「―――ごめん、遅くなって。ちゃんと阿久里さんと話をつけてから陽葵(ひま)と話したいって、そう思ったから……」
夏の濃い夕焼け色に染まる公園。
最寄り駅からずっと走ってきたらしい蓮人くんは、肩で息をつきながらそう言った。
そんな彼にあたしは涙がこぼれてしまわないよう頬を持ち上げながら、ゆっくりと尋ねた。
「……蓮人くん、いいの?」
何を、とは言わなかったけれど、蓮人くんは頷いて、少しはにかんだ表情を見せた。
「うん。……これがオレのタイミング。まさか呼び方のことで、あんなふうに穿った見方をされるとは思ってもみなかったから……ごめんね、オレのせいで嫌な気持ちにさせて。変なことに巻き込んじゃったのは、オレの方だった。まさか、阿久里さんが……」
そこで言葉を途切れさせた蓮人くんは、少し間を置いてからためらいがちにこう切り出した。
「……。知らなかったんだけど―――その、阿久里さん、オレのことを好きでいてくれたみたいなんだ」
うん、知ってる。
心の中で頷きながら、あたしは蓮人くんの言葉の続きを待った。
「……一年生の時、阿久里さんが身長のことで先輩達に陰口を叩かれている場面に遭遇したことがあって―――オレ自身も身長が高いし、何人かでわざと聞こえよがしにそういうことを言っている先輩達にもいい気分がしなかったし、一人肩を内側に向けてうつむいている彼女が気の毒に思えて、『好きで背が高いわけじゃないのにね』って声をかけたことがあったんだ」
控え目だけど芯がしっかりしている、優しい蓮人くんらしいエピソードだ。
「どうやらその時のことは、彼女がとある先輩の告白を断ったことに原因があったらしいんだけど―――オレの横槍を受けた先輩達は文句を言いながら気まずそうに立ち去っていって、それがきっかけで、そこから時々彼女と話すようになったんだ。……何か、彼女はその時からオレに好意を抱いてくれてたみたいで」
―――いや、それは好きになるでしょ!
あたしは思わず、心の中で拳を握りしめた。
それはかなりの確率で好きになるよ、女子はそうだよ!
「それで―――オレが岩……陽葵(ひま)と最近仲良くなったことが彼女としては気掛かりだったというか、面白くなかったみたいで―――オレ達を引き離したいと思っていたところに小柴くんの陽葵(ひま)への気持ちを知って、近付いて、今回の件に至ったみたいなんだ」
「……もしかして同じ委員会に入ったのも、蓮人くんと一緒にいたかったから?」
そう尋ねると、蓮人くんは少し苦しそうな顔になって視線を落とした。
「……。もしかしたら、そうだったのかも……考えたこともなかったけど」
「蓮人くんは、阿久里さんの気持ちに今まで気付いてなかったの? 何かそれっぽいのを感じることって、なかった?」
それに蓮人くんは少し考えてからこう答えた。
「特にそういう雰囲気を感じたことはなかったけど―――そういえば一度だけ、弟さんの誕生日プレゼントを選ぶのに付き合ってほしいって頼まれたことがあって―――今にして思うと、それがそうだったのかな」
それ、絶対にそう―――! 弟の誕プレ選びなんて、そんなの口実に決まってるじゃん!
もしかしたらそれがあれかな、前に阿久里さんと駅前で待ち合わせてた、あの時の約束かな!?
多分蓮人くんが気にしていなかっただけで、あたしが耳にしたような「キスするのにちょうどいい身長差」発言とか、阿久里さん的にはきっとたくさんのサインを蓮人くんに送っていたんじゃないかなって思う。
遠回しにいっぱい送られていたはずのそれに微塵も気付いていなかったという自己評価低めの蓮人くんが、今は阿久里さんの気持ちを認識しているっていうことは、それはつまり―――。
「……阿久里さんに告白、されたの?」
怖いような、でも確かめずにはいられないような気持ちになってそう聞くと、蓮人くんは一瞬動揺を見せた後、気持ち頬を赤らめながら頷いた。
「……うん。でも、ごめんって、そう言った」
……良かったー!
