あたしが知っているノラオより少し幼い印象のノラオが、偶然隣の席に座った青年にその名前を聞き返していた。
「―――え、何? カミシロエージ? エージロー?」
ノラオに無遠慮に顔を覗き込まれたその青年は、眼鏡をかけた落ち着いた佇まいをしていて、緩いクセのある黒髪や、目立たないけどよく見ると整った面差しなんかが、蓮人くんとそっくりだった。
「違う。英一郎だ。神代英一郎」
どこか物憂げな声でぼそりと返した彼に、ノラオは色素の薄い眉を跳ね上げる。
「お前、声小っちぇーよ! 何、エージローじゃなくてエイイチロウ? 長ったらしいからエーイチって呼んでいい?」
すると、それを小耳に挟んだ前の席の別の青年からツッコミが入った。
「おい、栄一(えいいち)はここにいるだろ! オレだよ! 紛らわしいからヤメロ」
「あ、そうだった」
「おいおい〜自己紹介したばっかだろうが」
「悪ぃ」
ノラオは悪びれる様子もなくニカッと笑ってごまかすと、隣に座る英一郎さんへ視線を戻して、こう宣言した。
「何かエーイチもういたから、しょうがねぇ、やっぱお前のことはエージって呼ばせてもらうわ」
「は……!? どうしてそうなるんだ……!?」
意味が分からない、と困惑の表情を刻む英一郎さんに、ノラオはお気楽なノリで気まぐれなその決定を押し通した。
「別にいいじゃん。オレらの間で通じ合っていれば」
―――こうして、英一郎さんはノラオにほぼ強制的に「エージ」と呼ばれることになったのだ。
陽気で軽薄な印象のノラオと、真面目で硬い印象のエージ。
内実は真面目で繊細なノラオと、その内に柔軟さと豪胆さを併せ持っていたエージ。
初講義の場で出会った、一見正反対にも思える二人は妙に馬が合い、自然と行動を共にすることが多くなった。
そして共有する時間が増えていくにつれ、エージはノラオにとって特別な存在になっていく。
タイプの違う二人は些細な食い違いから衝突することもしばしばだったけれど、ノラオがあの口調で勢いよくまくし立てても、エージは一切臆することなく、真正面から自分の意見をハッキリと述べて向かい合った。ただ、エージはどんな時もノラオを頭ごなしに否定することはせず、いつもノラオの言い分をしっかりと聞いて、互いに納得出来るまで対話を続ける姿勢を取った。
父親との確執から自己肯定感が持てず、本質的な部分で常に他人に心を許すことが出来ずにいたノラオは、いつもありのままの自分を否定せずに受け止めてくれるエージの姿勢に次第に頑なな心を解きほぐされ、いつしか彼に惹かれていった。
見た目や周りの風評に左右されず、しっかりと自分の価値観を持って常に物事の本質を見据えているエージは、ノラオの目にとても眩しく、輝いて見えたのだ。
それは、上辺だけの軽い付き合いに終始し、心の奥底で常に他人へ一線を引いてきたノラオにとって、初めての恋だった。
同性のエージに抱く感情としては不適切だと頭の片隅では思いながらも、走り出したその心を止めることは出来なかった。
大学での幸福な四年間。育ち続ける恋心を気付かれないように隠し続けるのは少し苦しくもあったけれど、それ以上にエージと一緒にいられることが幸せだった。
大学を卒業してそれぞれ別の会社に就職すると、今までのように頻繁に会うことは難しくなったけれど、それでも度々電話で連絡を取り合って、月に一度は会っていた。仕事帰りに待ち合わせて飲みに行ったり、休日に互いのアパートを訪れて過ごしたり、時には少し足を伸ばして一緒に近場へ出掛けたりもした。
恋人になることは出来ないけれど、友人として傍にいることは出来る―――いつか破局を迎えて会えなくなってしまうかもしれない恋人関係より、一生繋がっていられる友人関係の方が長い目で見ればきっといい―――そんなふうに自分を納得させながら募る想いをなだめすかしていた頃、エージに恋人が出来た。
紹介したい女性(ひと)がいる、と少し照れながら切り出された時、この世の終わりのような気持ちになって、目の前が真っ暗になった。そこからどんな顔をしてエージと話していたのか、分からないし、覚えていない。
