返した。
「ホント、久し振りね。おかげさまでこうして休憩も取れるようになってきたから、あなたはどうしているのかと思って様子を見に来たの。ここにいるって知り合いに聞いたから……」
言いながらスレンツェの隣にいる女性に視線を向けて、ぺこりと会釈する。すると相手も丁寧に腰を折って私に礼を返した。
「スレンツェ様、では私は先に戻っていますね」
そう断りを入れて足元に置いてあった水桶を持つ彼女に、スレンツェが声をかけた。
「悪いな。残りはオレが持っていく」
「お願い致します」
去り際にもう一度私にも頭を下げて、彼女は天幕の方へと戻っていった。
スレンツェ“様”……?
一般の人が第四皇子(フラムアーク)の側用人に「様」を付けても決して不自然ではなかったけれど、私はそんな彼女の呼び方に違和感を覚えた。
敬称に込められた響きに、重みのようなものを感じたからだ。それに彼女は所作がとても綺麗だった。
「今の人は……?」
「紹介しそびれたな。エレオラという。覚えているかどうか分からないが、前に少し、お前に彼女の話をしたことがあった」
「えっ?」
驚く私にスレンツェはこう補足した。
「フラムアークの領地視察に同行した時のことだ。かつてオレが住んでいた王宮に出仕していた娘が、現在のアズール城で下働きをしていて、彼女から声をかけられたという話をしたんだが、覚えていないか? それがエレオラだ。偶然だが、彼女は今回の増援でアズール城から派遣されてきたらしい」
その話なら、覚えている。当時自分の在り方に深い迷いを抱いていたスレンツェは、彼女と出会い、その言葉に救われたと言って、私の腕の中で静かに涙した。
スレンツェにとっては、ある意味恩人のような存在だ。
あの人が―――。
私は小さく息を飲みながら、彼女の後ろ姿が消えていった方角を見つめた。
「そうだったの……もちろん覚えているわ。あなたが新しく歩み出せるきっかけを作ってくれた人だもの」
そう相槌を打ちつつスレンツェの精悍な顔を見上げる。
「ここで出会えたのも何かの縁ね。今度は紹介してね」
「ああ」
頷いたスレンツェは改めて私に視線をやると、まじまじと見やりながらこう言った。
「フラムアークから少しやせたと聞いていたが、確かにそんな感じがするな」
フラムアークったら……「やつれた」と言っていないだけいいけれど、そこは「元気だった」と伝えてくれるだけで良かったのに。
「ここにいる人達は多かれ少なかれ、みんなそうだと思うわ。スレンツェだって」
「最初は確かにそうだったかもしれないが、食糧事情が改善してからはほぼ戻った気がする。ちゃんと食べているのか?」
「身体が資本だもの、食べているわよ。でないともたないもの。今だって、ちゃんとお昼を食べてから来たし―――スレンツェはお昼はこれから?」
「ああ。これを運び終えたら取ろうと思っている」
そうなのね。これ以上時間を取らせるのは悪いかしら……。
本当はもう少し話していたいところだったけれど、彼の事情を考慮するとそれも憚られた。
とりあえず、顔は見れたもの。残念だけど、今はこれで充分とすべきなのよね。
「じゃあ私、そろそろ行くわね。とりあえず元気な顔が見れて良かったわ」
「もう午後の業務が始まるのか?」
「まだ少し余裕があるけれど、あまり長居するのも悪いから」
後ろ髪を引かれつつそう答えると、スレンツェは思いがけない言葉を返してきた。
「なら、せっかくだからもう少し話さないか。久々にこうして会えたんだ」
「えっ? でも、お昼がまだなんでしょう?」
「少し話すくらい問題ない」
そんなふうに引き留めてもらえるとは思っていなかったから、嬉しさでいっぱいになる半面、色々と気に掛かることがあって、素直にそれを受け取ることが出来なかった。
「でも……、スレンツェを待っている人達がたくさんいるんじゃないの?」
「……? 何の話だ?」
怪訝そうに眉を寄せられて、素直に彼の言葉に甘えられなかった自分を後悔する。けれどそんな気持ちとは裏腹に、胸の中にあったモヤモヤを確かめずにはいられないもう一人の自分がいた。
「噂で聞いたの……女性の患者さん達の間で、あなたの取り合いが起きているって」
スレンツェが黒い双眸をわずかに眇(すが)めた。辺りに沈黙が舞い降りて、何ともいたたまれない空白の時間を作る。それがひどく長いように感じられて、私は伏し目がちにしていた視線をそろそろと上げた。
子どもじみた面倒臭い言動を取ってしまった自覚はある。
呆れられてしまった? それとも、怒らせてしまったかしら?
