ひと仕事を終え近くの町まで戻る途中、突然の雨に見舞われたわたしとドルクは近場にあった大木の下で雨宿りをしていた。
「さっきまであんなに晴れていたのに……」
局地的な雨雲に覆われた空を恨めし気に見やるわたしの隣でドルクが濡れた髪を払いながらひとつ相槌を打つ。
「急でしたね」
地に打ちつける雨脚は強いけど周りの空には青い色が覗いていて、この状況がそう長く続くものではないことが窺える。
―――ドルクと恋人関係になってひと月余り。
気になる依頼をこなしながら地方から地方へと渡り歩くわたし達の日常は相変わらずで、そこに特にこれといった変化はない。
仕事も移動も四六時中一緒だから互いのプライベートを尊重する意味もあり、宿の部屋は今まで通り基本的には別々に取っているし、言葉遣いや態度といったものも表面上は以前と変わりはないように思う。
ただ―――ふとした瞬間のやり取りや間の持たせ方は変わったかな。
例えばこんなふうに雨宿りをしている時、前は微妙な距離を保ちながら他愛もないことを語らって雨が上がるまでの時間を潰していたけれど―――今はその距離がなくなって、わたし達の雰囲気もだいぶ変わった。
「結構濡れちゃいましたね。寒くないですか?」
「ん、大丈夫。風がそんなになくて良かった。あんたは?」
持っていたハンドタオルで頭を拭きながら傍らを見やると、悪戯っぽく微笑まれた。
「寒いって言ったら、温めてくれるんですか?」
「え? ここで?」
「他に誰もいませんよ」
確かに彼の言う通り、雨の降りしきる街道へと続く緑豊かな小道にはわたし達以外の姿はない。
けどなぁ、いくら人目がないとはいえ、外でそんな、自分の方からイチャつくような真似、わたしにはちょっと厳しい。
「頭を拭くくらいならしてあげるよ」
気恥ずかしさをごまかすように少々手荒くこげ茶色の髪をタオルで拭くと、ドルクが小さく吹き出した。
「何」
「いえ、要求する難易度が少し高かったなと思って」
「分かってるなら要求するなっての」
口を尖らせながらタオルで彼の髪をわしゃわしゃにすると、その隙間から覗く髪と同じ色の双眸が甘い光を帯びた。
あ……。
その光にとくんと胸が波打つのと彼に腰を引き寄せられ腕の中に閉じ込められるのとがほぼ同時だった。
「今夜……オレの部屋に来ませんか?」
耳元で囁かれる低い声音と鼻先をかすめる彼の香りに、思わず顔が熱くなる。
こんなふうにドルクが誘ってくるのは、以前にはなかったことだ。こういうところでも、自分達の関係の変化を改めて感じる。
「……うん。じゃあ、後で行く」
頬を染めながらそう返すと、改めてぎゅっとされた。
「……鎧越しだと物足りないな」
「はは、硬さに阻まれている感があるよね」
平静を装って同意してみせながら、内心では不覚にもドキドキしてしまっている自分がいる。
こういう関係になってそこそこ時間が経つというのに、彼に抱きしめられているこの状況は、互いの身体の質感を感じられないこんな状態でもわたしの心臓を落ち着かなくさせるのに充分な威力を持っていて―――うーん、いったいいつになったら慣れるんだろうなぁ。
ドルクはこんなに自然体で余裕すら感じさせるのに―――毎回わたしだけどぎまぎしているみたいで、ちょっと悔しい。
そんなことを思っていると掌で頬を包み込むようにされて、ほぼ同じ高さにある大きなこげ茶色の双眸に至近距離で囚われた。それを認識した鼓動がとくん、と跳ねる。
