ラステルと別れたわたし達は帰城すべく、黄昏色に染まり始めた王都の街並みを歩いていた。
陛下から今回の任務を命じられた時はどうなることかと思ったけれど、どうやら問題なく終えることが出来そうだし、シルフィール様は今日一日とても楽しそうだったし、どことなくわたし達の仲も深まったような気がする。結果的にはこうしてお供出来て良かったかな。
そんなことを考えていた時だった。
「―――!」
不意に視線を感じて、わたしは全身の神経を研ぎ澄ませた。
―――まただ。
実は今日、王城を出てから幾度となく、誰かに見られているような気配を感じていた。その度に周囲の様子をそれとなく窺っているのだけど、未だ不審な人物を見咎めることが出来ていない。
今も、さり気なく周りを注視してみたけれど、視界の中にそれらしい人物は映り込まない。
―――でも、やっぱりいる。ずっとつけられている。
「シルフィール様、ここの角を曲がった先に珍しい雑貨を扱った露店がありますから、少しそちらをご覧になってお待ちいただけますか?」
突然のわたしの申し出にシルフィール様は空色の瞳を瞬かせた。
「どうかしたの?」
「すみません、急にお手洗いへ行きたくなりまして」
「そう。分かったわ、品物を見て待っているわね」
素直に頷いたシルフィール様と共に角を曲がり、彼女の背が露店へと向かうのを見届けてから、わたしはトイレへは向かわずに角を曲がってすぐの死角となる場所に身を潜めると、何人かやり過ごした後、そこを曲がって現れた怪しい人物の背後に立った。
旅人用の茶色いフードを目深に被った大柄な男とおぼしき人物―――こいつだ、と確信する。その人物の動作には音がなく、道行く人々とは明らかに雰囲気が違っていた。
「―――何か用?」
剣呑な響きを孕んだわたしの声と腰に押しつけられた短剣の気配に相手は足を止め、一拍置いて、聞き覚えのあるお気楽な声を返してきた。
「はは、バレたか。怪しい者じゃないからさ、その物騒なヤツ、しまってくれない?」
「―――!? あなたっ、何でこんなトコに……!」
こちらを振り返った茶色のフードからクリストハルト陛下そっくりの容貌が覗き、わたしは心の底から驚いて、とっさに彼の腰の辺りを蹴りつけるようにして近くの建物の隙間へと押し込んだ。
「うわっ、ちょっ、なんつー手荒な」
「うるさい! シルフィール様に見つかったらどうするの!」
小声でがなりながらシルフィール様の方を確認すると、露店の雑貨を物珍しそうに眺めている最中で、こちらには全く気が付いていない様子だった。
そのことに安堵しながら、目の前の青年へと向き直る。
「こんなところで何をしているのよ、陛下の影であるあなたが」
「何って、あんたらの……というか、シルフィールの護衛」
「は? 国王の影が直々に?」
「影っつっても、毎日その必要があるわけじゃないから。お役目がない時は可哀想にこうして雑用でこき使われてるんだよ。あいつさーぁ、重度のシスコンで、もう妹が可愛くて可愛くて、毎回用事を言いつけてはみるものの、内心は心配で心配で仕方ないワケ。本当は自分で見守りたいトコなんだろうけどそれが出来ないから、オレが毎度のようにこうして代わりに駆り出されてんの」
うわ、シスコンて。恐れ多くも一国の主に対して、何ていう歯に衣着せぬ物言い。
「……それ、陛下の前で言ったら顔以外、無事で済まなそうね」
「ところがあいつ、意外とそういう耐性あるんだよ。オレ、面と向かって普通に言っているけど、あいつ今じゃもう居直ってて、涼しい顔で流されるもんな」
いや、それ、普通の人は無理だと思うわ。あの陛下に面と向かってそんなことを言うなんて、絶対無理。どういう心臓をしているのよ。
国王と影武者って、主従関係にあるものなんじゃないの……? こんな言いたい放題言っていて許されるものなのかしら。それとも、この男は陛下と血縁関係にあるとか? これだけ見目が似ているし、有り得るわよね。公には出来ない不義の子で、それを影武者として取り立てているとか……? そう考えればこの男の物怖じしない言動も理解出来るか……。
「言っとくけど、オレとあいつは血縁関係にないからね」
「っ!?」
―――耳!? 出てた!?
