父の代からこの屋敷と私を支えてくれているみんな、それ以上に大切なものはないと悟ったからです。
大怪我を負ったハドルがドルクさんに傷を治していただいたことを知ったフレイアさんは何故か動揺を隠せない様子で、何とも言えない表情になりドルクさんとハドルとを見比べていました。
「そうなんだ……エリスはそれ、見たの?」
「はい、この目で! もう……もう、ひどく驚きました! この世の光景とは思えなくて……!」
「そ、そうだよねぇ。驚いただろうね、そんなの見ちゃったらさ……何となく、エリスに見せてはいけない光景だったような気がするなぁ」
「何故ですか? とても衝撃的で、私、感動致しました!」
「エリスの口からその感想が出てくることが、わたしには衝撃的だよ……」
フレイアさんの傍らで背を向けているドルクさんの肩が小さく揺れているような気がします。気のせいでしょうか?
「エリス様、お湯の用意が出来ましたから湯浴みに行ってらして下さい」
マリーがそう声を掛けてくれました。私の身体もワンピースもハドルの血に染まっていたので、彼女が急ぎ湯を沸かしてくれたのです。
「お嬢さん」
廊下に出た私をハドルが追ってきました。立ち止まり振り返った私の前で彼は足を止め、自分の血がこびりついた私の姿を見やり、申し訳なさそうに口を開きました。
「……悪かったですね。オレの血で、こんなに汚れてしまって」
「何を言っているの? 謝るのは私の方です、ごめんなさい、私がいたらないばかりにお前をひどい目に遭わせてしまって」
私は腰を折って、深々とハドルに頭を下げました。
「叔父があんな暴挙に出るとは、夢にも思っていませんでした。私のその認識の甘さが、当主としての怠慢が、お前を傷付けてしまった……本当に……ごめんなさい」
ハドルが死んでしまうかもしれないと思ったあの瞬間を思い出すと、今でも身が竦みます。あんなに怖い思いは……もう二度と、したくない。
うつむいて涙ぐむ私にハドルが言いました。
「顔を上げて下さい、オレ自身にも反省すべき点はあったと思うんで。あんたにそんな真似をさせてしまうのは……心苦しい」
顔を上げた私の視界に、乾いた自身の血にまみれたハドルの姿が映ります。全身血で汚れた―――でも生きて、そこに自分の足で立っている、彼の姿。立ち上がることも出来ず苦痛に歪んでいた顔も今はいつもの表情に戻り、静かに私を見つめています。
ハドルを失わずに済んで、本当に良かった―――私が心からそう思った、その時でした。
おもむろにハドルが腕を伸ばし、私を抱き寄せたのです。
一瞬、何が起こったのか、理解出来ませんでした。
「ハッ……」
一拍置いて、驚きの声を上げかけた私の肩に額を乗せるようにして、ハドルは苦しげに言いました。
「倒れたオレをあんたが抱き起こすようにしてくれた時―――オレの血で汚れた顔で、泣きながらオレの顔を覗き込むあんたを見て、正直、これがこの世で見る最後の光景になるのかと思った―――」
「ハドル……」
「このままオレの意識が途絶えたらあんたはどうなるのか、どうなってしまうのか、気がかりで、心残りで、死んでも死にきれねぇって―――ホント、それが、すっげーキツかった……」
あの時……あんなにひどい傷を負いながら、そんなにも私のことを案じてくれていたの?
