青い空に白い入道雲が映える夏空の下―――あたし達はとある介護施設の中庭に来ていた。
これからいよいよ、蓮人くんのおじいちゃん、エージこと喜多川英一郎さんと対面する。
賑やかなセミの声が響く中、照りつける日差しを避けて木陰に佇みながら、あたしとノラオは蓮人くんがエージを連れてきてくれるその時を今か今かと待っていた。
「緊張するね……」
思わずそうこぼした白いワンピース姿のあたしに、ノラオが緊張を隠せない声を返した。
『言うなよ。こっちが緊張すんだろ……』
太陽の光が降り注ぐ夏の日中、綺麗に手入れがされた中庭に他に人の姿はない。
生温い風が首元を通り抜けていった時、年配の男性が乗った車椅子を押してこちらへとやってくる蓮人くんの姿が視界に入って、あたしはハッと息を飲んだ。
自分のものかノラオのものか分からない鼓動が跳ね上がり、知らず喉を鳴らすあたし達の前で、近付いてきた車椅子がゆっくりと木陰に止まる。
居住まいを正すあたしに蓮人くんが微笑んで、車椅子の男性を紹介した。
「お待たせ。こちらが祖父の喜多川英一郎だよ」
紹介された英一郎さんはゆったりとした白地のシャツに濃紺のスラックス姿で、薄茶色のチューリップハットを被っていた。
ノラオの記憶の中で見た知的な雰囲気と面影はそのままに、年輪を重ねた容貌になっている。
五十年後六十年後の蓮人くんを彷彿とさせる、素敵なおじいちゃんだ。
「―――っ、初めまして、岩本陽葵です。蓮人くんの同級生で、蓮人くんにはいつもお世話になっています」
一拍遅れて緊張気味に自己紹介すると、そんなあたしを穏やかな眼差しで見やった英一郎さんは、「初めまして」と柔らかく微笑み、それからゆっくりと後ろの蓮人くんを振り仰いだ。
「蓮人。会わせたい人、というのはこの人のことかい?」
蓮人くんのものより幾分低くて掠れた渋い声に、あたしの中のノラオがブルッと震えるのが分かった。
蓮人くんを認識出来ているということは、今日は比較的症状が落ち着いているのかな―――そんなふうにあたしが思った時だった。
パチッ、と一瞬目の前で火花が散るような感覚があって、驚きに瞳を瞬かせた次の瞬間、英一郎さんの姿が一気に眩い光を纏うと燦然と輝き始め、その現象にあたしは思わず目を瞠った。
―――えっ!?
同時に、今までノラオが新しい発見とか刺激を受ける度に伝わってきていた、上手く言い表すことの出来ない心に響くあの感覚の最上級が身体の中を凄まじい勢いで駆け抜けて、肌を粟立てるあたしの内側から溢れ出し、具現化した。
「……!」
驚きに声も出ないあたしの前で、フォンッ、と気流のようなものが巻き起こり、肩甲骨の辺りまであるあたしの髪やワンピースの裾がそれに煽られて勢いよくたなびき、異変に気付いた蓮人くんと英一郎さんがこちらを見やる。
―――これ、ノラオに取り憑かれた時と逆の感覚だ……!
