魔眼 私の王子様

01


 私(わたくし)、エリス・クランティ18歳。

 トラッサ地方のとある田舎町を治める地主の一人娘です―――いいえ、地主の一人娘でした―――ものの半年前、父が突然の病で倒れ、急逝するまでは。

 幼少の頃に母を失くしていた私は父の急逝を受けてその後を継ぎ、今は代々続く地主の家の当主となったのです。

 しかし、亡き母の忘れ形見として箱庭のような屋敷の中で蝶よ花よと父に育てられた私は、少々世間に疎いところがありまして、気の置けない昔からの使用人には世間知らずの箱入り娘、と揶揄される始末。

 腹立たしい思いもありますが自分なりにその自覚もありまして、一念発起、本日、一人で町へお買い物に繰り出してみたのです。こっそりと、誰にも知られぬように。

 今日の私は目立たぬよう、落ち着いた紺色のワンピースに身を包み、いつもは綺麗に結いあげている長い蜂蜜色の髪をそのまま背に流し、シンプルな装いの小振りなバッグをひとつ身に着けているだけ。

 初めてのお忍びはドキドキしたけれど、不安よりもわくわくする気持ちの方が大きくて、普段とは景色がまるで違って見えました。

 いつもは使用人の誰かについてきてもらうお買い物。でも、私一人だってお買い物くらい出来ます。お金を払って、品物を買う。そのくらいのこと、私にだって出来ます。ええ、出来ますとも!

 そう、意気込んできた私だったのだけど―――いったい、何がどうして、こんなことになってしまったのでしょう?

「あ、あの……」

 私は困惑を顔に刻み、目の前を歩く若い男性を見やりました。この男性は店先で商品を物色していた私に親切な声をかけて下さった方で、私の求める品をより多く扱っているお店へ案内して下さるとのことだったのですが―――。

「だいぶ奥まったところへ来てしまいましたけど……仰(おっしゃ)っていたお店は、どちらに―――?」

 入ったこともないような細い裏路地は薄暗く、肌寒い感じがしました。それに何だか、男性の顔つきが先程までとは少し変わっているような気がして―――何とも言えない心細さを覚えながらそう尋ねた私に、彼は取り繕うように口角を押し上げてこう答えました。

「もう少し先だよ。すぐそこだから」

 不意に、馬番のハドルからいつも口酸っぱく言われている言葉が私の脳裏をよぎりました。

「お嬢さん、いいか。怪しいヤツには絶対についていかないこと。少しでも変だと感じたら急いで逃げろ。後ろを振り返らず、全力で。いいな」

 思い出した彼の言葉に身体が反応しました。踵(きびす)を返し全速力で駆け出した私の背中に、舌打ち混じりの男性の声が響きます。そして、乱暴な靴音を立てて私の後を追ってくる気配―――!

 ―――いやっ、怖い! 誰か!

 恐怖で涙が滲んできました。自分の心臓の音が、うるさいくらい耳に響きます。息が切れて、喘ぐような呼吸をしながら、私は震える足を必死で動かしました。

 けれど、後ろから恐ろしい力で腕を掴まれて。かつてない慄きに、心臓が一回、鼓動を飛ばしました。

 呼吸を止めて振り返った私の視界に、恐ろしい形相へと変貌した男性の顔が映ります。

「何で逃げんだよ、もうすぐそこだって、言ってんだろぉ……!」
「ひ……! いやっ、離して! 離して下さい!!」

 泣き叫ぶ私を彼が乱暴に引き寄せた次の瞬間、ゴキンッ、という、聞いたこともないような音が響きました。

 えっ……?

 涙に濡れた青い瞳を見開く私の前で、肘から下がおかしな方向に曲がった暴漢の口から、耳を塞ぎたくなるような絶叫が上がったのは、次の刹那のこと。

「ぎゃあぁぁぁぁっ!」

 その時になって、私はようやく事態を把握しました。いつの間にか私と暴漢の間には一人の男性―――いえ、そう呼ぶにはまだ年若い、少年と形容すべき年頃の方が立っていて、私は彼の背にかばわれるようにしていたのです。

「こっ、この野郎ぉぉぉ!」

 怒りを滾(たぎ)らせる暴漢が隠し持っていたナイフを抜き、少年に切りつけようと襲いかかってきます! 