目を逸らし続けていた現実を突然突きつけられて、鈍器で思い切り後頭部を殴りつけられたような気分だった。
日を設けて引き合わされたエージの恋人は、彼とどことなく雰囲気の似た、穏やかで明るい印象の話し上手な女性だった。
いっそのこと、印象最悪な女だったら良かったのに―――エージにあの女はやめておけ、と言えるような女だったら良かったのに。
残念なことに、目の前の女性からは悪い印象を受けることが出来なかった。
何より、彼女の隣で柔らかく微笑むエージの見たこともない表情が、あまりにも衝撃的で―――その光景に胸が潰れてしまいそうで、上手く息が出来なかった。
それは、エージが彼女のことが心から好きなのだと分かる、特別で温かな表情だったから。
「お前に一番に紹介したかったんだ」
はにかみながらそう言われて、喜びと悲しみがない交ぜになった、やるせない気分になった。
培った処世術でどうにか笑顔を作り、時折二人を茶化しながら当たり障りのない楽しい話題を提供して、雑踏に消えていく彼らの背中を見送る頃には、精神的に燃え尽きていた。
友人としてずっと傍にいられればそれでいいと思っていたけれど、そうじゃなかった。
積み重なった恋心は、友愛じゃ到底満足出来ないところまで育ってしまっていた。
月に一度会うだけじゃ全然足りない。傍にいるだけじゃ物足りない。滾(たぎ)るようなこの想いを伝えたい。そして何よりエージに恋をしているのだと、エージ自身に知ってもらいたかった。
お前にこんなにも焦がれているこのオレを、見てほしい。そして、触れたい。触れられたい。
いっそのこと何もかも伝えてしまおうか、と凶悪な思いが脳裏をよぎった時、エージのあの幸せそうな顔が瞼に浮かんで、嫉妬で暴走しかける心に歯止めをかけた。
あの顔を曇らせてしまうような真似をしてしまうのは、本意ではなかったから―――。
「……っ。何で男同士なんだよ……。どうして、男同士に生まれついちまったんだ……」
誰に言うとでもなく、行き場のない想いが口を突いて出ていた。
―――オレもこんなに、こんなに、エージのことが好きなのに。なのに、男だから想いを告げられない。恋愛対象として見てもらうことすら出来ない。彼女と同じ土俵に上がることなんて、絶対に出来はしない。
そんな想いを握りしめてただ一人、うつむくことしか出来なかった。
*
エージと彼女は順調に交際を重ね、それから一年半程経った頃、二人は結婚することが決まった。
エージに恋人が出来てからノラオと彼が会う回数は確実に減っていたけれど、それでも二〜三ヶ月に一度は会うことが出来ていたから、ノラオは報われない恋心をだましだまし、次にエージと会える日を心待ちにして、会えない日々を耐え忍んでいた。
エージ達の交際の様子から、近いうちにきっとそういうことになるだろうと薄々覚悟を決めていたノラオだったけれど、それでもやっぱり、実際にその報せを受けた時の衝撃には並々ならぬものがあった。
自分はエージの親友にはなれたけれど、やっぱり彼の運命の相手にはなることは出来なかった―――それを改めて思い知らされたノラオは、アパートの自室で鬱々と天井を仰ぎながら、独り膝小僧を抱えて玄関のドアを見やった。
あのドアを当たり前のように開けてエージが遊びに来ることは、もうないんだろうか。
結婚式前夜、大学時代の友人達によって開かれたエージの独身最後を祝う飲み会の席で、ノラオは密かにある決意を固めていた。
明日の主役を二次会三次会へ誘(いざな)おうとする悪友達の手からエージを救い出し、ほろ酔い加減の彼を駅までエスコートする役目を担う最中、見上げた夜空には真っ白な月が浮かんでいた。
「―――月が綺麗だなぁ、エージ」
何気ないふりを装って、その実声が震えてしまわないように気を付けながら、精一杯の勇気を振り絞って、ノラオは彼にそう伝えた。
ノラオが今日エージに伝えようと、心に決めていた言葉だった。
「……うん? ああ、そうだな」
頭がいいのに情緒的なことに疎い一面のあるエージは、ノラオの言葉に秘められた意味など全く介さずに、ただ何気なくそう返した。