ゆっくりと近付いて、距離がゼロになる互いの唇。一度軽く重ねて離れ、それからちゅ、と小さく湿った音を立てて何度も淡いキスを繰り返されると、胸がきゅんとして、たまらなく幸せな気持ちになった。
プライベートの境界線が変わって、キスの回数は飛躍的に増えた。
何気なく目が合った時。会話の中でふと沈黙が下りた時。何かの拍子につけてドルクは実にさり気なくキスしてくるから、軽いキスならほぼ毎日しているんじゃないだろうか。
なのに毎回、きゅんとする。
わたしの吐息がしどけなくなってきた頃を見計らってドルクはキスを深くしてきた。
「ふ……」
気持ち良くて、陶然とする。元々ドルクのキスに弱かったけれど、最近は前にも増してその傾向が強くなったみたいだ。
彼を好きだという気持ちが日々上書きされていくことと、わたしがどうされるのが好きなのかを彼に全て悟られてしまっていることがその要因だと思われる。
それに付随する最近の悩みといえば、たった今も約束してしまったけど―――夜、宿でドルクに抱かれる時に声を堪(こら)えなければいけないのが辛くなってきているということだ。
わたし達が利用しているような旅人向けの一般的な宿は、概ね壁が薄い。上の部屋の人がそういう行為をしていればベッドが軋んで揺れる音が下まで響いてくるし、声も筒抜けで、大きな声だと何室も向こうの声が届いたりする。
ま……まあ、百歩譲ってベッドの音は仕方がないにしても、そういう声が他人に聞かれてしまうのはわたし的に耐え難いし、ドルクからすれば到底容認出来ないことらしい。
だから最初にダハールの高級旅宿で肌を合わせて以来、ドルクはわたしを気絶させるほど激しく抱いてくることはなかった。わたしがギリギリ声を堪えられるよう、彼なりにセーブして抱いているのが分かる。
料金を考えるとあんな高いところにしょっちゅう泊まるわけにもいかないし、そもそもあんなしっかりした造りの宿がどこの町にもあるわけじゃないから仕方がないんだけどさ……時々は声を我慢せずに仲良くしたいなぁなんて思ってしまう。
つまり―――あれだ、基本の生活スタイルは変わっていないし、傍から見た分には何の変化もないけれど、プライベートな部分でのわたし達の関係は大きく変わって、お互いを想う気持ちも一層深まった。
「雨、上がりましたね」
ドルクの声に顔を上げると、雲間から光が差し込んで、雨で洗い流されて澄み渡った空に鮮やかな虹のアーチが架かったところだった。
「わぁ……にわか雨は困るけど、こういう時はちょっと得した気分になるね」
その光景に思わず瞳を輝かせるわたしの隣で、ドルクが清らかな容貌に反する清らかでない物言いをする。
「そうですね。雨のおかげであなたを補給することも出来ましたし」
こ、こいつはもう……。
その言い様に頬を赤らめると、ドルクはそんなわたしを見て蠱惑的に口角を上げた。
「行きましょうか。早く宿へ戻って、もっと心ゆくまであなたを補給したいですし」
「わ、わざと言っているだろ!? もう!」
「そんな可愛い顔をするからですよ」
くそぅ、完全にからかわれている。
「もう……ちゃんと夕食を食べてシャワーを浴びてからだからな!」
「もちろんです」
わたしが恥ずかしがる顔が好きだと公言する男は小憎たらしいくらい晴れやかに頷いて、はからずも見とれてしまうような笑みを湛えて手を差し伸べる。頬を染めたわたしは小さく歯噛みしながらもその手を取って、共に雨上がりの空に輝く虹の下へと歩き出した―――。
*
