そこで暮らしている兎耳族は、現在二百名ほどだ。
家族は広めの一室を与えられ、独身者は近い年齢の同性と相部屋で一室を与えられている。
第四皇子付きの宮廷薬師を務める私は普段あまりこちらへ帰ってくることはなかったけれど、フラムアーク達が領地視察へ出向いている今、暇になったこともあって、久々にこちらの自分の部屋へと戻ってきていた。
「部屋をほとんどあたしが占有しちゃってて、ゴメンねぇ〜。でも、ほら、ちゃんと掃除はしているから許して」
てへっ、と愛嬌を振りまきながら私を出迎えたのは同室のレムリアだ。私と同じ雪色の髪を顎の辺りでふんわりとそろえて、人懐っこい大きな瞳はトルマリン色。
確かに見渡す室内は彼女の私物で溢れていて、私のスペースは自分のベッドの上くらいしかない。
「まあいいけど……掃除をしてもらえて私は助かっているし、普段はどうせ調剤室に入り浸っていてこっちにはあまり帰って来ないから」
調剤室には仮眠用のベッドもあるし、近くに宮廷従事者達が使える入浴施設も洗濯場も食事の提供場所もあるから、あちらで生活の用は足りているのだ。
「ユーファは兎耳族の誇る優秀な薬師だものね。第四皇子付きの宮廷薬師として抜擢された時は驚いたけど、病弱だった皇子様が長い視察に行けるくらい丈夫になったんだから、さすがだよ〜!」
「本当に優秀な薬師だったのは私の母よ。私はその光を受け継いだだけ」
「それでも皇子様が元気になったのはユーファのおかげじゃん! 謙遜することないよ〜! ねえねえ、それでどうなの? 最近の話、色々聞かせてよ」
レムリアは久し振りに顔を見せた私に目を輝かせて、兎耳をぴるぴるさせながら、今回の領地視察にまつわる話を根掘り葉掘り聞いてくる。
「そっかあ、お付きのスレンツェって人は一緒に行けたんだね。外に出れたんだ、いいなぁ。うらやましい」
「本当に……うらやましかったわ。許されるなら、私も一緒に行きたかった」
「だよねぇ。……ねえ、それってどっちの意味で?」
「どっちの意味って?」
質問の意図を計りかねてレムリアを見やると、彼女はニヤニヤしながら言った。
「単純に宮廷の外へ出たかったのか、それとも彼らのどっちかと離れたくなかったのかって聞いてるの」
「何、それ?」
「も〜ぉ鈍いなぁ! 宮廷ロマンスは生まれていないのかっていう話を聞いているのよ〜!」
「そういうことなら生まれてないわ」
「即答かよ!」
「どうしてそんなツッコミを受けないといけないのよ……」
「そういう話にあたしが飢えているからよ〜!」
「知らないわよ……」
レムリアは恋愛脳で、恋に生きて恋に死にたいらしい。いつか運命の人と大恋愛するのだと夢見ていて、いつも恋愛の種を探している。
「だってさー、毎日皇族と元王族の若い男二人と接していてさ、何かときめくような出来事とかないのー? 遠くからチラッとしか見たことないけど、スレンツェって人結構カッコ良くなかった? 皇子様も可愛い顔していた気がするし」
まあ客観的に見て、スレンツェもフラムアークもタイプの違う整った顔をしているとは思う。
「二人とも年下よ? フラムアーク様にいたっては十六歳だし、そんなこと考えること自体が犯罪レベル」
「十六なんてむしろ丁度良くない? 今はアレだけどさー、うちらの年齢で考えたら、この先同じくらいのタイミングで年取って行けるじゃん」
兎耳族は人間と比べて若い時期が長いだけで、成人体への成長速度と老化が始まってからの減退速度はほぼ一緒なのだ。
「レムリアは絶対にフラムアーク様に近付かないで」
「あっ、ユーファがママンの顔になった!」
五歳の時から見ているのよ、そりゃあ半分育ての親みたいな心境よ。
「だいたい兎耳族(わたしたち)は同族間での婚姻しか認められていないんだから、人間相手に色恋の話をしたってしょうがないじゃない」
「それは……そうなんだけどさー、でもさ、同族の若い男って言っても数が少ないじゃん。その中から相手を選ぶって、難しいよね。やっぱりさ、好みってあるじゃん。合う合わないってあるじゃん。心があるんだもん、好きになる時は種族云々関係なくそうなっちゃうじゃん……」
……あら?