「頼むから、ああいう時は逃げて下さい。オレももう二度とあんな目に遭うつもりはないですけど、この先、何が起こるか分かりませんからね……」
「そんなの無理よ……! 私だって、このまま私が逃げたらお前がどうなってしまうのか、気がかりで、どうしようもなくて、お前にもしものことがあったら後悔しても後悔しきれないから、だから、逃げられなかったんじゃない! 大切な人間を想う気持ちは一緒よ! 主人も使用人も関係ないわ!!」
ハドルは私の肩から額を離して、どこか切なげな表情になり口元をほころばせました。
「オレ、あんたのそういうところ好きですよ。でもね、これはオレのワガママなんですが……あんたが傷付くのは、見たくないんです。だから、頼みますから、ああいう時はどうか自分の身の安全を優先させて下さい。魔眼の王子様と違って、オレは泥臭いやり方でしかあんたを護ることが出来ないから」
「お前はお前よ、ハドル。お前はお前なりに私を護ろうとしてくれたじゃない」
「でも、護りきれなかった」
ハドルの亜麻色の瞳に苦い光が浮かびます。何だかこれでは、前回のやり取りの繰り返しになってしまいそう―――私は頭を巡らせ、ひとつ思いついたことを提案しました。
「じゃあ、これからでいいから私を護れるくらい強くなって、ハドル。今度どなたか先生を呼んで、みんなで護身術を習いましょう! ね、それがいいわ!」
それを聞いたハドルは一瞬目を瞠った後、小さく吹き出しました。
「その案、いいですね。乗りましょう。オレ、頑張りますよ。―――ところで……あんたはどうしてあのタイミングであんな場所にいたんですか?」
そういえばそうだったわ、私、ハドルともう一度ちゃんと話をしたいと思って、彼のもとを訪ねたのだった。
「あ、それはね―――あの時のこと……私の言い方が悪くてお前を傷付けてしまったことを謝りたくて……もう一度、きちんと話をしたくて」
「あんな時間にわざわざ、その為に?」
「ええ、そうよ。だって気になって眠れる気がしなかったんだもの。でも、今日はもう遅いし、明日にでもまた話すことにしましょう。時間、空けておいてくれる?」
「―――ええ、もちろん」
ハドルは頷いて、ふわっとするような、初めての笑顔を私に向けてくれました。
まあ……ハドルって、こんな顔をするのね。胸が温かくなるような、何て柔らかな笑顔……。
「長々呼び止めて、すいませんでした」
「いいのよ、ハドルも早く身体を清めて休んでね」
「……おやすみなさい」
別れる寸前、ハドルの唇がそっと私の額に落とされました。
えっ……?
驚いて、その場に硬直する私を振り返ることなく、ハドルはそのまま立ち去っていきました。
何、今の……? おやすみのキス……? でもそんなの、今まで一度だってしてきたことがなかったのに。
一人残された私の頭の中は混乱して、さっきまでのハドルとのやりとりがぐるぐると回りました。
あんなふうに抱き寄せられたのも初めてだったわ……小さい頃はくっついて遊ぶこともしょっちゅうあったけれど、お互い成長してからは当然ながら、そんなことはなくなったものね。
にょきにょきと背ばかり伸びて、と思っていたけれど―――知らなかったわ。いつの間にか、胸もあんなに広くなって……驚いたわ、私がすっぽりと入ってしまった。ハドルの胸、がっしりとして、大きくて、温かかった……。回された腕も、とても力強くて―――。
「―――い、いやだわ……」
ハドルの温もりを思い出して頬を染めている自分が何だかいけないことをしているような気がして、急にとても恥ずかしくなりました。私はそれを振り払うかのように、足早に湯浴みへと向かったのです。
何だか、変。
胸がドキドキして、おかしな感じです―――。
*
「わあ、スゴく綺麗に仕上がってる! ありがとう!」
翌日、マリーが完璧に仕上げてくれた白いシャツを羽織り、フレイアさんは満足そうな笑顔を見せてくれました。その傍らには支度を整えたドルクさんが立っています。
「お二人には何から何まで、本当にお世話になりました。それこそ感謝してもしきれません……私共でお力になれることがありましたら、いつでも、何なりとお申し付け下さいね。また近くにお越しの際は、ぜひお顔を見せにいらして下さい」
「こちらこそお世話になったね。エリス、元気で」
そう言ったフレイアさんは私に顔を近づけて、こっそりと言い足しました。
「もやもやが解消されるよう、祈ってる」
「はい、ありがとうございます」