フレイアと恋人関係になって三月余り―――。
満たされながら日々上書きされていく彼女への想いに、好きな相手に対する気持ちに際限はないのだと改めて知らされる。
彼女と特別な関係になって、そうならなければ見ることが出来なかった彼女の特別な姿は逐一オレの心を震わせた。
例えば夜、オレの部屋を訪れる時。
シャワーを済ませた彼女は宿の備え付けの部屋着を着て、自分の枕を持参して部屋のドアをノックする。
宿の備え付けの部屋着は地方やその場所によって多少のバリエーションはあるものの、基本的に無地で無難な色合いのスウェット素材のものが多い。それをゆったりと着て頬を染め戸口に佇む彼女の姿は愛らしく、その彼女がラフな印象の部屋着の下にセクシーな下着を身に着けていると知っているから、オレとしてはそのギャップがまたたまらない。
それを脱がされオレに抱かれる時の彼女の姿態は言わずもがな、押し殺したその声も、恥じらいながら快楽に染まっていく表情も―――オレ以外の誰も見ることが出来ない女として一番美しいその姿は、オレの中の独占欲を満たし、この胸に例えようもない悦びを与えてくれる。
それから―――時々は、彼女の方からもこんなふうにオレを誘ってくれるようになったのが嬉しい。
「わたしの部屋で、ちょっと飲まないか……?」
少しはにかみながらオレの表情を窺ってくるその様子が可愛いのと、彼女が自分を求めてくれることで自分もまた彼女にとって特別な存在なのだと実感することが出来て、オレの心は言葉に出来ない充足感で満たされる。
オレにとって初めての「恋人」は何物にも代えがたく得難い存在で、心を寄せる相手と結ばれるということがこれほどまでに幸せなことなのかと、オレは目下それを満喫中だ。
彼女の体調が理由で毎月一週間ほど設けている休養日は、彼女の身体が辛くない日は自然と二人で出掛けるようになった。いわゆるデートだ。
この日は町を散策しながら可愛いもの好きな彼女が見たがっていた雑貨を扱う店に立ち寄って、昼時になって近くにあった雰囲気の良さそうなレストランへと足を運んだ。
「―――そういえばさ、今更だけどドルクって何が好きなの?」
料理を注文し終えた後、何気なくフレイアにそう尋ねられて、オレはひとつ瞳を瞬かせた。
「オレが好きなもの、ですか?」
「うん。ちゃんと聞いたことなかったと思って。二人で出掛ける時ってだいたいわたしの好みに合わせてくれている感じじゃん。今度はあんたが行きたいところに行ってみようよ。だからどういうのが好きなのかなぁって……趣味とかさ」
彼女にそう気にかけてもらえて嬉しい半面、思いがけなかった質問にオレは考え込んでしまった。
趣味……オレの趣味か……。好きなこと……?
これだ、というものがパッと思いつかない。
何しろ子供の頃からのめり込んでいたのが剣だった。どんどん上達していくのが楽しくて毎日のように鍛錬に励んでいたそれが、フレイアとの出会いを経て、今では職業になってしまっている。
オレは思わぬ難題に頭を悩ませた。今まで考えたことがなかったかもしれない。
ギルドに入ってからはフレイアを目標にして、脇目も振らず遮二無二やってきた。そこを目指して突き進んでいたからオレ的にはそれで充実していて、特別他に何か気を取られるようなものがなかった。
酒を飲むのは好きだがこれはフレイアも知っていることだし、彼女が聞きたいのはそういうことではないだろう。
―――より強い相手と手合わせすること? 更なる剣技の向上に努めること?