そう理解した次の刹那、ふわっ、とまるでヴェールが離れるようにあたしから離脱したノラオが、霊体として視覚化し、目を見開く英一郎さんに向かって切なる声を響かせた。
『―――エージ!!!』
胸が引き絞られるような、心の奥深くに突き刺さるような声だった。
突然目の前に現れた往年の親友―――しかも後ろの景色が透けて見える姿で現れた彼を目の当たりにした英一郎さんは、愕然としたまま、言葉を失った。彼ばかりではなく蓮人くんもまた、絶句しながら目の前の現実離れした光景を見つめている。
そんな英一郎さんに向かって、両手を広げたノラオは溢れる感情を迸(ほとばし)らせた。
『エージ……! オレだよ、タ』
「―――武尊(たける)……!」
ノラオが名乗るより先に、英一郎さんの口から悲鳴にも似た、喉を引き絞るような声が放たれた。
ずっと会いたいと願っていたエージに名前を呼ばれて、ノラオが大きく身体を揺らし、息を止める。
そんな彼に向かって手を伸ばした英一郎さんは、震える足で車椅子から立ち上がると、あたし達が見守る中、おぼつかない足取りで、必死に彼の元へ歩みを進めた。
「武尊―――武尊、本当にお前か……!? オレは、白昼夢でも見ているのか!? ……っ、それでもいい、何でもいい! 幻でも何でもいいから、だから、頼むから、そのまま消えてなくならないでくれ!!」
それは、聞いている方が切なくなるような懇願だった。
その必死な様子に驚いて動きを止めてしまったノラオへ、一歩一歩、震える足で歩を進めた英一郎さんは、知的な面差しをくしゃくしゃにして、涙ながらに、ぼんやり光るノラオの身体を抱きしめた。
英一郎さんの腕がノラオを掴めずに空気を切ってしまうんじゃ、と密かに心配していたあたしは、そうならなかったことに人知れず安堵の息を漏らした。
景色が透けて見えるノラオの霊体には、どうやら感触と呼べるものがあるらしい。
むせび泣く英一郎さんを感無量の面持ちで抱きしめ返すノラオの頬にも、涙のようなものが伝っていた。
『……ッ! エージ―――エージ、エージ……! 会いたかった……! ずっとずっと、会いたかった! お前にもうひと目会って、どうしても伝えたかったんだ……! ゴメン、あんな別れ方をするつもりじゃなかったんだ、あんないなくなり方をするつもりじゃなかったんだ……! なのにあんな形で死んじまって、本当にゴメン……!』
英一郎さん―――エージはかぶりを振りながら、そんなノラオに詫びていた。
「オレの方こそ、気付いてやれなくてすまなかった……! あそこまで体調が悪くて臥(ふ)せっているなんて、夢にも思わなかったんだ……! お前と連絡が取れないことをもっと深刻に感じるべきだった、お前のアパートにもっと早く駆け付けてやるべきだった……! すまない……! すまない、武尊……!」
『違う……! お前は何度も、何度も電話を鳴らしてくれていただろう!? あれは、お前だったんだろう!? なのにオレが、電話を取れなくて……!』
「それだけ具合が悪かったんだ、仕方がない」
首を振るエージに、ノラオは弾けるようにして叫んだ。
『違うんだ! 最初は、電話に出ようと思えば出れるくらいの体調不良だったんだ! なのにオレ、大人げなく拗ねちまっていたから……! あの電話は多分お前だって分かっていたのに、なのに、電話に出なかった。あの時会えなかったのは、お前のせいじゃないのに……! 仕方がない理由だったのに、分かっていたのに、会えなかったのが寂しくて、ガキみたいに拗ねて……! だからエージ、オレがああなっちまったのは自業自得なんだ、お前はなんにも悪くない。それが言いたくて……!』
ノラオはしゃくりを上げながら、エージに当時の心境を吐露した。
『死ぬつもりなんてなかったんだ……ただの風邪だって、ちょっとこじらせちまっただけだって、寝てればそのうち治るって、そう思ってたんだ。お前の電話に出なかったのはただちょっと拗ねていただけで、機嫌が直ったら今度はこっちから電話して、いつになるか分からないけど、また約束を取り付ければいいって、そうしたら次は笑顔で会おうって、そう思ってたんだ。まさか、あのままおっ死(ち)んじまうなんて、自分でも想像だにしていなかったんだ……』
後悔の言葉を述べるノラオを、エージは痛ましそうに見つめていた。
「武尊……」
『あんな死に方しちまって、ゴメン。きっとたくさんたくさんお前に迷惑かけたし、後悔させたし、ひどく傷付けた―――お前はなんにも悪くないのに、長い間、気に病ませちまったよな……? 本当にゴメン……』