そもそもノラオの気持ちに全く気付いていないエージには、その言葉の裏に隠された彼の真意になど気付けるはずもなかったのだ。
ノラオもそれを分かっていて、分かっていたからこそ、明日結婚をする彼へ、こういう形で最後に自分の想いを伝えるという選択をした。
文豪夏目漱石に端を発するという、遠回しな愛の言葉に変えて。
「本当に、月が綺麗だ」
―――あなたを、愛している。
「……? お前、そんなに風流なヤツだったか?」
小首を傾げる何も知らないエージに、ノラオはニカッと歯を見せた。
「オレは意外とロマンチストなんだよ。お前も少しはそういう感性を磨いとけ」
「オレはそういう方面はどうも……」
「知ってる」
だから使わせてもらったんだよ。
言外にそう紡いで、ノラオは明日結婚をしてしまう最愛の人へこう告げる。
「なぁエージ……お前は結婚したら嫁さんの実家へ入るわけだし、生活もガラッと変わって忙しくなるんだろうけど、スゲー時々で構わないからさ、オレのこともたまにはかまってくれよな」
軽い口調でなされた懇願に、エージは眼鏡の奥の涼しげな目元を和らげた。
「もちろん。オレもたまにはお前と息抜きしたいからな」
それに微笑み返しながら、ノラオは尋ねた。
「……なぁ。自分の苗字(なまえ)が変わるって、どんな感じ?」
「んー……そうだな、言うなれば新しい自分に生まれ変わる……っていう感覚かな。背負うものが増えて、責任も覚悟もこれまでとは全く違ったものになるっていうか……」
「喜多川英一郎っていう新たな人間に―――かぁ。……何かさ、オレからすると変な感じなんだよな。何ていうか、お前なのにお前じゃねぇみてぇ、っつーか」
「そうか? 世間的な呼び名が変わるだけで、お前にとっては何も変わらないと思うがなぁ。だって、そもそもお前にとってオレは最初からずっと『エージ』なんだから―――そう考えると何も変わらないよ、そうだろう?」
その何気ないエージの物言いが、「お前は特別だ」と、そう言ってくれているような気がして―――ノラオは目頭が熱くなるのを覚えながら、それをごまかすように口を動かした。
「はは、確かにそうだな。違ぇねえわ。……んじゃ、しばらくはなかなか会えなくなるだろうけど、お互いじーさんになって時間が有り余るようになったら、またしょっちゅう会って遊ぼうぜ」
「そうだな。それもきっと楽しいだろうな」
「……ああ」
わずかに瞳を潤ませながら、ノラオは意識的に口角を上げて、エージの腰の辺りを叩いた。
「―――そん時を、楽しみにしてる」
翌日、エージは結婚して「喜多川英一郎」となった。
他人の配偶者として誓いの言葉を交わすエージの後ろ姿を、ノラオは招待者席の一角から、じっと見つめていた。
*
それからしばらく経ったある冬の日―――白い息を吐きながら頬を紅潮させて、早足で待ち合わせの場所へと急ぐノラオの姿があった。
今日はノラオにとって、待ちに待った大切な日だった。
エージが結婚してから、初めて二人きりで外で会う約束をしていたからだ。
前回エージと会ったのは、彼に長男が生まれて、家に出産祝いを持って行った時のことで、もう半年以上も前のことになる。
その時は同居する奥さんの家族も一緒だったし、そう長居することも遠慮なしに話すことも出来ず、こうして気兼ねなく彼に会うことが出来るのは、実に独身の時以来だった。
会う約束をしてからこの日を指折り数えて待ちに待ち、前日はなかなか眠ることも出来ないほどだったノラオは、逸る心を抑えながら、約束の時刻の五分前に待ち合わせ場所へと着いた。
―――張り切り過ぎて、あんま早く着きすぎちまって変に思われてもいけねぇからな……。
腕時計で時刻を確認しながら、ノラオはそわそわとエージの到着を待った。
時刻に正確なエージは、だいたい約束の五分前には待ち合わせ場所へ来ていることが多い。まだ姿は見えないが、遅れてくることはないだろう。
―――けれど、約束の時間を五分、十分と過ぎても、エージが待ち合わせ場所に現れることはなかった。
あれ? オレ、日時とか場所とか間違えてねぇよな……!?