スレンツェは忙しい時間を割いて私と話をしたいと言ってくれたのに、信憑性も定かでない噂が引っ掛かって、気持ち良く彼の申し出を受けることが出来なかった。
恐々(こわごわ)上げた視線の先に映ったスレンツェの表情は、読めなかった。彼はただ静かな口調で、私にこう尋ねた。
「―――それで? お前はどうしてわざわざオレに会いに来たんだ? そんなことが確かめたくてここへ来たのか?」
本心を口にすべきか、迷う。けれどそれを伝えなかったら、ただの興味本位でスレンツェに会いに来たのだと誤解されてしまいそうで嫌だと思った。
ただでさえ可愛げのない態度を取っているのに、彼にそんな誤解を与えてしまうような事態は絶対に避けたい。
「そういうわけじゃ―――……一番は、あなたの顔を見たかったのよ。別行動になってから一度も会えてなかったから、どうしてるのかって、ずっと気になっていたの。……ただ、そのタイミングが今日になったきっかけは、それ。
噂があんまりすごいから、気になる……というか、心配になって……。スレンツェはきっと真面目に仕事をしているんだろうに、周りがあなたをそういう目で見ているのかと思ったら、何というか……いたたまれない、というか……スゴく嫌だな、と思ってしまって……」
たどたどしく言葉を紡ぐと、そんな私を見ていたスレンツェから深い溜め息が漏れた。
「噂というのは、尾ひれがつくものだが……お前はいったいどんなふうにそれを聞いたんだ?」
「え……女性の患者達がみんなあなたに世話を焼いてほしがって、争奪戦が起きているって……ベリオラに罹患している女にそんな元気を出させる男はスゴいね、って……」
「そんなふうに広まっているのか……」
スレンツェは再び嘆息すると、形の良い眉をひそめた。
「常識的に考えて、ベリオラに罹(かか)っている患者にそんな元気があるわけがないだろう。移動の介助をする時にオレを指名してきた患者が何人かいたというだけで、実際はそんな要望に応えている暇はないし、手が空いている者に任せたよ。救援部隊が合流して人員が増えてからは、面倒事を防ぐ為に基本的には男の患者の天幕の方を手伝うようにしているし、だから、争奪戦なんてものが起きている事実はない。面白可笑しく尾ひれがついて広まっているだけだ」
いや、そんな指名が出るだけでも充分普通じゃないと思うんだけど……でも、そっか。ホッとした。噂で言われているような事実はないのね。
良かった……。
「安心したか?」
スレンツェの声に思わず頷いてしまってから、私はハッとして付け加えた。
「どろどろした騒ぎにスレンツェが巻き込まれてるんじゃなくて、良かったわ! 噂って、やっぱり真に受けちゃいけないわね」
ちょっとわざとらしい言い回しになってしまったけど、一応同僚としての気遣いを装えた。何も言わないよりはマシよね。
「……面白可笑しく話を広められてオレとしては迷惑極まりないが、そのおかげでこうしてお前が会いに来てくれたと考えれば、まあ悪いことばかりではないかな」
本気とも冗談ともつかない意味深なスレンツェの物言いに、ピクリと兎耳が反応した。
それは、どういう……?
