影王の専属人は、森のひと

08


 男達の足の方がシルフィール様を連れたわたしよりも早いのは明白だった。

 シルフィール様も頑張ってはいるけれど、普段全力疾走するような環境にない方が、ロングワンピースに細いパンプスという格好で、木の根が張り出た緑深い道なき道を走り続けるのは、体力的にも相当な無理がある。このままでは数分と持たず追いつかれてしまうだろう。

 追手はカインを含め五人―――全員が帯剣している。

 わたし一人ならやれないことはないと思うけど、シルフィール様を護りながらでは分が悪い。

 ―――けれど森(ここ)は、クォルフであるわたしにとって慣れ親しんだ庭であり、得意とする戦場だ。

 負けない!

 まずは、シルフィール様の安全を確保する!

「シルフィール様、掴まって下さい!」
「えっ……はいっ!」

 差し出したわたしの手を取ったシルフィール様の腕をぐいっと引き寄せて細腰を抱えながら、前方上方に垂れ下がっていた丈夫な植物の蔓に狙いを定め、短剣を走らせる。

「跳びます!」
「えっ!?」

 ロープ代わりにした蔓を握り、近場にあった弾力のある大きなキノコを足場に跳躍して、木の幹を蹴りつけ、振り子のように反動をつけて、大きく跳ぶ!

「きゃあーっ!」

 勢いよく風を切り眼前に迫りくる枝葉、目まぐるしく変わっていく風景に、わたしにしがみついたシルフィール様が悲鳴を上げ、目をつぶる。

「くっ……! 亜人め!」

 歯噛みするカイン達を尻目に、木々の間を縫うようにして大きめの樹木の枝に着地したわたし達は、同じような方法で枝から枝へと跳び移り、それを何度も繰り返して追手を撒き、森の裂け目のようになっている小高い丘の上にたどり着いた。

「す、すごいっ……すごいわ、リーフィア! あっという間にこんなところまで……ああ、こんな言い方は不謹慎なのだろうけど、でも、怖かったけど、とっても楽しかったわ! 胸が、すごくドキドキしてる……!」

 興奮に声を震わせ、頬を紅潮させてわたしを見上げたシルフィール様だったけど、気持ちに身体がついていかなかったらしく、笑顔のままその場にへなへなと座り込んでしまった。

 無理もない。幼い頃から森を飛び回っているわたしとは違って、温室育ちの方なのだ。気丈に仰ってはいるけれど、かなりの衝撃体験だったに違いない。

「よく頑張られましたね……足は大丈夫ですか?」

 気遣うわたしに、おそらく爪先を痛めているだろうシルフィール様はそれを押し隠して小さく笑んだ。

「大丈夫よ、私(わたくし)はただ貴女にしがみついていただけだもの」
「シルフィール様はお強いですね……」
「ふふ。リーフィアがいてくれるからよ。……ねえ、これで逃げ切れたと言えるのかしら?」

 眼下の森を見下ろしながらそう懸念するシルフィール様に、わたしは軽く首を振った。

「逃げ切れた、とは言えませんね。一時的にカイン達を撒いた状態ではありますが、彼らも必死でこちらを探しているでしょうし、帰城するにはどうあってもこの森を抜けねばなりません。森の中を迂回するにしても彼らと鉢合わせる危険がありますし、時間が経つほど追手も増えてこちらは不利になるでしょうから、今のうちに決着(ケリ)をつけようと思います」
「決着(ケリ)って……どうやって?」
「とりあえず邪魔者を動けないように転がして、カインを捕えます。あの男には色々と聞かなければならないことがありますからね。その間、シルフィール様にはここでお一人でお待ちいただきたいのですが、大丈夫ですか?」
「それは構わないけれど……リーフィアは大丈夫なの? 相手は五人もいるのに……」