ノラオはそんな不安に駆られながら記憶を思い返してみたけれど、あれだけ楽しみにして、何度も何度もカレンダーを確認したことを鑑みて、それはない、と断定した。
―――もしかして、何かあったのか? まさか事故とか……。
ふと頭をかすめたそんな予感に、薄ら寒い思いがよぎる。
まだ携帯電話も、ポケットベルもなかった時代だ。
連絡手段としてあるのは、自宅や公衆電話などの固定電話だけ。
公衆電話は待ち合わせ場所から少し離れたところにあったけれど、この場から離れている間にエージが来て行き違いになるかもしれない、という思いと、彼の自宅が奥さんの実家で、そちらに電話をかけるということに少しのためらいがあった。
―――もうちっとだけ、待ってみよう。電話すんのはそれからでも遅くねぇし……。
冬の外気に晒されながら待ち始めて三十分経つ頃には、みぞれ交じりの雪が降ってきた。
「―――うわ。マジか……」
鼻の頭を赤くして白い息を吐きながら、曇天の空を見上げる。
エージに限って約束を忘れるなんてことは絶対にねえし、これは多分、何かあったんだ。事故とかじゃねぇといいんだが―――……。
そう思いながらなかなかその場所を離れられなくて、結局一時間待ち続けた後、冷え切った身体で公衆電話からエージの自宅へ電話すると、彼の義母が出て、エージは娘と一緒に子どもを連れて病院へ行っていると教えてくれた。
何でも子どもが急に高熱を出して、夫婦で慌てて休日の救急外来へ連れて行ったらしい。
「―――あなたから連絡があったら申し訳ないと伝えてほしいと英一郎さんから言伝(ことづて)を頼まれていたの。ごめんなさいね、前から約束をしていたそうなのに、急にこんなことになってしまって」
「―――いえ、そういう理由でしたら仕方がありませんから。こちらのことは気にせずお大事にと、英一郎に宜しくお伝え下さい」
電話口から聞こえてくる声にそう返しながら、今日はエージに会えないんだな、という実感が深い闇のように降りてきて、ノラオの全身を覆っていった。
―――事故に遭ったんじゃなくて良かった。エージ自身に何かあったわけじゃなくて良かった。
熱を出した子どもは可哀想だったが、小さい子にはよくあることだし、医者に診てもらって薬を処方してもらえれば、きっと数日で回復することだろう。
家族を大切にする、エージらしい選択だ。父親として、夫として、当たり前の選択だ―――。
頭では分かっていても、会えないというその現実に、気持ちがどうしようもなく堕ちていく。
エージには守るべきものがたくさん出来たんだ。仕方がないことなんだ。
オレは、その対象じゃないんだから。
オレは、エージの一番ではないんだから。
エージの一番には、なれなかったんだから。
「―――〜〜〜ッ……」
分かっていたはずなのに、込み上げてきたやりきれない想いが決壊して、熱い涙が冷え切った頬を伝っていった。
会いたくて会いたくて、傍にいたくて、いてほしくて、愛されたくて、愛してほしくて、諦めて、諦めきれなくて、ごまかして、なだめすかして、我慢して我慢して、いっぱいいっぱいに張り詰めていた気持ちが、その一瞬で溢れてしまった。
―――何やってんだ、オレ……。バカみてぇ……。
失意のまま、完全に雪に変わった冬空の下を交通機関を使わずに歩いて自宅まで戻り、虚ろな気持ちで朝を迎えた時には、身体が異常をきたしていた。
―――あー……風邪ひいた……身体、だりぃ……。
健康でそれまであまり風邪もひいたことがなかったノラオには、久々の感覚だった。
一人暮らしのアパートに体温計や常備薬はなく、正確な体温は分からなかったものの、かなりの高熱が出ているらしく、身体の節々が痛んで、ひどい喉の腫れと痛みを感じた。
―――マジ最悪だ……。
気怠い身体を起こして、会社に体調不良で欠勤する旨を連絡すると、電話を受けた同僚からひどく迷惑そうな声で「お大事に」と形式的な言葉を返され、余計に気分が悪くなった。
一人休むとその分のしわ寄せが来てしまうのは事実だし申し訳なくもあったが、その態度は人としていかがなものか。
―――そもそも日本人は、働き過ぎなんだよ!