思考を読まれ、思わず両手で耳を隠すと、軽く吹き出された。
「いや、今のはあんたの沈黙への推察。何でこの男は国王にこんな無礼な物言いをして許されているんだろうって考えてるのかなー? と思ったから、そこから発想を飛ばしてみた。耳には出てなかったよ」
くっ……! わたしのバカ、いらぬ恥を……!
「け、血縁関係にないなら、あなたと陛下はどういう関係なわけ?」
「んー、ワケあり?」
デカい男がわざとらしく小首を傾げて言う様が、盛大に腹立たしい。
「もういいわ。それにしても、こっそり“こんなの”を付けるくらいなら陛下もひと言言って下さればいいのに」
始めからわたし一人に大切な妹君を任せるつもりはなかったってワケね。合点がいく半面、何だかもやっとする。
「“こんなの”って……リーフィア、さらっとひどいね」
不意に名前を呼ばれて、陛下の対応を鼻白んでいたわたしは長身の相手の顔をまじまじと見上げた。
そして、気付く。思いの外(ほか)、彼と近い距離で喋っていたのだということに。
狭い建物の隙間に入って向かい合うわたし達の距離は、拳ひとつ分程しか空いていなかった。
「……わたし、あなたの名前、知らないわ」
陛下と同じ綺麗な空色の瞳を間近に眺めながらそう言うと、可笑(おか)しそうに微笑まれた。
「クリストハルトの影だよ」
「そういう不毛なやり取りいらない。不本意ながらこれからも関わりそうだし、単純に不便なのよ、あなたの名前を知らないと」
「異性の名を尋ねるのに、情緒もへったくれもない理由だな」
「仕事だもの」
愛想の欠片もないわたしの返答を聞いた影武者の青年は苦笑じみた笑みをこぼすと、ひとつ吐息をつき、ゆっくりとわたしの三角耳に唇を寄せて囁いた。
「ヴァルター」
―――不思議だ。
低くてほんのり甘いような、でもどこかほろ苦さを含んだ響きで彼の名前を聞いた瞬間、それまで「陛下の影」という、どこか浮世離れした存在だったこの青年が、突如一人の人間としての色を纏い、わたしの目の前の世界に現れたような気がした。
「人前ではあまり呼ぶなよ」
至近距離でそう念を押す彼の肌から仄かに立つ爽やかな香り―――昨日わたしに染みついたものとは違う、穏やかで清々しい印象の香り―――こちらが彼本来の匂いなのだと理解すると、何とも言えない奇妙な気分になった。
今まで王城で目にしていたヴァルターは「国王の影」であって、現実の「彼自身」ではなかったのだと、頭では分かっていたことを感覚として知った気がして、そんなことを改めて思った自分をどうかしていると感じた。
改めてそんなことを思うなんて、変ね……頭ではそういうことなのだと理解していたはずなのに。
「なあ―――シルフィール、街の男に声かけられているけど。いいの?」
「えっ!?」
ヴァルターの声で唐突に現実へと引き戻されたわたしが露店の方を見やると、彼の言う通り、シルフィール様が街の住人とおぼしき若い男性に話しかけられているところだった。
「! シル―――ケ、様!」
慌てて建物の影から飛び出し彼女の元へと駆け寄ると、シルフィール様に声をかけていた青年がわたしの姿を認めて表情を和らげた。
「ああ、やはりお付きの方がいらっしゃったんですね。こんなところにお一人でいらっしゃるような方には見受けられなかったので、解せないと思いまして」
褐色の髪と同色の瞳をした小綺麗な身なりの青年だ。貴族―――とまではいかないけれど、言葉遣いやその外見から察するに、裕福な家の子息か、貴人の家に仕えている者、といったところだろうか。
「申し訳ありません、所用でお傍を離れていた為、お手数をかけました」