 ―――あ、危ないっ!

 思わぬ展開に青ざめ、凍りつく私の目の前で、その少年は怯む様子も見せずに素手で鮮やかにそのナイフを叩き落とすと、逆に暴漢を殴りつけました。その威力たるや!

 人が吹き飛ぶ様を生まれて初めて目の当たりにし、茫然としている私を少年が振り返り、まるで何事もなかったかのように尋ねました。

「大丈夫か?」

 落ち着いた、良く通る声。その容姿を間近で見て、私は思わず息を飲みました。

 ―――何て、整ったお顔立ちをした方なのでしょう。

 澄み切った大きなこげ茶色の瞳がとても綺麗な、穢れのない清らかな面差し。瞳と同色の髪は前髪が立ち上がっていて、形の良い額が覗いています。

 彼は首元が広めに開いた白に近い淡い灰色の涼し気なリネン素材のプルオーバーを着て、袖を無造作に肘の辺りまで捲り上げていました。ボトムは膝上の左右に大きなポケットがついて裾がリブになったやや細身のカーキ色のパンツを履いていて、足元は歩きやすそうなハイカットの編み上げシューズ。その腰には剣帯が巻かれ、物々しい装飾の施された、幅広で黒塗りの鞘につや消しされた金色の柄が印象的な剣を装備しています。

 ―――まるで、王子様みたい。

 昔繰り返し読んだ、童話の中に登場する王子様。まるでその王子様がそのまま絵本の中から抜け出してきて私を救ってくれたようだと、目の前の彼を見てそんな気持ちになりました。

「は……はい……ありがとう、ございました……」

 そう答えながら、私は自分の胸が大きく震え、かつてない甘やかな感情が心の内に広がっていくような、初めての感覚を味わいました。

 これは―――この気持ちは、いったい何……?

 凛としたアルトの声が響いたのは、その時でした。

「―――ドルク。何かあったのか?」

 路地の向こうから顔を覗かせた背の高い女性を振り返った王子様の表情が、ドキリとするような柔らかな変化を遂げたのが分かりました。

「ああ、小物がこの女性に絡んでいたんです。もう済みました」
「そうか」

 短いやり取りの後、私に視線を戻した王子様はこう忠告してくれました。

「この辺りの路地を一人でうろつくのはやめた方がいい」

 そう言い置いて連れの女性の元へ向かおうとする彼に、私は勇気を振り絞って声をかけました。

「……あの!」

 足を止めた王子様に、私は真っ赤な顔を向け、一世一代のお願いをしたのです。

「こっ……腰が抜けてしまって……お、お手数ですが、私を屋敷まで送っていっていただけないでしょうかっ!?」



   
*



 私を救ってくれた王子様の名はドルクさんと仰(おっしゃ)り、彼の連れの女性の名はフレイアさんと仰りました。

 フレイアさんはショートカットの赤髪に茶色の瞳をした凛とした雰囲気を持った女性で、胸元がV開きになった白のスタンドカラーのスキッパーシャツとインナーに黒のタンクトップ、下は黒のアンクル丈の細身のパンツスタイルで、足元はコロンとした茶色のフォルムの踵のない靴を履いていました。腰にはドルクさんと同じように剣帯を巻き、洗練された印象の剣を装備しています。

 彼女は背が高く、きりっとしていて、話し方もハキハキとして活動的な感じで、私とは真逆のタイプと感じました。そのせいか、彼女の前では少しだけ緊張を覚えてしまいます。

 お二人は仕事上のパートナーとのことでしたが、具体的には何をなさっている方達なのでしょう? 先程のドルクさんの見事なお手並みから察するに、どなたかの護衛のようなお仕事をなさっているんでしょうか?