いや、これでは仕事と変わらないな。
「えーと……そ、そんなに考え込むことー?」
まさかこれほど思い悩ませることになるとは思わなかったんだろう、難しい顔になって沈黙するオレにフレイアが戸惑いの声をかけてきた。
「小難しいことを聞いているわけじゃなくて、あんたが楽しいって感じたり興味を持ったりすることが何なのかなって……あるなら、わたしもそれを共有出来たらいいなって思って……」
少し困ったようにそう呟く彼女の反応を見て、不意に問われた答えを見つけた気がした。
―――ああ、そうか。
「趣味、っていうのとはちょっと違いますけど……そうですね、言うなればオレはあなたに構ってもらうのが好きかな」
「―――は?」
目を丸くするフレイアにオレは軽く笑いかけた。
「何でもいいんです。こうして一緒に出掛けるのでも、二人で何気ない話をするのでも―――要はあなたを独り占め出来ていると感じられる状況が、オレは好きですね」
「そ、それはわたしだって……! うう、違う! わたしが聞いているのはそういうことじゃなくて」
「分かっています。じゃあこういうのはどうですか? 今度のデートは天気がいい日に公園にでも行ってオレに膝枕して下さい」
「ええ!?」
「恋人っぽくていいでしょう?」
「や、恥ずかしくないか、それ」
赤くなって唸る彼女にオレはにっこりと微笑んだ。
「オレ、前に言いましたよね。あなたの恥ずかしがる顔が好きだって」
「ちょ、趣味が悪い!」
「ゆったりした環境で好きな人に膝枕してもらいながら語らい合うの、ベタですけど休日っぽくていいと思うんですけど。何ならそのままうたた寝したり」
「それはそうかもしれないけど……あんたがうたた寝している間わたしはどうしてたらいいのさ。ヒマなんだけど」
「好きなようにオレを撫で倒してもらって構わないですよ。前に哺乳類が好きだって言ってましたよね? オレも一応哺乳類なので」
ぼやく彼女にそう返すと即行で却下された。
「ここでキューちゃんの時の話を持ち出すか! 人間はそういう対象に入らないの!」
「小さくてふわふわしたのでなくても可愛いって言っていたのに」
「人間以外の哺乳類に限っての話だよ!」
「じゃあ、ヒマになったらキスしてくれれば起きますから」
「公園でそんなこと出来るか!」
「ダメですか? 膝枕してもらいたかったんですけどね……」
つれない態度を取る恋人に寂しそうな表情を作って見せると、わざとだと分かっていてもこの手の表情に弱い相手はしばしの沈黙の後、諦念混じりの吐息をこぼした。
「あんたって結構甘えたがりだよね……」
そうだな。意識はしていなかったが、そうかもしれない。
今の今まで自分がそういうタイプだとは思ってもみなかったが、言われてみれば、これまでも彼女相手には色々とごねたりねだったりしてきた覚えがある。
「あなた限定ですけどね」
もうひと押し。肯定の言葉を返しながら凛とした茶色の瞳を見つめると、彼女は頬を赤らめてテーブルに視線を落とした。
「それは……そうじゃないと困るけど……」
ぶつぶつと呟きながら何かと葛藤するように考え込む顔が可愛い。そんなことを思っている自分にひとつ苦笑がこぼれた。
オレは重症だな……彼女が見せる何気ない表情ひとつひとつに、こんなにも目を奪われてしまうなんて。
「まあ、一回くらいやってみるのもありかな……」
少し考え込んだ後、仕方なさげに頷いたフレイアの言葉を聞いて、予想以上に高揚する心を抑えつけるのに少々苦労した。
「本当ですか? 嬉しいです」
「一回やってみて、やっぱりなしだと思ったら即行で切り上げるからな」
「分かりました」
念を押す彼女に笑顔で答えながら、初めて自覚した甘えたがりで構ってほしがりな自分の姿を改めて意識する。
彼女と特別な関係になって、そうならなければ知ることがなかっただろう自分自身にオレはこれからも出会うことになるんだろうな。漠然とそう思った。
フレイア、オレはあなたとこんなふうにやり取りを交わすのが何よりも楽しいみたいだ。あなたは頭を痛めるだろうけど、そんなあなたを見ることも、オレはとても好きらしい。
これを知ったらあなたは苦虫を噛み潰したような顔になって、趣味が悪い、と言うんだろうな。
オレが大好きな、表情豊かなその顔で。
蛇足だが、要領のいいオレがその後もフレイアに膝枕をしてもらう権利を勝ち取ったことは、言うまでもない―――。
<完>