あたしは思わず胸を撫で下ろした。
人の失恋を喜んではいけないけど、でも、それが率直な気持ち。
前に蓮人くんに好きな芸能人のタイプを聞いた時、清楚系の人気俳優さんの名前をあげていたこともあって、中身肉食系でも阿久里さんは見た目清楚系の美人だし、長身の蓮人くんと並ぶとそれが映えて、高身長の正統派美形カップルという感じで、傍目的にはスゴくお似合いだったから、どうしても意識せずにはいられなかったし、正直引け目を感じずにはいられなかった。
―――ごめん、阿久里さん。
わずかな罪悪感と安堵とを覚えながら、明日は我が身かもしれないと気持ちを引き締め直しつつ、さっき勝手に思い描いてしまった告白を断る蓮人くんのイメージを思い出さないように努める。
「阿久里さん、落ち着いたら陽葵(ひま)や小柴くんに謝りたいって言ってた。……その時は、話を聞いてやってもらえる?」
「……うん。ちゃんとそう思ってくれているんなら、聞くよ。小柴はカッカしやすいけど根は単純だから、阿久里さんがちゃんと反省している態度を見せてくれたなら、割と素直に受け入れるんじゃないかなって思う」
そう言ってちょっと笑うと、蓮人くんはホッとした顔になった。
「うん……そうだね。陽葵(ひま)にそう言ってもらえて、良かった」
陽葵(ひま)。
改めて―――柔らかな口調で紡がれる、解禁されたばかりの愛称呼びが、たまらなくくすぐったい。
それに幸せを感じてほんのり頬を染めながら、あたしは蓮人くんに先程のおじいちゃんからの電話の件を切り出した。
「―――あの、蓮人くん。話は変わるんだけど、実はさっきおじいちゃんから電話があって―――」
「おじいさんから? もしかして例の名簿の件?」
「うん。そうなんだけど、ちょっと想定外のことがあったっていうか―――」
「想定外のこと?」
「うん。名簿自体はひいおじいちゃんの遺品の中から見つかったらしくて、綺麗にしまわれていて保存状態も良かったから、閲覧するのに差し支えなかったって―――だから、冷たくなっているノラオを管理人さんと一緒に発見したっていう友人の名前も問題なく確認出来たらしいんだけど」
「! エージさんのことが分かったの!?」
大きな反応を見せる蓮人くんに、あたしは静かにかぶりを振った。
「その人、エージって名前じゃなかったの」
「! 第一発見者の友人とエージさんは別人だった、っていうこと?」
「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。蓮人くんがここへ来るまでの間、ずっとそれを考えていたの。それを蓮人くんに確かめてみないといけないって」
「……!? どういうこと……?」
困惑する蓮人くんに、あたしはおじいちゃんから聞いた第一発見者の友人の名前を告げた。
「名簿にあった第一発見者の友人の名前は、喜多川英一郎(きたがわえいいちろう)。―――蓮人くん、もしかしたら、心当たりのある名前だったりしない?」
それを聞いた蓮人くんは、眼鏡の奥の綺麗な瞳を愕然と見開いた。
「―――父方の祖父と、同じ名前だ。今は施設に入っている祖父と―――……」
―――蓮人くんの、おじいちゃん!
繋がった! ノラオと、蓮人くんの関係が!
「えっ―――つまり、オレの祖父とノラオが友人関係だったっていうこと? じゃあ祖父とエージさんももしかしたら友人関係にあったっていうことに……?」
額を押さえながら状況を整理しようと努める蓮人くんに、あたしは緊張で胸が苦しくなるのを覚えながら、自分の考えを口にした。
「―――蓮人くん、あたし思ったんだけど。ノラオは喜多川英一郎っていう名前を聞いても、何だかピンと来ていない感じなの。なのに、スゴく動揺しているし混乱しているのが伝わってくるの。何か、普通じゃない感覚なの。それにエージと蓮人くんはスゴく似ているって―――だから、あたし思ったんだけど。蓮人くんのおじいちゃん、あたしのおじいちゃんみたいに苗字が変わったりしていないかな? あたしのおじいちゃんも苗字が変わっていて、それでノラオは最初ピンときていなかったのかなって、そう感じた部分があったから」
「えっ―――それは祖父がエージさんかもしれないってこと? でも、そもそも名前が」
戸惑う蓮人くんに、あたしは自分の胸の辺りのシャツをぎゅっと掴んで、必死で訴えた。
「そうなんだけど! 普通に考えたら有り得ないって思うんだけど、でも、第六感的なものがどうしても引っ掛かるの! 上手く説明出来ないんだけど、スゴく胸が急いて、確かめなきゃって気がしてて―――」
あたしの剣幕に言葉を飲み込んだ蓮人くんは、とりあえず頷いてくれた。
「……分かった。どっちにしろ祖父とノラオに繋がりがあったことは事実だろうし―――まずは親に確認してみるよ。祖父の苗字が変わっているのかどうか、オレはその辺りの情報を持ち合わせてなくて―――この時間なら父親はまだ仕事中だろうけど、母親の方はもう仕事が終わってる頃合いだろうから」
スマホを取り出してその場でお母さんに確認の電話をしてくれた蓮人くんは、不審がるお母さんに適当な理由をつけておじいちゃんのことを聞き出してくれた。
「―――陽葵(ひま)の勘、もしかしたら当たってるのかも。知らなかったけど、父方の祖父も祖母の家に婿入りして苗字が変わってたみたいだ。旧姓は神代(かみしろ)だって。神代英一郎(かみしろえいいちろう)」
―――神代英一郎。
その、瞬間。
深層意識の底にあった暗闇が一斉に音を立てて砕け散り、全方向から差し込んだ白い光に凄まじい勢いで塗り替えられていくような錯覚に、全身が粟立った。
閉ざされていたノラオの記憶が溢れ出して、あたしの中に凄まじい勢いで流れ込んでくる。怒涛のような記憶の奔流に押し流されて溺れてしまいそうになり、あたしの口からは無意識に喘ぐような呼吸が漏れた。
「! 陽葵(ひま)!?」
異変に気付いた蓮人くんが、瞬きを忘れたまま小刻みに震えて立ち尽くすあたしの身体を支えてくれる。
そのぬくもりに縋るようにしながら、あたしの意識はノラオの記憶の只中へと飲み込まれていった。