その日の夜、私がそろそろ休もうかと思っていた頃合いに、調剤室のドアをノックする音が響いた。
「ユーファ、オレだ。ちょっといいか」
控え目な声量で尋ねる声はスレンツェのものだ。
「どうしたの?」
ドアを開けると、昼間の旅装から見慣れた側用人の平服へと着替えた彼はためらいがちに口を開いた。
「悪いな、こんな時間に。帰着後の片付けやら手続きやらを済ませていたら遅くなった。明日にしようかとも思ったんだが……やはり今日中に渡しておきたくてな。出立前に約束していたものだ」
「えっ、お土産を買ってきてくれたの? ラリビアの鉢植えで充分だったのに」
驚きながらスレンツェを室内へ招き入れると、彼は窓辺に置かれた鉢植えを見ながらこう言った。
「オレも手伝いはしたが、あれはあくまでフラムアークからの土産だ。オレには思いも寄らなかった、あいつのお前への心遣いだ。オレはオレで、お前に頼まれたものを買ってきた」
「ええ……何だか悪いわね。でも嬉しいわ、ありがとう」
私は素直にお礼を言って、スレンツェからお土産の入った袋を受け取った。
「お前の故郷の周辺の町で、兎耳族が好んで買っていた調味料や茶はないか聞きながら探してみた。いくつかあった中から、宮廷内には流通していないと思われるものを店の人間と相談して選んだんだが。どうだ?」
忙しい中、わざわざ足を運んで、そんなに細かく考えて探してくれたの? スレンツェの心遣いも、充分過ぎるくらいに胸に来る。
「わぁっ……乾燥させたローレルの葉にフィローの実、メロッサの蜂蜜も! 懐かしい味を作れる幅が広がるわ! それに私の大好きなライヴォスティー……! ありがとう、スレンツェ!」
懐かしい品々に目を輝かせて思わず涙ぐむ私を見やり、スレンツェは黒い瞳を和らげた。
「喜んでもらえて何よりだ。それにしても今日のユーファは涙もろいな」
「あなた達が無事に帰って来ただけで胸がいっぱいになっているところへ、こんなに心のこもったお土産をもらったらこうなるわよ……。ねえ、同室のレムリアにお裾分けしてもいいかしら? 彼女もきっと懐かしがって喜ぶと思うの」
「お前のものなんだ、好きにすればいい」
「ありがとう」
指先で涙を拭った私はもうひとつ、袋の中に入っていた小さな包みに気が付いた。これだけ他のものとは少し包装が違う。
「あら? これは……?」
「それはオレの故郷の品だ」
その言葉にドキン、と心臓が音を立てる。
「へえ……お願いしていたあなたの故郷のお勧めの品?」
私は平静を装いながら包みを開けて、淡いピンク色の液体が入った瀟洒(しょうしゃ)な小瓶を取り出した。
「綺麗ね。これ何……?」
「花や木の実を原料にした髪用のオイルだ。オレの故郷では髪を美しく保つ為や香りづけに女達が使っている」
「どうやって使うの?」
「洗髪後に数滴、掌に取って伸ばすんだ。髪につけて乾かすとしっとりと艶やかな仕上がりになるらしい。渇いた髪に少量使っても美しくまとまるそうだ―――ちょっと貸してみろ」
スレンツェは小瓶の蓋を開けて二、三滴を自らの掌に垂らした。透明感のある爽やかな香りが広がって、どことなく優しさも感じるその香りに私は小さく鼻を鳴らす。
「いい香りね。爽やかで、それに何だか優しい感じ」
「……何となく、お前のイメージに合うと思った」
えっ……。
驚いて、どう返事をしたら良いのか迷う私の前で、スレンツェは掌全体にまんべんなくオイルを塗り広げると、その手で私の雪色の髪の半ば辺りを挟み込むようにして、毛先にかけてゆっくりと動かした。それを繰り返すようにして、私の髪全体にオイルを塗布していく。それから最後に前髪に馴染ませるようにして、こう言った。
「こんな感じで使うんだ」
そ……そんな何事もなかったかのような顔で、さらっと……! 何の予告もなくこんな形で使用方法を説明されておかしなことになっている私の心臓を、どうしてくれるの!
急激に心拍数が上がるのを覚えながら、私はどうにかその動揺を表面に出さないように努力した。
私は年上なんだから、こんなことで動じちゃいけない……! スレンツェは深く考えずやってるのよ!