「武尊……!」
うつむくノラオをきつく抱きしめ直したエージは、小さい子をあやすようにその背中をとんとんと叩いた。
「お前は昔から、下手に我慢し過ぎなんだ……! 寂しいなら寂しいとオレに言って良かった、辛いなら辛いとオレを頼ってくれたら良かったんだ……! お前はもっと自分を大事にして良かった、そうしたら―――そうしたら、ずっと一緒に年を取っていけたのに……。お互いじいさんになって、今頃はもしかしたら、毎日顔を突き合わせていたかもしれなかったんだぞ……」
無念を噛みしめるように絞り出されたその言葉を聞いたノラオは、泣き笑いの表情を浮かべた。
『はは……ホント、エージ年食ったもんなぁ。もうすっかり、じいちゃんだもんな。……ホント、取り返しつかねーのな。バカだなぁ、オレ……』
そんなノラオを見やったエージは寂しそうに瞳を伏せて、こう言った。
「お前が死んだ後な―――月夜の度にお前のことが思い出されて、その度にたまらん気持ちになった。独身最後の夜、一緒に駅への道を歩きながら、『月が綺麗だなぁ』、そう言って笑っていたお前の顔がどうしてか忘れられなくて―――月を見る度に胸に堪(こた)えて……。あの時オレはお前にろくな言葉を返してやれなかったが、『お前と一緒に見た月だったから綺麗だったんだ』、そう後になってしみじみと思って、それを言いたくてたまらない思いに駆られて―――。それを言える相手はもういないのに……それが寂しくてやり切れなくて、たまらなく苦しかったよ……」
『……!』
エージの切ない告白を聞いたノラオの瞳に再び大粒の涙が浮かび上がり、彼はそれを堪(こら)えるように大きく唇を引き結んだ。そして、押し寄せる感情のうねりをしばらく耐え忍ぶようにしてから飲み込んだ後、ノラオはとびっきりの笑顔で笑った。
『はは……! ホンットお前、相変わらずの無自覚たらし!』
「うん?」
『何でもねぇ。お前には本当にツラい思いをさせちまった……すまなかったな。でも、ゴメンな。そんなふうにお前が感じてくれていたことが嬉しいって、そう思っちまった。それだけオレのことを大切に思ってくれていたんだなって、そう感じられたことが、嬉しくて―――最低だな、オレ。ごめん』
ばつが悪そうに瞳を伏せたノラオは、自嘲気味に小さく笑った。
「武尊……」
『でも、それが正直な気持ちなんだ―――お前がそんなふうに感じてくれていて、嬉しかった。ありがとう、エージ。これでもう、思い残すことはねえ』
ひどく晴れ晴れとした表情になったノラオは、そう言って青い空を仰いだ。
『……エージ、お前はゆっくり彼岸(こっち)に来いよ。オレはだいぶ此岸(この世)を彷徨っちまったけど……ここにいるヒマリとレントのおかげで、こうしてどうにかもう一度お前と会うことが出来た。二人には、感謝してもしきれねぇ……』
ノラオ……。
『エージ、お前にこうして自分の気持ちをちゃんと伝えることが出来て、良かった。お前の気持ちを聞くことが出来て、良かった。……オレはもう自分の人生に納得してるし、お前もここからちゃんと悔いのないように生きて、それから彼岸(こっち)に来い。オレはひと足先に向こうに行って、のんびり待ってるから』
親愛のこもった眼差しでエージを見つめながら、ノラオはゆっくりと彼に回していた腕を解いた。
エージも頷いてゆっくりと腕を解き、ノラオを見つめる。
「此岸(こちら)の時間は彼岸(あちら)ではあっという間だと聞く。もう少しだけ、待っていてくれるか」
『ああ』
「オレが彼岸(そちら)へ行った時には今度こそ、叶えられなかった約束を果たそう」
『おぅ。飽きるくらい顔を突き合わせていようぜ。簡単には離してやんねーから、覚悟しろよ!』
「はは。楽しみにしているよ―――」
蓮人くんの手を借りて車椅子に戻った英一郎さんは、淡く光るノラオの姿をじっと瞼に焼きつけるようにした後、あたしに視線を移して、小さく目礼した。
そんな彼に一礼を返すあたしの前で、英一郎さんを部屋へ戻す為に車椅子を動かしかけた蓮人くんに、ノラオが声をかけた。
『―――レント』
振り返った蓮人くんに、ノラオはどこか照れくさそうに笑いかけた。
『お前にはその、だいぶ世話かけちまったな……。たくさん面倒かけて、悪かった。色々ありがとうな。……その日までエージのこと、宜しく頼むわ』
「……。うん。祖父が彼岸(そちら)へ行った時は……宜しく頼むよ」
『ああ、それはもう任せとけ』
