広い領土を誇る大帝国はいくつかの領地から成り、皇帝から各地を任された領主達によって治められている。
帝国の皇子達は満十四歳に達するとふた月ほどかけて帝国全土の領地視察に赴くのが習わしなのだが、身体の弱かったフラムアークに関しては見送られ、満十六歳を迎えた初秋、ようやく皇帝からの申し渡しが下りた。
兎耳族の私は国の決まりで領地視察へ同行することが適わなかったけれど、意外なことにスレンツェの同行は許可が下りた。反対されることを覚悟でフラムアークが皇帝へ願い出たところ、実に拍子抜けするほどあっさりと認可されたという。
「本当か? オレは……かつての敵国の王子だぞ? 視察する領地の中には、かつてオレの国だった所もあるのに」
半信半疑のスレンツェにフラムアークは頷いて、父である皇帝の言葉を伝えた。
「かつての国民達の嘆願により処刑を免れ、単身この皇宮に来て十余年―――野放しにしていたわけではないから、どういう人物なのかは把握している。よもや謀反を起こすことはないだろうが、もしもの時はお前が命に換えても阻止しろと。その覚悟があるなら連れて行くがよいって言われたよ」
「……」
「スレンツェ。オレはかつての敵国の王子を視察に連れて行くわけじゃない。オレが小さい頃から見てきたスレンツェを連れて行くんだ。一緒に見てこよう。かつてのスレンツェの国が、今はどうなっているのかを」
「……。どんな形であれ、自分の国が今どうなっているのかは見ておきたい。その上で昔より悪くなっているようなら、皇帝に意見してやる」
そう皮肉ったスレンツェはひとつ息をついて、フラムアークの金髪をくしゃっと撫でた。
「何だかお前、大人げな物言いをするようになったな? 皇帝にオレのことを直談判するとか……昔からじゃ考えられないな」
「背ばっかり伸びているわけじゃないんだよ。そのうち背でもスレンツェを超えてみせるけれどね」
「抜かせ。生意気になりやがって」
肩を組むようにしてじゃれ合う二人を見やりながら、私はスレンツェ同様、フラムアークの成長を感じずにはいられなかった。
親子らしい思い出などない、この国の最高権力者である父親にスレンツェのことを直談判するのは、不遇されてきたフラムアークにとってどれほど勇気の要る行為だっただろう。
そして多分、それはフラムアーク自身の為ではなく、半ば幽閉された身であるスレンツェを思っての彼の行動だったのだろうと感じられるから―――余計に、その思いが強い。
「出来ればユーファも連れて行きたかったんだけど―――ごめんね、オレの力が及ばなくて」
申し訳なさそうなフラムアークに私は首を振って微笑んだ。
「将来の楽しみに取っておきます。私がいなくても問題ないよう、しっかりと薬の準備を整えますね」
ふた月もフラムアークと離れるのは、初めてのことだ。
最近はすっかり健康になって容体も落ち着いているとはいえ、ほとんど宮廷から出たことのないフラムアークは長旅はもちろん初めてだし、帝国の広い領土内は領地によって気候も風土も違う。
何が起きても問題ないように、万全の準備をしなければ……!
刻一刻と視察の期日が迫る中、私はほぼ調剤室に入り浸って入念な準備に努めた。
「ユーファ。ちょっといい?」
フラムアークが調剤室に顔を出したのは、出立の二日前のことだ。
「はい。何ですか?」
椅子から立ち上がった私の顔を確認した彼は、思わずといった様子で苦笑をこぼした。
「ちゃんと寝てる? 目の下にクマが出来て、可愛い顔が台無しだよ」
ここ数年フラムアークは私に対し「可愛い」という言葉を多用するようになっていたので、最初の頃はそれを面映(おもは)ゆく感じていた私も、この頃になると不遜ながら慣れてしまい、特段の反応を示さなくなっていた。
「正直あまり寝ていませんけど、フラムアーク様達が視察に出られた後は惰眠をむさぼりますから、心配ご無用です」
「じゃあせめて今はオレに付き合って、ちょっと休憩しよう? 根を詰めすぎるのも良くないし、何よりしばらく会えなくなる前に、ユーファと話をしておきたい」
確かにそうだ。これからふた月もの間、私はこの子と会えなくなるのだ。
出発前日の明日ともなれば、慌ただしくてろくに会話をする時間も取れないに違いない。
「そうですね、ちょっとひと息入れましょう。お茶を淹れますよ。何がいいですか?」
「ん。ユーファと同じの」
「分かりました」
調剤室で一服する時、フラムアークは大抵私が飲むものと同じものを所望する。
「私はちょっと頭をスッキリさせたいので、ミントをブレンドしたお茶にしますけどいいですか?」
「うん、いいよ」
皇族付きの薬師達は薬剤庫の近くに自分専用の調剤室を持っているので、この部屋にいるのは今、私とフラムアークの二人だけだ。
煎じられたミントの葉の爽やかな香りが室内に広がる中、テーブルに頬杖をついてお茶を淹れる私の様子を眺めていたフラムアークが口を開いた。
「薬の準備自体はほぼほぼ終わっているんだろう? 同行することになっている薬師が言っていたよ。ユーファからオレのカルテと視察中の常備薬を山ほど渡されて、懇々(こんこん)と説明されたって」