「分かったわ……ありがとう」
落ち着かない胸の内を笑顔で包み隠して、良い香りになった自分の髪に触れ、質感を確かめてみる。
「ベタつかないのね。本当にしっとりまとまっている感じ」
「たくさんつけるとベタつくから、少量を良く伸ばして使うのがポイントだそうだ」
「そうなのね。ありがたく使わせてもらうわ。……そういえば視察中の手紙、ありがとう。フラムアーク様の様子がよく伝わってきて、おかげで安心出来たわ。でもスレンツェ、私はあなたのことも含めて知りたいんだから、今度こういう機会があった時は、あなたの近況も記してちょうだいね?」
そうお願いするとスレンツェは精悍な顔をしかめた。
「オレのことは別にいいだろう」
「良くないわよ。私はあなたのことも気がかりなんだから。宮廷で一人留守番している身としては、何かあっても手助けできない分、あなた達の状況だけでも分かち合いたいの。せめて心配くらいはさせてちょうだい」
「……世話焼きだな、分かったよ」
溜め息をつくスレンツェに私は気にかけていたことを切り出した。
「それで―――どうだった? あなたの故郷は」
するとスレンツェは静かな眼差しを私に向けて、口元にどことなく寂し気な微笑を刻んだ。
「……その話も聞いてもらおうと思って来たんだ。お前には出立前、迷惑をかけたからな」
椅子にゆっくりと腰を下ろして、彼は語り始めた。
「二通目の手紙をお前に出した翌日か―――オレは久し振りに故郷の地に足を踏み入れた。まず感じたのは、憎しみでも悲しみでもなく、懐かしさだったよ。あれから十年以上経って、変わっている部分も多かったが、山々の稜線や滔々(とうとう)と流れる大河―――そういった変わらない風景もあったし、風の匂いというのかな……その地独特の植物や、人々の暮らしの中にある匂い……郷土の香りとでも言えばいいのか。ふとした瞬間聞こえてくる子ども達の数え歌や、農業に携わる者達が来年の豊穣を願う祈りの調べ―――民の暮らしの中で脈々と受け継がれてきたものは、支配する国が変わってもそのままだった―――」
懐かしさが滲んでいた彼の口調に、わずかな切なさが入り混じる。
「昔住んでいた王宮の跡地に現在の領主の城が建っているのを見た時は胸が詰まる思いがしたが―――記憶の中で戦場と化し無残な光景が広がっていた城下の街並は整然と整備され直されていて、以前より立派に生まれ変わっていた。悔しいが、やはり帝国の力は大きく、技術力は滅んだ我が国の上を行くことを認めざるを得なかった。治水にしても建築にしても、各地を結ぶ要衝の在り方についても―――。皇帝はこれを見せつける為にオレの同行を許可したんじゃないかと、そう思った。かつての国の今の姿を己の目に焼きつけさせることで、オレの中に眠る牙を、完膚なきまでに滅しようとしたんじゃないかと」
切れ長の瞳に苦い光を揺らしながら、スレンツェは言葉を紡ぐ。
「だが、フラムアークはその光景を見て言ったんだ。『ここがスレンツェにとって大切な地なんだな』と。『スレンツェが辛い決断をして守り通したからこそ、今この地の人々の笑顔はあるんだな』と―――。
目から鱗が落ちる思いだったよ。そういう考え方があるのか、と―――。あそこでオレが皇帝の要求を飲んだからこそ、自分以外の血族が全て断罪される中、己だけがおめおめと生き恥を晒しながら生きる道を選んだからこそ、救われた命もあったのだと―――あの決断を、民を守る為の決断だったのだと言ってくれる人間がいるのだと―――」
フラムアーク―――。
「その言葉を聞いた後は、不思議と立派な街並よりも、そこで暮らす民達の表情に目が行くようになった。よく見れば赤ん坊も小さな子どももいっぱいいて……あの戦争を知らない新しい生命がたくさん誕生している現実に……オレの決断は間違っていなかったのかもしれないなと、ようやく思えた……。
恥ずかしい話だが、すっかり忘れていたんだ……国の要たる王は、己の為の施政を敷くのではなく、国民の為に柔軟な施政を執り行わねばならないのだと―――民の笑顔あってこその国家だと―――そんな心構えを聞かされて育ったというのに―――」
「私も……スレンツェ、あなたは立派な決断をしたのだと思う。あなたが皇帝の要求に従わなければ、あなたを支持する国民達はきっと最後の一人になるまで戦って、その命を散らせてしまったことでしょう。あなたは自分の心を殺しても、民を救う道を選んだ。その決断は、王者の品格に足るものだったのだと思うわ」
涙を堪(こら)えてそう伝える私に、スレンツェはほろ苦く笑んだ。
「そう言ってくれるか。オレはフラムアークの言葉に救われたが、それとは別に実はもうひとつ、救われる出来事があったんだ。その地で思いがけない、貴重な出会いがあった」
「貴重な出会い?」
「ああ。現在の領主の城で下働きをしている者で、かつてオレが暮らしていた王宮に出仕していたという娘がいたんだ。当時のオレにも会ったことがあるらしくてな、あちらからためらいがちに声をかけてきた。オレは覚えていなかったんだが、何かの折に一度オレに助けられたことがあったらしく、恩義を感じているふうだった。今は第四皇子の側仕えとなったオレに、こう言ってくれたよ。
『今は違う国の民となりましたが、かつてあなたの国の民であった時も、私は幸せでした』と―――『どうかいつまでもお元気で、ご自愛下さい』と―――」
スレンツェの声が、微かに震える。
「それを聞いて、胸が熱くなった。かつての国は失われても、そこで暮らした記憶は確かに人々の中に残っていて、何もかもが失われてしまったことにはならないのだと、そう実感して―――もう充分だ、と思った。
これまでずうっと、オレの胸のどこか深いところには、国の再興を期する復讐めいた思いが埋火のようにくすぶっていたのかもしれない。だが、個人の薄汚れたプライドなんぞの為に、この平和が壊されていいわけがないんだ。かつての国民達が今は幸せに暮らしているなら、それでいい―――心から、そう思えたんだ……」
―――スレンツェ……。
私はスレンツェに歩み寄って、椅子に座ったままうつむいた彼の後頭部をそっと引き寄せ、自分の身体に押し当てるようにした。もう一方の手を彼の肩に回して、その顔が見えないようにする。
「いい出会いがあったのね。あなたがそんなふうに自分の心に折り合いをつけれたなら―――新しく歩み出せるきっかけを掴めたのなら―――本当に、良かった。本当に、良かったわ……」
スレンツェはそう囁く私に頭を預けたまま、しばらくじっとしてた。
静かに涙ぐむ彼の気配を感じながら、私は頬を伝う涙をそのままに、この孤独で高潔な人が幸せになれるよう、祈らずにはいられなかった。