 ドルクさんが敬語で話しているところをみると、フレイアさんの方が先輩……というか、もしかしたら上役なのかもしれません。年齢的にも彼女の方が上でしょうし。

 今日初めて会った方、しかも危ないところを助けていただいた恩人にあまりあれこれ聞くのも憚(はばか)られ、私はお二人に屋敷へ送ってもらう道中、そんなことに思いを巡らせながら馬車に揺られていました。

「ここ? 大きなお屋敷だね」

 馬車が止まった私の屋敷の門構えを見てフレイアさんはそう感想を述べました。ショックから立ち直りようやく一人で立てるようになった私はドルクさんの手を借りて馬車を降りながら、どうしようもなく高鳴る胸の鼓動を意識せずにはいられませんでした。

 大きな、力強い手。私を救ってくれた、男の人の手……。

「代々この辺りの地主を務めているんです。全て祖先から受け継いだ遺産です」

 そんな胸の内を押し隠し、そつなく答えながら門を開けると、私を探していたらしい馬番のハドルに早速捕まってしまいました。

「あっ、この垂れ目お嬢! どこ行ってやがったんですか、みんなあんたのことを心配してずっと探していたんですよ!」

 その物言いに、私は思わず顔を赤らめました。

 嫌だわ、この口汚い使用人! お客様の前で!

 それに私垂れ目じゃないわ、ほんの少し目尻が下がっているだけよ!

「所用で町へ行っていたのよ、黙って出掛けたのは悪かったわ……ハドル、お客様をお連れしているの。言葉を改めて」

 内心やきもきしながらも私は表情を取り繕って、日焼けした精悍な顔立ちの使用人に声を返しました。

「お客ぅ?」
「こちら、ドルクさんとフレイアさん。町で困っていたところを助けていただいたの」

 ハドルは私の後ろに佇むお二人を見やり、それから私に視線を戻して、こう断言したのです。

「あんたさては、何かやらかしてトラブルに巻き込まれたな!?」

 ええっ……ど、どうしてそれが分かるの、この男は!?

「分かるさ、長い付き合いだからな。お客人、当方の主人が世話になったようで、お手数かけました。わざわざ送り届けていただきありがとうございます、どうぞこちらに」

 にっこりと余所(よそ)行きの笑顔を作ったハドルはお二人を客間へと誘導しながら、私の耳元でこう囁いたのです。

「事と次第によっては、後で使用人連盟からキツーいお説教だぞ」

 ううっ……絶対に言えないわ、私の所用がこいつの誕生日プレゼントを買うことだったなんて。

 普段主人を主人とも思わぬ、遠慮会釈のない言葉を投げつけてくるこの使用人ハドルは、彼の両親共々昔から私の屋敷に住み込みで働く、いわば幼なじみのような存在でもあるのです。

 私よりひとつ年上の19歳で、亜麻色の髪に同色の瞳。背ばかりにょきにょきと伸びて、その他は昔から何ひとつ変わっていません。

 事あるごとに私を世間知らずの箱入り娘、と揶揄する彼を見返したい思いもあって、そうではないことを証明する為に町へこっそり出掛けたというのに……どうしてこうなってしまったのかしら。ああ、後程開かれるであろう使用人連盟の査問会が恐ろしいわ……。

「珍しい主従関係だね、主人に対してあの歯に衣着せぬ物言い」

 通された客間のソファーへと腰を落ち着けたフレイアさんにそう言われて、私は頬を赤らめずにはいられませんでした。

「お見苦しいところをお見せしてしまって……世間様のことはあまり良く存じないのですが、余所様に言わせると、私共はずいぶん和やかな雰囲気のところのようで……。あの、でも、先程のような口の利き方をするのはあの者だけです。他の者はもっと大らかな感じでして」
「うん、いいんじゃない? 仲が良さげな感じがしてわたしは好きだけど。この屋敷の雰囲気も開放的でいいね」

 思いも寄らぬ言葉をいただいて、私は自分の心が高揚するのを覚えました。

「そうですか?」
「うん。堅っ苦しくなくていいよ。みんな生き生き働けていそうじゃない?」
「そう言っていただけると、嬉しいです」

 本当に嬉しいお言葉……。

 小さな感動に浸っていると、フレイアさんの隣に座ったドルクさんがふっと口元を緩めて、それを見とがめた彼女に軽く眉をひそめられました。

「何?」
「いえ……この屋敷の門構えを見た時のあなたの顔を思い出して」

 ? フレイアさん、どんなお顔をなさっていたかしら……?