ノラオが働いていたこの時代は週休一日、会社員だと日曜日だけが休日というのもまだ当たり前のご時世で、有給休暇はあっても名ばかりの制度で、病欠した時なんかにそれが消化されるだけで、残りはみんな捨てているのが実情というような、今ではとても考えられない労働環境だった。
欧米の人達からは「日本人は働きアリ」なんて揶揄もされていたらしい。
―――とりあえず今日一日寝てりゃ、明日には熱も下がんだろ。
健康に自信があったノラオはこの時は体調不良をあまり深刻には捉えず、布団の中にくるまって目を閉じた。
彼としては、それよりも精神的な疲弊の方がよほどダメージとして大きかったのだ。
そのせいか、短い眠りの合間合間に嫌な夢ばかり見てうなされ、ひどい寝汗をかいては目を覚ますことを繰り返した。
その悪夢は決してエージに手の届かない夢、色んな観点からそれを思い知らされる夢、それからしばらく見ることのなかった、実家関連の夢が多かった。
エージが結婚してほどなく弟の武雄も結婚が決まり、否応なしにその式に出席した時、必然的に顔を合わせることになってしまったほぼ絶縁状態の父親は、お前もいつまでもフラフラとせず武雄を見習って早く身を固めるように、と予想通りの言葉を突きかけてきた。
手堅い会社に就職して配偶者を娶(めと)り、子どもをもうけ、石動家(いするぎけ)の血を途絶えさせることなく、次なる世代へと伝えていくことこそが男としての一番の務めだと信じて疑わない父親は、今回弟の武雄が相手の家に入ることもあって、長男であるノラオに家名を背負ってその役を全うしてもらいたいという思いが一層強くなっていた。
式の待ち時間の合間に両親が持参してきていた見合い写真を見せられた時には、辟易した。
同性で既婚者のエージにずっと片想いをしていて、その彼を未だに諦められずにいるなんて、口が裂けても言えるわけがない。
父親からしたら、皆が当たり前のようにそうしていることがどうしてお前には出来ないんだ、という気持ちなんだろう。
そういう意味ではオレは出来損ないで、エージに惚れててこれからも子孫を残す気がないんじゃあ、この先生きていたところで実を成さない、価値もない人間なのかもしれない。
何の生産性もないオレは、父親みたいな人間からしたらきっと、社会のゴミに等しいんだろう。
だとしたら、オレは―――オレは―――……。
何の為に、生きているんだろうな?
誰にも心から必要とはされていないのに。
どうして、生まれてきちまったんだろうな―――?
夕方になって、ほとんど鳴らない家の電話が、珍しく鳴っていた。
多分、仕事を終えたエージが昨日のことを詫びに電話を掛けてきたんじゃないかと思ったけれど、それを取る気になれなくて、ずっと布団を被ったまま、ただけたたましいその音を聞いていた。
時間を置いて何度もかかってきたその電話を、結局ノラオは一度も取ることをしなかった。
完全に拗ねたところに体調不良が重なって、深刻な自暴自棄に陥っていたのだ―――。
*
ノラオの体調不良はそこから改善することなく、日々悪化の一途をたどっていった。
―――何だ、コレ。ただの風邪じゃねぇのか……?