 わたしの身を案じてくれるシルフィール様に、わたしは気持ち表情を和らげた。

「心配ご無用です、一度に五人の相手をするつもりはありませんから。わたし的にはシルフィール様がきちんとこちらで待っていられるのかどうか、そちらの方が心配ですよ」

 それを聞いたシルフィール様は心外そうに頬を膨らませた。

「まあ、私にだってそのくらいの分別はあるわ。下手に動いて貴女の足手まといにならないように自重します」

 実はそこが一番心配だったんだけど、分かって下さっているなら良かったです。

「失礼しました。では、丁度よくそこにロマージュの実がなっていましたので、こちらで喉を潤してお待ち下さい」

 わたしはたまたま近くに自生していた卵型の果実をいくつかもぎ取ると、シルフィール様に手渡した。

 ロマージュは水分量が多い果実で、ほんのり甘い優しい味わいの、わたしには馴染み深い森の恵みだ。本当に偶然なんだけど、これが手近に実っていたのは幸運だった。

「小高い場所は広い範囲を見渡せる半面、低い位置から目に付きやすくもありますから、この辺りまで下がって、座ってお待ちになって下さいね」

 地上から姿が確認出来ない位置までシルフィール様を誘導してから、わたしは森に張り出した丘の先端まで足を進めた。

 視界に広がる森を一望し、瞳を細めてターゲットの位置を確認する。

 ―――いた。女二人と侮り、全員バラバラに動いて探しているようだ。

 わたしは背負っていた弓を下ろし、眠り毒の仕込まれた矢をつがえた。

「え……リーフィア、ここから射るの? いくら何でも距離があり過ぎるんじゃ……」
「大丈夫、届きます」

 霊樹の枝を加工して作られたこの弓矢は、クォルフの特別製。後はわたしの腕次第―――。

 集中してぴんと張り詰めていく、この緊張感が好きだ。神経が研ぎ澄まされて周りの音が消えていき、ただ、標的だけが目の前に輝いて浮かび上がる―――!

 ひゅん、と空気を裂く弓弦の音と共に、森の中にいた男が一人、短い呻(うめ)きを上げて崩れ落ちるのが見えた。

 ―――まず、一人。

 それを皮切りにわたしは次々と矢をつがえて放ち、カイン以外の全ての男を一発で仕留めることに成功した。

 そんなわたしの背中を息を詰めて見守っていたシルフィール様は、わたしが弓を下ろした瞬間、堰を切ったように尋ねてきた。

「どうだったの、リーフィア? 上手くいった?」
「はい、全て命中しました。後はカインを残すのみです」
「す……すごいわ、リーフィア! 貴女の弓の腕前は知っていたつもりだったけれど、まさかこれほどのものだったなんて……! 城内にもこれほどの名手はいないのではないかしら!?」

 ひどく興奮した面持ちのシルフィール様にキラキラした瞳で声高に称賛されて、何分そういうことに慣れていないわたしは嬉しい反面、どういう反応したらよいのか分からず戸惑ってしまった。

「あ……ありがとうございます。でもまだ全てが済んだわけではないので、カインを捕えて無事に王城へ戻れましたら、改めて褒めていただけますか?」

 照れ隠しにそう言うと、シルフィール様は大きく頷いた。

「もちろんよ!」
「約束ですよ。では、行ってまいります」

 シルフィール様にそう言い置いてその場を後にしたわたしは、表情を引き締めると、小高い丘を足場から足場へと飛び移るようにして地上へと降りていった。



*



 木漏れ日が差し込む午後の森の中―――カインは仲間達がわたしにやられたことにはまだ気が付いていない様子で、剣を片手にわたし達の姿を探していた。

 木の上からその動向を窺いながら、わたしは音を立てないように弓矢をつがえ、彼の背中に警告を発した。

「動かないで。武器を捨てて頭の上で腕を組み、その場に膝をつきなさい」

 突如響いたわたしの声にビクリと足を止めたカインは、あせった様子で首を巡らせた。

「リ―――リーフィアさん? 待って下さい、何か色々誤解があるようです。僕達は、森に入った貴女方を心配して……。この剣は、獣に対する護身用で」
「御託はいいから。言われた通りにしなさい」
 