そう言われると何だかくすぐったいわ。あれから何となく、私、変なのです。
妙にハドルのことが気にかかって……そのせいか、今日は何だか彼のことが眩しく感じられて戸惑ってしまいます。今も背後に控えている彼の視線が気になりますし……。
そんな気持ちを押し隠し、私はドルクさんに声を掛けました。
「ドルクさん……私とハドルを助けて下さって、ありがとうございました。あなたがいらっしゃらなければ、どうなっていたことか……いくら感謝してもし足りません。本当に、ありがとうございました……! このご恩は、一生忘れません」
私の王子様―――そう思った方。圧倒的な強さで私達を救って下さった、魔眼と呼ばれる稀有な存在―――。
ドルクさんは王子様然とした綺麗なお顔で、少し口元をほころばせ、こう仰いました。
「あなたは多分、引きが強いんだな。オレ達はここに呼ばれた流れの中で自分達の気が赴くまま行動をしただけで、それが今回の結果に至ったに過ぎない―――だからそんなにかしこまる必要はない。こちらとしても珍しい彼女の姿が見れて、非常に有意義だったし」
見ているこちらもドキリとするような流し目を送られて、フレイアさんが頬を上気させます。
その様子が何だか微笑ましいわ。初めてお目にかかった時はお二人は仕事の上下関係にあるのかと思ったけれど、違っていました。見ているだけで関わりの深さが感じられる絆のようなものが、お二人の間にはあります。
「そうだわ、お二人はダハタ地方へ行かれるご予定などあります?」
私の問いかけにドルクさんとフレイアさんは顔を見合わせて頷きました。
「トラッサ地方(ここ)での仕事があらかた済んだら今度はそっちの方へ向かおうと思っているけど……」
「そうなのですね! では、宜しければこちらをお持ち下さい」
私は封書に入ったチケットをフレイアさんに手渡しました。
「ダハタの中心都市ダハールで最近とても評判だというお店のチケットを知人からいただいたのですけれど、私、そちらへ行く用事がないものですから……宜しければどうぞ」
「え? いいの?」
「はい! せっかくいただいたものを使わないのももったいないですから、ぜひお使いになって下さい」
「ありがとう」
受け取っていただけて良かったわ! あれだけお世話になったのに、お二人共私共の用意したお礼を受け取って下さらなかったから、少し心苦しかったのです。
そして私達に大きく手を振り、ドルクさんとフレイアさんは屋敷を後にしたのです。
―――行ってしまわれた……。
屋敷の者全員でお二人をお見送りした後、ハドルからドルクさんの年齢を聞かされた私は、思わず驚きの声を上げてしまいました。
「えっ、21歳!? そ、そうだったのですか!?」
「オレもそれを聞いた時はビックリしましたよ……あんな可愛い顔をした人が、まさか年上とは思いませんでしたから」
昨日の約束通り、時間を空けて話し合いの場を持った私達は、庭の一角にあるベンチで顔を合わせていました。
「外見で決めつけてはいけませんね……何事もご本人に確認してみないことには分からないものですね」
「あの人はまた特別な感じがしますけどね……年齢もそうですけど、まさかの魔眼でしたし、まだ何か引き出しがありそうな感じがするなぁ。強いはずだよ、戦闘職の最高峰だもんなぁ」
「魔眼という存在を私は昨日初めて知りましたけど、非常に稀有な方達なのですってね」
「オレも噂程度にしか知りませんが、意思を持つ武具に使用者として認められたひと握りの人達らしいですよ」
「そんな方に助けていただけたなんて、私達、とても幸運だったのね」
そう言ってハドルを見上げると、優しい亜麻色の瞳にぶつかって、自分の鼓動がとくん、と跳ねるのを覚えました。
「あの人が言っていた通り、うちの主人はかなりの強運の持ち主と言えるんじゃないですかね」
「―――だと、良いのだけれど……」
いやだわ。頬が、勝手に熱を持って……。
「さて。そろそろ本題に入りますか?」
悪戯っぽく言って、ハドルが私を促します。頷きながら、私はフレイアさんの助言通り、あの夜彼女に話したことを素直にそのまま唇に乗せて、ハドルに話し始めました―――。
緩やかな風が、柔らかく私達の髪をなでていきます。
穏やかに流れる午後の刻(とき)―――それは、魔眼の王子様がくれた時間。彼がいなければ失っていたであろう、心和らぐかけがえのないひと時―――。
これから、何かが変わっていきそうな予感がします―――。
<完>