「最低限必要なものは準備できたとは思うんですが、何しろ長旅ですから、何か漏れはないかと気が気ではなくて。出来るだけ作りたてで渡したい薬もありますし……」
「心を砕いてくれてありがとう。その薬師にも『本当に大切にされているんですねぇ』……って感心されたよ」
そう報告するフラムアークの前にミントのブレンドティーの入った彼専用のカップを置きながら、私は少し頬を赤らめた。
「それは……感心されたのではなくて、過保護だと揶揄されたのでは?」
「いや、本当に感心したふうだったよ? ユーファの仕事ぶりを丁寧だって褒めていた」
「本当ですか? だったら、とても嬉しいです」
「うん。オレも自分のことのように嬉しかった」
テーブルを挟んだ私達は顔を見合わせて微笑み合った。
「いよいよ明後日の出立ですけど、緊張はしていませんか?」
「緊張していないと言えば嘘になるけれど、ワクワクしてもいるんだ」
十六歳の男の子だものね。初めて目にするだろう世界への旅立ちは、まるで冒険に出るような心境に近いものがあるんでしょうね。
「そういえば先日、今回の視察に同行する人達を集めて食事会を開いたそうですね?」
スレンツェ情報で、御者から護衛、料理人、官吏その他にいたるまで、視察へ帯同する者達が一堂に会する食事会をフラムアークが提案して執り行ったのだという話を私は聞き及んでいた。スレンツェ曰く、このような試みは初めてだと参加者達は皆口をそろえていたという。
「オレもスレンツェも宮廷内の評判が良くないし、同行することになったみんなも接し方に困っているんじゃないかと思ってね。当日いきなり顔を合わせて出発するより、ワンクッション置いた方がお互いの為にいいと思ったんだ。初めは探り合いの雰囲気があって気詰まりな感じだったけど、次第に酒が入ったこともあって後半は盛り上がったし、みんな何となく打ち解けて、お互いの雰囲気を把握できたんじゃないかな。結果として、やって良かったなってオレは思ったよ」
「すごくいい試みだと思います。フラムアーク様とスレンツェの人となりが正しくみんなに知ってもらえたなら、領地視察もずっとやりやすく、きっと楽しいものになりますしね」
「だといいな。オレは病弱で出遅れている分、自分なりに工夫をしていかないとね」
「自分で考えて行動に移せる、そこがフラムアーク様の長所だと思いますよ。ただ、お酒には気を付けて下さいね。体質に合わないものがあると困りますから、飲んだことのある食前酒以外は飲まないようにして下さい」
酒(アルコール)は時に毒にも薬にもなる。フラムアークはまだ未成年だし、視察の先でハメを外した大人達にそそのかされないか少し心配だった。
スレンツェが傍に付いているから大丈夫だろうとは思うけれど、自分が傍にいてやれないことが何とも歯痒い。
「うん、心得ているし気を付ける。食事会でも最初の乾杯だけで、どんなに勧められてもちゃんと全部断った」
ブレンドティーを口に運んだフラムアークは茶葉の香りを楽しむように、橙味を帯びたインペリアルトパーズの瞳を細めた。
「爽やかで、いい香りだな。こうやってユーファの淹れてくれる茶をしばらく飲めなくなるのは少し寂しいな」
「視察から戻って来られたら、またお好きなものを淹れて差し上げますから」
「ユーファとふた月も離れるのは初めてだね」
「そうですね。でも、スレンツェが一緒ですから」
そう答えた私に、フラムアークは短い沈黙を置いて意外な言葉を返してきた。
「……何か、ユーファが身に着けている物をひとつくれないか? お守り代わりに」
「えっ? 私が身に着けている物、ですか?」
私は驚いてフラムアークを見やった。
「うん。ダメか?」
遠慮がちにフラムアークが尋ねてくる。
ダメ、というわけじゃないけれど……。
フラムアークがこんなふうに何かをねだってくるのは初めてのことだ。初めての視察を前にして、やはり心細くなっているのかもしれない。
「それは構いませんが……けれど、何を差し上げたらいいのか……」
私は戸惑いながら、自身が身に着けている物を確認した。
銀のバングル……は彼のサイズに合わないし、花を象(かたど)ったサークレット……というのもどうかと思う。刺繍の施されたハンカチ? ハンカチは身に着けている物、とは少し違うような……。となると―――。
私は首から掛ける形で白い長衣(ローヴ)の胸元にしまい込んでいた小さな香袋を取り出した。中には乾燥させたハーブで作ったお気に入りのポプリが入っている。
「自分で作ったリラックス効果のあるドライポプリを詰めた香袋なんですが……あの、こんなものでも大丈夫ですか……?」
ためらいがちにそれを差し出すと、フラムアークは小さく息を飲んで私とそれを見比べた。
「ユーファの手作り? いいのか?」
「こんなものでフラムアーク様が宜しければ、どうぞ」
「ありがとう。……大事にする」
飾り紐の先に小さな香袋を付けた手作り感満載のそれを両手で大切そうに受け取って、フラムアークは微笑んだ。
ふた月に及ぶ視察の間、彼がそれを誰にも気付かれないようペンダントのようにして衣服の下にしまい込み、本当にお守りのようにして肌身離さず身に着けていたと私が知るのは、だいぶ後になってからのことである―――。