 ぴしゃりと言い訳を遮られたカインは、不承不承ながらそれに従う姿勢を見せた。

「……。わ、分かりました……」

 緩慢な動作で手にした剣を放り、言われた通り膝をついて、ゆっくりと頭の上で腕を組む。

 それを見届けたわたしは木から飛び降りると、背後から慎重に近付いて、途中で調達してきた植物の蔓を彼の前に放り投げた。

「それで自分の足を縛りなさい。妙な真似をしたら射るわよ」
「リーフィアさん、お願いですから僕の話を聞いて下さい」
「あなたがわたしの指示に従った後で聞くわ」
「……。こ、これでいいですか」

 おぼつかない手つきで自らの足首を縛り終えたカインの足元を確認したわたしは、眉を跳ね上げた。

 ふざけてんの? そんな一発で解けるような結び方、ダメに決まってるでしょ!

「やり直しよ。簡単には解けないように縛って」
「は、はい……。あの、せめて、貴女の姿だけでも見せてもらえませんか? こんな状態では落ち着かなくて……」
「必要ないわ」
「あの、でも、目を見て話を聞いてもらえれば、決して僕に他意があったわけではないことを分かってもらえると思うんです」

 あのねえ、あんたは聞こえてないと思っているんだろうけど、あんたの盛大な舌打ちも蔑みを含んだ亜人呼ばわりも、全部聞こえているからね。

 お得意の演技力で言いくるめようったってそうはいかないわよ。本当にシルフィール様に心を鷲掴まれていると思っていたのに、あれが全部演技だったなんて、不愉快極まりないわ。

 腹立たしく思いながら、もたもたと蔓を縛り直すカインを見据えていた時だった。

「!」

 風切り音を感知してとっさに飛び退いたわたしの髪をかすめ、大型のブーメランが旋回していく。思わぬ強襲にわたしは目を見開き、素早く体勢を立て直しながらそちらを窺った。

 な―――!?

「ち、外した」

 不満げな呟きを漏らし木陰から姿を現した体格のいい男が、戻ってきたブーメランを手に取りながらわたしをねめつける。その背後から更に数人の男が現れ、ニヤニヤと笑いながら品定めするような視線をわたしに向けた。

「勘のいいクォルフだな」
「情けねぇなあ、カイン。女一人にやり込められて」

 もう新しい追手が……! くそ、思ったより敵の動きが早い!

 奥歯を噛みしめるわたしに向かって、体格のいい男から再びブーメランが放たれる。わたしがそれを飛び退(すさ)ってかわす間に、カインは転がるようにして男達の方へ逃れると、蔓を解いて立ち上がった。

「普段身体を張っていないヤツが、慣れないことはするモンじゃねぇなぁ? お前の取り巻き連中、みーんなやられてたぜ。お偉いさんのご機嫌取り野郎が、一人で手柄を立てようとあせるからこうなるんだ。オレ達が来なかったら大失態を犯すところじゃねぇか」

 男達の一人がカインを揶揄すると、他の連中からはやし立てるような笑い声が上がった。

「く……」
「勇み足で自滅寸前のお前を助けてやろうってんだ、感謝してくれよ。今回のことはオレ達全員の手柄だ。いいな?」

 貴人の家に仕えているという小綺麗な格好をしたカインとは違って、後から現れた男達はならず者のようないでたちだった。風体と会話から察するに、汚れ役専門で雇われている者、といったところだろうか。

 男達に圧をかけられたカインは苦々しい表情を見せながらも、それを了承せざるを得ないようだった。

「……仕方がない」

 呻(うめ)くようなカインの回答を聞き、男達の間から冷やかし混じりの歓声が上がる。

 これで形勢は一気に逆転した。

 弓を構えたわたしを、男達が円を描くようにして取り囲み、捕食者の眼差しを向けてくる。

「まあまあ見目のいいクォルフじゃねぇか。裏ルートでさばけば結構いい値がつきそうだな」
「『慰み者から護衛まで。どう扱うかは貴方の調教次第!』みたいなキャッチコピーつけるか?」
「いいねぇ。こいつ処女かな? 処女の方が高く売れてありがたいんだがな」
「そこは売る前にオレらで確かめてみるか?」

 こいつら、人身売買もやってるの?