「レムリア。もしかして……?」
押し黙ったレムリアの顔を覗き込むと、頬を染めた彼女はふてくされた表情で、きまりが悪そうに言った。
「同じ職場の人で……人間なんだけど、気さくで分け隔てなくて、いいなあって思う人が出来て……」
「その話、聞かせて?」
「……聞きたい? 先のない人間との色恋だけど」
「ごめん、傷付けるような言い方して。考えなしな発言だったわ。あなたの言う通り、恋愛感情には人種の垣根がないってこと、本当は私だって分かってるのよ」
ただ、そうやって自分を律していないと少し怖いだけ―――。
それから機嫌を直して想い人の話をしてくれたレムリアは、とても幸福そうで満たされた、綺麗な、恋をする女の子の顔をしていた。
きらきら瞳が輝いて、ふわふわ弾む心が伝わってくる。さらさら空気に溶けていく砂糖菓子のような甘い声は、相手への溢れる好意と希望を紡いで、私の胸に波紋を描き、何とも言えない予感の琴線を揺らしていった―――。
*
スレンツェからの手紙は、二回来た。
几帳面な字面で綴られた書面にはフラムアークの体調には変わりがないこと、視察は概ね順調で視察団内の雰囲気も良く、フラムアークは世界の広さに目を輝かせながら、毎日様々なことを学び吸収している様子が記されていた。
領主の中には病弱だったフラムアークを深窓の皇子と揶揄し、侮ってかかる人物もいたようだけれど、フラムアークは柔かな、しかし毅然とした態度で立ち回り、その地の視察を終える頃には、大抵の領主が彼を見る目を変えていたそうだ。
書面からフラムアークが頑張っている様子が伝わってきて、私は誇らしい気持ちと同時に安堵する気持ちになったけれど、スレンツェからの手紙はフラムアークのことばかりで、彼自身に関する事柄が何も記されていなかった。
バカね、私はフラムアークのことはもちろんだけど、あなたのことも含めて知りたいのに―――。
二度目の手紙はスレンツェの故郷であるかつてのアズール王国、現在は帝国領アズールとなった地に足を踏み入れる直前で出されていて、そこから先の手紙は私の元へは届いていなかった。
三通目は、もしかしたら書かれていないのかもしれない。あるいは書かれているけれど、まだ届いていないのかもしれない。手紙は届くまでに時間がかかるし、もしかしたらスレンツェの中で様々なことがあって、手紙を書けるような状況になかったのかもしれない。
様々な憶測がぐるぐると頭の中を渦巻いたけれど、どうすることも出来なくて、今の私にはただ彼らを信じて待つこと、それしか出来ないのだと、自分にそう言い聞かせて、気持ちに折り合いをつけるしかなかった。
*
その足音を感知した時、私の兎耳はピン、とそばだった。
帰ってきた―――!
椅子から立ち上がって調剤室のドアを見つめる私の前で勢いよくドアが開き、息を切らせたフラムアークが顔を覗かせる。
「ただいま! ユーファ」
ふた月振りに見る彼の顔は日に焼けて、また少し大人びたように思えた。
「フラムアーク様……! お帰りなさいませ、お務めご苦労様でした」
駆け寄って飛びつきたくなる衝動を堪(こら)え、一礼して笑顔で迎える私に、大股で歩み寄ったフラムアークが腕を広げてぎゅっと抱きついてくる。彼の身体からは、冬が近づく外界の匂いがした。
「あー、本物のユーファだ……! やっと会えた! 帰着予定が三日遅れて、もうユーファが足りなくて死ぬかと思った……!」
長距離の移動を伴う行程は天候や予想外のトラブルなどにより、どうしても遅れが生じやすい。三日程度であればつつがなく済んだと言えるだろう。
頭ではそう分かっていても、この三日間は私も非常に気を揉んだ。彼らがいつ帰ってくるのかと落ち着かなくて、何度も城門の方を覗いたり、視察団の到着を今か今かと待ちかねていた。
「大げさですね」
笑ってハグを返すわたしの側頭部に頬を押し付けるようにして、フラムアークは首を振る。
「大げさじゃない。オレにとってユーファは潤いなんだ。今回離れて、それがよく分かった。視察団のメンバーは男ばっかりだし、どこもかしこも色がなくて、まるで砂地にいるみたいだった」
「道中は確かにそうかもしれませんけれど、それぞれの領地では目の保養になる女性もたくさんいたでしょうに」
「ああ、うん、各地の城で催された歓迎の宴には確かに色とりどりの鮮やかな華が咲いていたな。けれど、見るだけで心安らぐような、こんな花は咲いていなかった」