彼の真意を計りかねて黒い双眸を仰ぎ見ると、こちらを見つめる整った男らしい面差しが和らいで、腰が砕けてしまいそうな微笑が返ってきた。
「どうしてだろうな……ユーファ、お前の顔を見れただけで不思議と癒されたような気持ちになるのは」
不意打ちのようなその笑顔に、どうしようもなく頬が熱くなる。何か言葉を返さなければと、私は瞳を彷徨わせながら頭を巡らせた。
「私も―――あなたの顔を見て、何だか元気をもらえたみたい。ただこうして会えただけなのに、不思議ね」
どうにか言葉を引っ張り出しながら照れ隠しに微笑むと、一歩距離を詰めたスレンツェにおもむろに腰を引き寄せられて、彼の胸にとん、と頬を押し付けるような格好になった。
「―――なら、少しそれを分けてくれないか」
何が起こったのか、すぐには分からなかった。
頭上から聞こえる低い声音―――密着した箇所から、彼の体温と硬い感触が伝わってくる。
「オレはまだ、足りてないんだ」
どこか懇願するように囁かれて、ようやく自分の状況を把握する。スレンツェに寄りかかるような体勢で彼の腕の中に閉じ込められているのだと悟り、私は目を見開いた。遅ればせながら、心臓の拍動がものすごいことになる。
「えっ……ス、スレンツェ……?」
「……細いな。やっぱり少し、やせた気がする」
戸惑う私にスレンツェはそう呟いて、私の側頭部に頬を寄せるようにした。
彼に抱きしめられるのは、初めてじゃない。けれど、今までのそれには必ず、何かしらの特別な事情があって―――こんなふうに特段の理由なく、抱きしめられるのは初めてだった。
―――何、これ、白昼夢? 私、実は過労で倒れて、白昼夢を見ているの?
あまりにも突然の出来事、予期しなかった事態に頭が混乱して、これが今、本当に自分の身に起きていることなのか、判然としなくなる。
「いつもこうしてお前に元気を分けてもらえているフラムアークが、羨ましい」
私を抱き寄せるスレンツェの腕にわずかな力がこもる。
「何故かな。お前に触れると、こうも癒される気がするのは……」
間近で感じられる彼の息遣い。私を包み込むように回された腕は頑強なのに優しくて、振りほどこうと思えばいつでも振りほどける強さだった。衣服を隔てて密着する広い胸は温かく、呼吸をする度、スレンツェの匂いが鼻腔いっぱいに忍んできて、彼の香りに思考力を奪われていくような気がした。
やがて、長いのか短いのか分からない時間の中、スレンツェの腕がゆっくりと緩み、静かに離れていく気配がして―――それを感じた瞬間、私は反射的に彼の腰に腕を回し、自分から彼にしがみついていた。
鍛えられたスレンツェの身体が驚いたように小さく揺れる。直後に大胆なことをしてしまったと理性が悲鳴を上げたけれど、もう今更引くに引けない。ショートしそうな頭をフル稼働させ、気まずくならない言い分を必死で考え、言い募った。
「わ、私にはよく分からないけれど、あなた達が私に癒し成分があるって言うなら、いくらでも分けてあげるわよ……それで、あなた達が元気になれるっていうのなら……」
額をスレンツェの胸に押し付けるようにして真っ赤になった顔を隠す私の頭上で、彼がふと笑んだ気配がした。たくましい腕が再び私の背中に回されて、優しく包み込むようにしてくれる。
「なら、お言葉に甘えてもう少し、こうさせてもらおうか」
私の長い耳に唇を寄せるようにして囁かれた彼の低い声は、今までに聞いたことがないくらい柔らかく、熱を帯びているように感じられた。
明確な言葉はなかったけれど、スレンツェが自分を求めてくれているのが伝わってきて、私はひどく嬉しかった。
私もそうだということが、彼にも伝わっているといいな―――口に出せない想いをこの抱擁に込めて、そう願う。
彼の言う「癒し」とは少し意味合いが違うけど……こうして元気をもらえているのは、私の方。頑張る力を分けてもらえているのは、私の方なのよ……。