 下劣な会話を交わす男達を見下げ果てた目で見やりながら、わたしは冷静に現状を観察し分析することに努めた。

 敵の獲物は剣、ブーメラン、斧……か。

 まいったな、状況としては芳しくない。こう囲まれてしまっては連射しても一度に全員は倒せないし、一角を突破して木の上に逃れたとして、ブーメランが厄介だ。

 さて、どうしよう……?

 嫌な汗が胸の間を伝い落ちるのを感じながら、わたしは目まぐるしく頭を働かせた。

 狩猟の鉄則。例え窮地に追い込まれたとしても、絶対にそれを相手に見せるな。常に平静であれ。

 あせりや怯えは禁物。敵を増長させるだけで、生き残るチャンスを奪う。常に考えろ。思考を止めるな。

 わたしは呼吸を整えながら、全身の感覚を研ぎ澄ませて周辺にアンテナを張り巡らせた。

「……!」

 そして、ひとつの打開策へとたどり着き、大いに頭を悩ませる。

 この状況を打破する切り札になるとはいえ、思い浮かんだ方法はあまり使いたくないものだった。

 けれど、四の五の言っていられないか。今はシルフィール様を無事に王城へ帰還させることが何よりも重要だし、わたし自身こんなところでこんな連中の手に落ちてしまうのはごめんだ。

「僕はなるべく穏便に事を済ませたかったのに……こうなったのは君のせいだよ。こいつらは僕の指示には従わない、大人しく口を割った方が身の為だと言っておく。“シルケ様”はどこだ?」

 これまでとはガラリと口調を変えたカインがわたしに問う。わたしはその問い方に疑問を覚えた。

 ここでまだ「シルケ様」と通す辺り、カイン以外は相手が王妹シルフィール様だとは知らない……?

 その可能性を見出しながら、わたしは呼吸を整えて、なるべく多くの情報を引き出そうとカインを質(ただ)した。

「どうしてあの方を狙うの? あなた達の主の目的は何」
「今回の件、僕の主は関係ないよ。主の為を思い、僕が勝手にしたことだ。主自身は何も知らない」

 ―――ああ、そう。これは全てあんた一人が企てたことで、ご主人様は蚊帳の外、全ての責はあんた自身にありますって宣言ね。あんたを問い詰めようが捕まえようが、黒幕は痛くもかゆくもないってワケ。

 よく教育が行き届いているじゃない。こうなるとこれもまともには答えないだろうけど、一応聞いておくか。

「ふぅん……都合の悪いことを何も知らない、無責任なその方はどなたかしら?」
「森のひとは記憶力が悪いのかな? さっき話したはずだけれど」

 やっぱり、そう来るのね。

 さっきまで「ラズフェルト侯爵」の名前を出していたにも関わらず、カインが頑なにその名を口にしない理由―――そこには曖昧なニュアンスで茶器の家紋に気付いたであろうわたしを惑わせる意味合いもあるんだろうけど―――一番の理由はおそらく、カイン以外の男達は本当の雇い主を知らないから―――じゃないだろうか。

 カインにこういう教育をしている人物が、汚れ役の連中に自分のことを明かすわけがないものね。

 わたし達のやり取りをニヤニヤしながら眺めている男達は、どいつもこいつも絶対的な勝利を確信した顔で、交わされている会話の意味を深く捉えることもなく、女一人を大勢で取り囲んだ優位なこの状況を楽しんでいる。

 わたしは質問を切り替えた。

「では、あなた達が義賊ノヴァを騙る目的は何?」

 そこを突っ込まれるとは思っていなかったんだろう、カインの瞳に動揺が走り、これまで静観していた男達の間から分かりやすいざわめきが漏れた。

 ―――当たりだ!