いつもよりどこか改まった調子の、そんなノラオの姿に感じるものがあったんだろう―――蓮人くんは奥歯に力を込めて堪(こら)えるような表情を見せると、少しだけ肩を震わせて、それから英一郎さんの車椅子をゆっくりと押し、中庭を後にしていった。
二人の背中が見えなくなるまで微動だにせずその様子を見送っていたノラオは、二人の姿が視界から消えた瞬間、全身から力を抜いて、大きな息を吐き出した。
『はー……。太陽の光、やべーな。マジ半端ねぇ。ヒマリ(お前)の身体から出れなかった理由が分かるわ……マジで浄化の光だ』
その言葉を示すように、ノラオの輪郭を彩る淡い光が陽炎のように揺らめいて、上空へと吸い込まれるように少しずつ昇っていっているのが見えた。
それに比例してノラオの姿は徐々に淡く薄くなり始めていて、もうすぐ彼がこの世から消えていってしまうことを示唆していた。
―――成仏、しかけているんだ。
それを悟って、あたしはきつく唇を噛みしめた。
それはあたしが当初から強く望んで、ずっと目指してきたことだった。
そしてここしばらくのノラオの様子から、薄々その時が近いんじゃないかって、密かに感じていたことだった。
なのに今、薄々予感していたそれが現実になろうとしている局面に立ち会っているという事実に、あたしは涙が溢れて止まらなかった。
それは間違いなくノラオにとっても良いことで、自然の摂理にもかなっているはずのことなのに。
「ノラオ―――……」
ボロボロ大粒の涙をこぼすあたしを見やったノラオが、困ったように後ろ頭をかいた。
『泣くなよ……』
「だっ、てぇ……」
ひっく、と喉を鳴らすあたしの頭にためらいがちに手を伸ばしたノラオは、ゆっくりと掌を置くと苦笑してみせた。
『お前にとっちゃいいこと尽くめのハズだろ? もうオレに乗っ取られることもねぇし、着替えも風呂も気ぃ使う必要なくて、快適に過ごせるんだから』
そうなんだけど。そうなんだけど……!
「べっ、勉強、教えてもらえなくなっちゃうし……」
『自分で頑張れ。後は勉強にかこつけてレントに面倒見てもらえば、一石二鳥だろ』
「うぅ、蓮人くんにバカだってバレる……」
『しょうがねぇだろ、バカなんだから。薄々レントも察してるよ。それにお前は頑張れるバカだから、大丈夫』
「そっ、それに、恋愛相談、乗ってもらえなくなるっ……」
『マキセがいんだろ。あいつ頼りになるじゃん』
―――分かってる、分かってるよ、でも。
「ううっ―――さ、寂しい〜……。寂しいよぉぉぉ……!」
『バッカお前、言うなよ! そういうコト……!』
ああ、最後の最後にノラオを泣かせてしまった。
笑顔でお別れ出来なくて、ゴメン。
でも、あたしの方がノラオの何倍も大泣きしているもん。だから許して―――全然、理由にはなんないけど。
「げっ、元気でねぇ……! あたしも、色々頑張るから……!」
『ぶっは、死人に向かって何だよ、ソレ』
空元気を装うように大袈裟に吹き出してみせたノラオは、手の甲でぐいっと涙を拭うと、最後にあたしを優しく抱きしめた。
ひんやり冷たいベールに包まれたみたいな、そんな感触―――ずっと一緒にいたのに初めて知る、ノラオの感触。
『たくさん迷惑かけて悪かったな、ヒマリ。でも、お前とレントのおかげで、やっと在るべきところに行くことが出来そうだ―――そこでゆっくり、エージを待つよ。ありがとう、ヒマリ。幸せにな。悪ぃけど、タケやみんなに宜しく伝えておいてもらえるか』
あたしはとめどない涙を顎に伝えながら大きく頷いて、輪郭も感触もおぼろげになっていく、消えゆくノラオにしがみついた。
「ノラオッ……ノラオはあたしのキューピッドだよ。ノラオがいなかったら、ノラオがきっかけをくれなかったら、蓮人くんとこんなふうに親しくなること、なかったかもしれない。こんなに大好きになれる人だって知らないまま、何のきっかけも持てずに卒業しちゃって、そのまま二度と会うこともなかったかもしれない。スゴくスゴく、人生もったいないことになっていたかもしれない……!」
『はは。そう言ってもらえるんなら、半世紀彷徨い続けたオレの人生にも意味あったよなぁ? ヒマリ、ありがとう。オレの人生に意味をくれて。レントへの想いが成就するよう、空の上から祈ってる―――』
その言葉と優しい笑顔を最後に―――ノラオは、光の中に融けていった。
キラキラ輝く粒子になって、消えていった。
「ノラオ―――ノラオッ……ありがとうー!」
夏の空へキラキラ昇っていくノラオの残滓(ざんし)にあたしは大きく手を振って、彼に心からの言葉を伝えた。
まるでそれに応えるように、キラキラキラキラ、淡く綺麗な光の粒子が、太陽の光に照らされて煌めいていた―――。