築五十年はゆうに越えているだろうその古い古い二階建ての木造アパートは、誰も住まなくなってからかなりの年月が経過したまま放置されていて、腐食して今にも崩れてしまいそうな外階段や、黒ずんだ外壁にまとわりつくように生い茂ったツタが不気味で、その外観からこの界隈ではちょっとした心霊スポットとして知られていた。
最寄り駅から学校へ行く道中にあるこのアパートの前をあたしはどうしても通らねばならず、暗くなってからここを通るのは正直かなり怖かったから、取り壊し工事が始まったことにこの時はただただホッとしていた。
ようやくかぁ〜……遅いくらいだっつーの! でも、これでやっと怖い思いをせずにこの道を通ることが出来るようになるぞぉ! マジ不気味だったし、あー良かった。
通学の足を止めて工事風景を眺めていたあたしは、重機がアパートの外壁を壊していく様子を目にしながら、再び歩き出そうとした。その時だった。
―――ヒュワッ。
「―――!?」
にわかに空気を裂くような音が耳をかすめて、それと同時に何かが勢いよくこちらへ迫ってくるような気配を感じたあたしは、とっさにその何かから身を守ろうと、自分の両手を顔の前にかざすようにして防御の姿勢を取った。
肩甲骨の辺りまである自分の栗色の髪が突風のような煽りを受けてたなびき、あたしは思わず目をつぶりながら、せっかく今日はいい感じのゆるふわに決まってたのに〜! なんて危機感のないことを考えてしまう。
次の刹那、顔の前にかざしていた両腕をすり抜けた“何か”が、自分の上にふわりと重なるような、そんなひどく不思議な感覚があって、これまでにないその感覚に、鼓動が慄きにも似た音を立てた。
胸にひやりとした余韻が走り、あたしは小さく身体を強張らせる。
―――え……!?
それは一瞬の出来事で、でも確かに自分の身に起きたと感じることで、あたしはぎゅっと閉じていた目をおそるおそる開けて、自分の身体を確認してみた。
……? 見た感じ何ともなっていないし、特に痛くもない……?
ゆっくり身体を動かしてみるけれど、やっぱりどこにも異常はないみたいだった。
目の前にはさっきと同じ工事の風景が広がっているだけで、通学路で突然一人挙動不審な動きを始めたあたしを、同じ高校のブレザーに身を包んだ生徒達がかなり怪しげな眼差しで遠巻きに見つめていた。
これまで受けたことがないような奇異の眼差しを一身に受けて、あたしは全身がカーッと熱くなるのを覚えた。
うわ、引くくらい悪目立ちしている!
あまりにも恥ずかし過ぎて、今しがたの出来事を不思議に思う気持ちよりも、この場にいたたまれない気持ちの方が勝る。汗ばむような羞恥に苛まれたあたしは、ダッシュでその場を後にした。
あ〜もう、最悪―――! 恥っず! 何なのもう〜! 朝から超サガるんだけど!?
頭の中でそんな言葉の羅列を並べながら、一方で、どこか冷静に現実を受け止めて、さっきの感覚は何だったんだろうと首を傾げている自分もいた。
これがまさか、あのとんでもない騒動の始まりだったなんて―――この時のあたしには、思いも寄らなかったのだ。
*
はぁ……何だったんだろ、さっきの……。
朝から散々な目に遭ったあたしは、重い溜め息をつきながら2ーAと書かれた教室のドアを開けた。
突風みたいなのを受けた後、何かするん、ふわって……上手く説明出来ない感覚だったなぁ。気のせいじゃないと思うんだけど、でも、あの後特に変わったこともないし―――工事の関係で突如発生した変則的な風? みたいなのが吹きつけてきただけだったのかなぁ……。
「おっはよ〜、陽葵(ひま)」
悩めるあたしに友人の紬(つむぎ)が明るい声をかけてきた。
あたしのフルネームは岩本陽葵(いわもとひまり)。仲のいい子からは「陽葵(ひま)」って呼ばれている。
「おはよ、紬」
立ち止まって挨拶を返したその時、ちょうど後ろから来た男子とカバンがぶつかってしまった。
おっ……と。
軽くよろめいて相手を確認したあたしは、次の瞬間、思わずぎょっとして、自分の目を疑った。
「あ、悪い岩本さん」
そう謝ってくれたのは同じクラスの喜多川くんだった。細身で背が高く、緩いクセのある黒髪に知的な眼鏡といった見た目の通り頭がいいらしい。物静かなグループに所属していて、同じクラスだけどこれまであまり喋ったことはなかった。
そんな彼にあたしがぎょっとしてしまったのは、何故か視界に映る彼の顔が、まるでスポットライトでも当てたかのようにキラキラ輝いて見えたからだ。
えっ、何、これ? 何か視界がおかしいんだけど。
あたしはこれでもかというくらい目をまん丸にして、彼の顔を凝視した。多分向こうからしたら、スゴく間抜けな顔をしていたんじゃないかと思う。
でもあたしにはそんなことを気にしている余裕がなかった。
だって―――だって、目に映る喜多川くんが何でか、神々しいまでの輝きを纏って、キラキラと煌めいて見えていたんだから!
いったいナゼ!? 何度か瞬きしたけれど、謎のキラキラは収まらない。
キラキラっていうか、あれだ、お母さんが読んでた昔の少女漫画、あれに出てくる美少年の背景効果みたいな感じっていうのかな、バックに花とか背負ってスッゴいキラキラを強調した感じで出てくるあれが現実の生身の人間に起こっている感じと言えば分かってもらえる!?
それがろくに喋ったこともない、ただのクラスメイトの喜多川くんに起こっているから、ビックリし過ぎて固まってしまってるワケ!
いや、決して喜多川くんをおとしめているワケじゃなくて、何の交流もない彼がそんなふうに見えてしまう自分自身のこの状況にとにかくビックリしているっていうか!
無言でしばらく見つめ合った後、妙な顔をしたまま固まっているあたしからそっと視線を外した喜多川くんは、そのまま脇を通り過ぎて自分の席へと歩いて行った。
その様子を見ていた紬がニヤニヤ笑いながら、面白そうにあたしの顔を覗き込んできた。
「なーに陽葵(ひま)、朝から感じ悪〜い。喜多川と何かあったの?」
そこで初めて我に返ったあたしは、ハッと紬に視線をやってから、慌てて喜多川くんを振り返った。
あっ……そうだよね、あたし今、スゴく感じ悪かったよね!
喜多川くんは謝ってくれたのに何のリアクションも返さないまま、ただただガン見するとか……うわぁ、有り得ないわ。サイテーじゃん。
しかしながら問題の現象は未だ収まらず、席に着いた彼の後ろ姿ですらキラキラ後光が差しているように見えてしまう。
―――何なの!? このキラキラフィルター現象は!?
あたしは大いに戸惑いながら、ぐるりと他のクラスメイト達を見渡してみた。
紬も、他の女子も男子も、いつも通り変わらず普通に見える。なのにやっぱり、喜多川くんだけがキラキラ輝いて見える……!
―――ナゼ!?
突然の怪現象に見舞われてしまったあたしは、一人盛大に頭を抱えた。
マジで意味分かんないんだけど!?
岩本陽葵(いわもとひまり)十六歳、高校二年の春の終わり―――なぜか突然、ただのクラスメイトの一人がキラキラ輝いて見えるようになってしまいました―――。