身体を離して私を正面から見やったフラムアークは、そう言って私の腰の辺りまである雪色の髪を柔らかく撫でた。
「ユーファは特別。特別なんだ」
橙味を帯びたインペリアルトパーズの瞳を細め、あどけなさと男らしさが同居したドキリとするような表情を向けられて、不覚にも頬が熱くなった。
この子は……久し振りに会ったと思ったら、何て顔をして、何てことを言うんだろう。
「こ……光栄です、そこまで言っていただけて」
私は思わず視線を逸らして、別の話題を探した。
「いかがでした、宮廷から遠く離れた各地を視察された感想は」
「うん。それについてはまた後でゆっくり話そうと思うけど、それよりも―――」
言いかけたフラムアークは、何かを忘れたことに気が付いたようだった。
しまった、という素振りを見せる彼に救いの手を差し伸べたのは、ドアを開けて姿を見せたスレンツェだった。
「おい、忘れ物だ」
フラムアークに差し出した彼の手には、袋がひとつ握られている。それを見たフラムアークの顔が輝いた。
「スレンツェ! 助かった、ありがとう」
「ユーファに会いたいからって、気が急き過ぎだ」
スレンツェ……良かった、元気そう。見た感じは出立前とそう変わらないように思える。
彼の状況を案じていた私は心からホッとして声をかけた。
「お帰りなさい、スレンツェ。あなたもご苦労様だったわね。二人とも無事で何より……本当に良かったわ」
「ああ。お前も留守番ご苦労だったな」
言葉少なに、けれど精悍な頬を緩めてこちらを見やった彼の黒い瞳は穏やかだった。
「ユーファ、これ、スレンツェにも手伝ってもらったんだけど……領地視察のお土産だ。喜んでもらえると嬉しいんだけど……」
そう言ってスレンツェから受け取った袋を、フラムアークが私へと差し出す。
手伝ってもらった……? いったい何かしら。私がスレンツェにお願いしたものとは違うの……?
不思議に思いながら覗いた袋の中身は―――鉢植えだった。
「え―――、これ―――」
それを目にした私は絶句して、サファイアブルーの瞳をいっぱいに見開いた。
淡い紫色の小さな花が穂状についた、見覚えのある可憐な花。
袋を開けた瞬間広がった香りと共に脳裏に甦る、故郷の風景。鮮やかに咲き誇ったその花々と、緑眩しい肥沃(ひよく)な大地に広がっていた兎耳族の町―――今は亡き懐かしい思い出達が一斉に胸に込み上げてきて、鼻の奥がツン、と熱くなる。
「ラリビアの……花……?」
「ユーファの故郷があった地方を通った時、通り沿いにたくさん咲いていたんだ。持ち帰ってユーファにも見せたいと思ったんだけど、こっちの土では育たないと思って……スレンツェにも手伝ってもらいながら、根を傷付けないよう土ごと掘り出して、鉢植えにしたんだ」
「ご自身で……掘り出されたんですか?」
「うん。スコップを使ったことがなかったから手間取ったし、思った以上に繊細な作業で大変だった。ね?」
フラムアークに同意を求められたスレンツェが、深々と溜め息をつく。
「オレも園芸関係には縁がなかったからな……視察団の中で比較的そういうのに詳しい奴と、たまたま通りがかった地元の農業関係者にアドバイスされながら、何とか手探りでやった感じだな」
「男数人で花を囲んで、周りから見たら異様な光景だったね、きっと」
「まったくだ。骨が折れた」
苦笑するフラムアークと、顔を見合わせて頷くスレンツェ。
大帝国の第四皇子と、その側用人でかつては王子という地位にあった人が、道端で何をやっているのよ。
その光景を想像して可笑(おか)しくなると同時に、二人が自分の為に費やしてくれた労力と心遣いを感じて、私の涙腺は壊れてしまった。
「……っ、ふ……嬉しい……ありがとうございます……」
フラムアークは覚えてくれていたのだ。
いつだったか書庫で私がラリビアの花の話をしたことを。切り花よりも、生花を見る方が好きだということを。いつかもう一度、ラリビアの花をこの目で見たいと言っていたことを―――。
この花を自分の目でもう一度見ることが出来るなんて、夢にも思っていなかった。
「今はこれが精一杯だけれど―――いつか、一緒に見に行こう。ユーファの故郷へ、咲き誇るラリビアの花を見に」
そう語るフラムアークの胸に、その時どのような決意が芽吹いたのか―――この時の私はまだ、知る由もなかったのだ―――。