折り目正しく礼を取ると、青年はふわりと笑んで自らの名を名乗った。
「いえ。僕はカインといいます。いらぬ世話で済んで良かった」
相手が名乗った以上、礼儀としてこちらの名を名乗らないわけにはいかなくなった。
「わたしはリーフィアと申します。主のシルケを気にかけていただき、ありがとうございました。では」
一礼してシルフィール様と共に足早にその場を立ち去ろうとしたわたし達に、カインが後ろから声をかけた。
「あのっ……! シルケ様」
立ち止まらないわけにもいかず、足を止めて振り返ったわたし達に、カインは人の良さそうな顔をうっすらと赤く染めてこう尋ねてきた。
「あの、僕はこのくらいの時間にこの辺りを歩いていることが多いんですが、シルケ様はその、時々こちらへいらしているのでしょうか……? 不躾ですみません、その、ご迷惑でなければまたの機会にもう少しお話を出来ないかと思いまして……。宜しければ、なんですが……お会い出来ますか……?」
ああ、スゴく分かりやすいわカイン……。勇気を振り絞って話しかけてきているのがひしひしと伝わってくる。同性のわたしから見てもシルフィール様はとても可愛らしい方だから、その気持ちはとてもよく分かるけれど、残念ながらこの方はあなたがどうこう出来る立場の方じゃないのよ。
申し訳なく思いながら善良そうな青年にわたしが断りを入れようとした時だった。
「ありがとうございます。確約は出来ませんけれど、時々こちらへは参りますので、縁があってまたお会い出来ましたら、ぜひ」
シルフィール様がにっこりと微笑んでそう応じ、わたしはぎょっとした。
シ、シルフィール様!? 何を!?
善良そうな街の青年を無自覚に弄ばないで下さい! いや、これはある意味、体のいい断り文句と言えなくもないのか!?
「本当ですか!? 嬉しいです……ありがとうございます! お見かけした時にはまた、僕の方から声をかけさせていただきますね!」
満面の笑顔になるカインを見て、わたしは何とも言えない罪悪感に苛まれた。
今ここでわたしが口を出すと変なふうにこじれる可能性が高いから、ここは会釈だけをして一刻も早くこの場から立ち去ることにしよう。うん、そうしよう。
幸い確約はしていないし、日時の指定があるわけでもないし、シルフィール様は滅多に街へお出ましするわけじゃない。たくさんの人が溢れ返る王都の中で、普通に考えたらこのまま二度と会わない公算の方が大きい。
「シルフィール様、カインがもう一度貴女(あなた)に会いたいと言っていた意味、分かってらっしゃいます……?」
街の片隅にわたし達を秘密裏に迎えに来ていた城の馬車に乗り込んだ後、確認の意味を込めてそう尋ねると、彼女は大きな空色の瞳を瞬かせて、至極真面目にこう答えた。
「こうして出会ったのも何かの導きと言えるのでしょうし、きっとそういう御縁を大切にされている方なんじゃないかしら?」
そうですよね、シルフィール様はそういうふうに考える方ですよね……。
憐れなカイン……。
わたしは心の底から彼に同情しながら、黄昏色に染まる窓の外へと視線を向けた。
そしてふと、どさくさのうちに別れたヴァルターのことを思い出す。
今日の彼の任務はシルフィール様の護衛ということだったけど、だとしたら今この瞬間も、彼はどこからかわたし達を見守っているんだろうか……?
赤く滲んだ街並に、その姿を見出すことは出来ない。
陛下とは赤の他人―――なのにうり二つの容貌をした青年ヴァルター、か……。
―――この時わたしは、まだ気が付いていなかった。
今回のシルフィール様のお使いに同行したことが、これからのわたしの運命を大きく変えていくものだったのだということを―――……。