 わたしとしては確証があったわけではなく、男達の余裕を突き崩す一手がほしくて、カマをかけてみた結果だった。違ったら違ったで嘲笑されてもいい、何らかの油断を誘いたくて口にした当てずっぽうだった。

 平常心が崩れるところから隙は生まれ、それは勝敗を大きく左右していく要因となる。逆転の様相を成していく、その確率を出来るだけ上げておきたい。

「―――は? 何を……」

 表情を取り繕おうとするカインに被せるようにして、わたしは見透かした風情を装い断定する。

「見苦しいわよ。あの屋敷がアジトだったんでしょう?」
「何を根拠に……」

 カインが口元を歪める。

 根拠らしい根拠なんてない。カインが口にした「あの言葉」と、そこかしこに散りばめられていた違和感からその可能性を推察しただけだ。

 わたしはこれまで得ている情報を出来る限り頭の中で精査しながら、その中から考え得るいくつかの状況を導き出し、カインの反応を窺いながらもっともらしくハッタリを述べていく。

「初めてシルケ様を街中で見かけた時、元々シルケ様の顔を知っていたあなたは、あの方が何故あの場にいたのか不審に思って、一抹の懸念を抱いて声をかけたのよね? だって、“あの方はあんな所に単身でいるはずのない方だったから”。
そして今日、わたし達がノヴァについて調べていることを知ったあなたは、懸念が確信へと変わりあせったはず。“あの方のお兄様”があなた達の主にたどり着く、その可能性を恐れて」
「……」
「でも、あなたは同時にこれを千載一遇の好機(チャンス)と捉えた。あなた達の主が恐れるシルケ様のお兄様―――そのアキレス腱である彼女をかどわかせば、あなた達の主はこれ以上ない強力な切り札を手に入れることになる。上手くいけば義賊騒ぎもうやむやになって、嫌疑の目を逸らすことも出来るかもしれない。
側仕えが独断で行うには大きすぎる事案だし危険を伴うことは間違いないけれど、有名な義賊を騙ってまで対抗勢力の力を削ぎ落としにかかっている人物なら、その程度の危険(リスク)は承知で様々な準備を図っているだろうし、むしろそれを許容するでしょう。あなたにとっては大きな手柄になる」

 義賊ノヴァは不正を働く富裕層の者達から盗んだ財貨を、貧しい人々に分け与えていた。

 国民達に広く認知され、英雄視されていた謎の人物―――カインの主はそこに目を付け、利用した。

 ノヴァに狙われた者は悪事に手を染めた者として国民に認知され、奪われた財産をばらまかれて、名誉も財力も失い、失墜する。

 今世間を騒がせているノヴァは以前とは違い、不正を働いているとは言い難い貴族を狙っていることからも、その目的は当該貴族の力を失わせることにあると考えられる。

 特定の者を狙いそれを繰り返していけば、やがては権力中枢の勢力図を塗り替えるというところにまで繋がっていくんじゃないだろうか。

 ならばこれは、クーデターの前哨戦だ。現国王クリストハルトに対する不穏分子からの宣戦布告であり、やがては国を飲み込まんとする大きな謀略だ。

「豊かな妄想力だな。こじつけもいいところだが、我々が彼(か)の義賊を騙っていると言い切る根拠は何なんだ」

 あくまでもしらを切るカインに、わたしは淡々と切り込んだ。

「自分で言ったんじゃない。ノヴァのことを、『彼』と」
「は……?」
「馬車を下りる時、シルケ様に言ったわよね。『戻りましたらまたノヴァの話をしましょう。まだ語り切れていない彼の話、たくさんありますので』って」
「……!」
「? それが何だってェんだ?」

 自らの失言に気付き目を見開いたカインとは対照的に、状況をよく理解していない他の連中へ、わたしは声高に説明してやった。

「国民達の間で英雄視されていた神出鬼没の義賊ノヴァは正体不明の人物で、彼(か)の義賊が『男』だと知っている者は誰もいないはずなのよ!」
「あっ!」

 脳筋男達が理解を示すのと、居直ったカインが怒号を上げるのとが同時だった。

「は、それを知ったところで、情報を持ち帰れなければ何の意味もないんだよ! 殺(や)れ!」

 わたしの説明に衝撃を受けていた脳筋男達がその指示を実行に移す態勢に入るまでに、わずかな空白が生じた。

 その隙に、わたしは出来れば使わずに済ませたかった切り札を切った。

「ヴァルター!」

 わたしの呼びかけに応じ、顔半分を仮面で覆った長身の剣士が木陰から現れると、初動の遅れた男達へ手にした剣を一閃させた。
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