いっこうに回復の兆しを見せない体調にそんな思いが頭をかすめたものの、バスや電車を使って自力で病院へ行くのはもはや不可能なくらい、体調が悪かった。
タクシー呼ぶか? ―――いやダメだ、番号が分かんねぇ……。
普段からあまり物が入っていない冷蔵庫は既に空で、米びつに米だけはあったものの、そもそも食欲も体力もなかったから、自炊しておかゆを作るという気にもなれなかった。
食欲がなくても食べないとまずいよな……そうは思うものの、身体が辛くて、昨日あたりから水しか飲めずにいる。
欠勤が丸々一週間に達すると上司から電話がかかってきて、来週も来れないようならやめてもらって構わない、と事実上のクビを通告された。
こっちだって好き好んで休んでいるわけじゃねぇ! 本当に体調不良なんだと電話の声からも分かるはずなのに、そりゃあちょっと横暴じゃねぇのか―――!
頭の中でブチ切れながら、そういえばこの上司のお気に入りの女子社員から告白されて断ったことがあったな、と頭の片隅でふと思い出す。
そこからこの上司の当たりがキツくなった気配はあったが、まさかその仕返しも含まれているんじゃねぇだろうな―――そんな疑惑が胸に湧いたものの、咳込んでろくに喋ることが出来ず、弱り切ったノラオにはそこを詰めるだけの体力も気力もなかった。
おじいちゃんから聞いた話によると、実はこの時ノラオは風邪ではなくインフルエンザを患っていて、それが肺炎に転じかかっていたのだけれど、医療機関へかかっていない彼がそれに気付くことは出来なかった。
相当具合が悪い自覚はあったものの、それでもノラオは県外にある実家や、離れて暮らす結婚したばかりの弟を頼る気にはなれなかったのだ。
その根底には、この状態を父親に知られることは絶対に避けたいという思いがあった。
それに、他人を煩わせるくらいなら自分が耐え忍べばいいという、幼い頃から培われた長男気質もあった。
けれど、体調を崩して十日目に入ると、とうとう満足に呼吸も出来なくなり始め、リアルな死の影が彼の脳裏をかすめた。
さすがにマズい、と思って、最後の選択肢、救急車を呼ぼうと身体を起こしかけたその時―――視界が暗転して、気が付いた時には、床に倒れてしまっていた。
目の前に電話機が見える、あの受話器を上げて、119をダイヤルしないと―――そこへ必死に腕を伸ばそうとしながら、あの電話が何度も何度も時間を置いて鳴っていたあの光景を思い出した。
何度も何度も、時間を置いて鳴っていたあの電話。なのに、頑なに受話器を取ろうとしなかった自分―――その時の光景を思い出して、涙が溢れた。
次の日もまた次の日も、夕方過ぎに何度も何度も鳴っていた電話。
あれはきっと、エージからの着信だった。
きっとエージが約束を守れなかったことを詫びようと、寒い中待たせてしまったに違いない自分を心配して、何度も何度もかけてきてくれていた。
あの時変な意地を張らずに電話に出ていたら、エージの声が聞けたのに。
ずっとずっと聞けていなかった、エージの声を聞くことが出来ていたはずなのに。
大好きな、あのエージの声を。
―――エージ、エージ……! もう一度、お前に会いたい。
その想いが、胸に溢れる。
会って、詫びたい。何度も何度もかけてきてくれたのに、電話に出なくてごめん、と。
ちょっと拗ねていただけなんだ、会えると思ってスゴく楽しみにしていたのに、会えなかったから、悲しくて、やりきれなくて、拗ねていただけなんだ。
大人げなくて、ごめん。
でもそれだけお前に会いたかったんだ、お前のことが大好きで大好きで、たまらなかったんだ。
―――エージ、愛している。
ずっとずっと、お前だけを愛している―――。
白んでいく視界に電話機を映しながら―――ノラオの意識はゆっくりと遠ざかり、そしてそのまま、彼は二度と目を覚ますことがなかった。
ある冬の朝。外からは、近くの高校へ登校する生徒達の明るい声が聞こえていた―――。