「盛大にまずったなぁ、という顔をしていましたよね」
「あ、あれは! こういう立派な家にありがちな堅っ苦しいフルコースにハマるパターンだと思って! 何でそんなトコ見てるんだよ!」
「予想が外れて良かったですね……」

 ばつが悪そうにまくし立てるフレイアさんを涼し気に見やるドルクさん。お二人、すごく仲がいいのだわ。

 それを感じて、何だか胸の奥が重たくなるような錯覚に苛まれてしまいました。どうしてかしら……。

「お話が弾んでいるようですね」

 この屋敷で一番の古株、使用人頭のカーロスがやってきて、今が旬の豊かな香りがするお茶を淹れてくれました。

「私共の主人がお世話になったそうで、どうもありがとうございました。お時間が許す限りくつろがれていって下さいね」
「ありがとうございます。大したことをしたわけではないのでお気遣いなく。お茶をいただいたら失礼します」

 ドルクさんがそう応じて、それを聞いた私はとても寂しい気持ちになってしまいました。

 当たり前のことだけれど、彼がずっとこの屋敷にいてくれるはずがないのだわ。分かっているはずなのに……どうしてこんなに、沈んだ気持ちになるのかしら。

「わあ、可愛いお茶請け……いただいてもいい?」

 お茶と一緒にカーロスが運んできた色とりどりの焼き菓子を見てフレイアさんが目を輝かせました。甘いものが好きなんでしょうか?

「もちろんです、たくさん召し上がって下さい。菓子職人のマルコが作るお菓子はとても美味しいんですよ。私も大好きなんです。このスコーンとか、良かったら食器を使わずそのまま手で持って召し上がって下さい。マルコはいつもこう言っているんです、素手で掴んでお菓子の温かさや質感を感じながら食べてほしいって。それが一番美味しい食べ方なんですって」
「いいね、それ。わたしも賛成!」

 フレイアさんは屈託のない表情で笑うとスコーンを手に取り、食べやすいサイズに千切って美味しそうにほおばってくれました。

「あったかくて、ほんのり甘くて美味しい! 付け合わせもたくさんあるんだね、どれがお勧め?」
「ええと、どれもお勧めなんですけど、今の時期だとこのジュルベリーのジャムとか美味しいですよ。うちの庭で採れたものなんですけど、野性味が強くて、香りが豊かで。あと、このバターは近くの牧場で作られたものなんですけど、味が濃くて風味がぎゅっと詰まっている感じなのにさっぱりとしていてしつこくなくて、とっても美味しいです」

 フレイアさんて……初めに抱いた印象と違うわ。毅然とした綺麗なお顔をしているから少し怖そうなイメージだったけれど、話してみると気さくで、表情がくるくると変わって、こんな言い方は失礼かもしれないけど、何だかちょっと可愛い感じがするわ……。

 こんなふうに美味しそうに食べてもらえたら、マルコも嬉しいわよね。

 そんなことを思いながら、私は彼女の隣のドルクさんに声をかけました。少しドキドキしながら。

「ドルクさんも良かったら召し上がって下さいね」
「ああ……ありがとう」

 ドルクさんは整った穢れのない、まるでおとぎ話の中から抜け出てきた王子様のような容姿をしているのに、どうしてかしら……何故か彼の一挙一動が、私には艶があるように見えてしまう。

 お菓子を持つ指先も。男の人らしい、大きな口元も。瞬きをする瞳にかかる睫毛の陰影―――時折こちらへ向けられる眼差しにも―――……。

「……!」

 目……目が合ってしまったわ。あんまり長々見つめていたものだから、変なふうに思われてしまったかしら。恥ずかしい。

 思わず赤くなって顔をうつむけた時でした。

「ちょっ!」

 驚きを含んだフレイアさんの声がして、顔を上げると、そこにはあせった様子の彼女と落ち着いた表情で静かに彼女を諭すドルクさんの姿がありました。

「ついていましたよ。子供じゃないんですから……」

 頬にお菓子の欠片でもついていたのかしら? 片頬を手で押さえたフレイアさんは指摘されたことがかなり恥ずかしかったのか、お顔を真っ赤にしています。

「気になさらないで、私にも経験があります。マルコのお菓子が美味しくてついつい夢中になってしまって……幼い頃はカーロスやハドルに注意されてしまうこともしばしばでした」

 フォローのつもりで言った私の言葉を聞いて、ドルクさんが笑いを堪(こら)える素振りを見せました。フレイアさんは憮然とした面持ちになって、小さく口を尖らせながら私に苦言を呈しました。

「エリス、それ、フォローになっていないから」

 ええっ! 何が……何がいけなかったんでしょうか!?
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