西暦1862年-----南方に位置する常夏の国、マエラ。その片隅にある、とある小さな港町-----吹きつける海風の匂いが、時折ツンと鼻にしみる。
造船技術の向上や航海術の発展に伴い、ここ数年で急激に船舶数の増えつつある港は、海の男達の賑やかな喧騒に包まれている。
そこから少し離れた場所で防波堤に寄りかかり、あたしは一人午後の海を見つめていた。
あたしの名前は、オーロラ。
本名は、知らない。
三年前、背中に深い傷を負い、路地の片隅で倒れていたところを、偶然通りかかったこの町の酒場のマスターに救われた。
気が付いた時にはベッドの上で、見知らぬ天井が見えた。そこから、あたしの記憶は始まっている。
そう。それ以前の記憶が、あたしにはない。
自分の名前も、年齢も、何もかも-----目覚めた時には、全て、綺麗に忘れてしまっていた。
唯一確かだったのは、この町の、この国の出身じゃないということだけだ。
ここに住む地元の人達は、浅黒い肌に黒い髪、黒い瞳。
対するあたしは、白い肌に黄金色の髪、藍玉色(アクアマリン)の瞳。
外国から訪れる船舶の玄関口でもあるこの町では、外国人はさほど珍しくないこともあって、事情を知った町の人達はあたしを疎んじることもなく、とても親切にしてくれたけど、始めは言葉だって分からなかったし。
目覚めてからは、何もかもが本当に大変だった………。
その頃を思い出して、あたしはほろ苦い笑みを刻んだ。
『オーロラ』という名前は、命の恩人である酒場のマスターが付けてくれた。
異国で深い傷を負い、記憶まで失ってしまったあたしを心底不憫(ふびん)に思ったらしい彼は、あたしに踊り子として、自分の酒場に住み込みで働くことを提案してくれた。
そしてそれから三年-----記憶は全く戻らないまま、現在も、あたしは踊り子として小さな酒場のステージに立ち続けている。
「……広いなぁ」
ぽつり、と声に出してあたしは呟(つぶや)いた。
目の前に広がるのは、果てしない地平線。
-----あたしはいったい、この海の向こうの、どこの国で生まれたんだろう……。
そして、どういう理由でこの地を訪れ、どういう経緯(いきさつ)であの傷を負い、こんなことになってしまったんだろう……。
何度考えたか分からないそんなことをまた考えているうちに、いつの間にか空の色が茜色に変わり始めた。
あたしはひとつ溜め息をついて、赤く染まり始めた海に背を向けた。
日が沈めば、今日の舞台の幕が上がる。そろそろ酒場に戻らなければならない時刻だった。
海が、夕日を浴びて美しく輝いていた-----。
*
額に白銀のサークレットをはめ、耳に月をかたどったイヤリング、胸元に幾重にも広がるネックレスを着け、パールピンクの口紅をうっすらと唇に塗る。
今日踊るのは、海の男達の信仰厚い、海の女神『クリファナ』の舞。
胸元の大きく開いた純白のノースリーブの衣装を身に纏(まと)い、肩には薄い青(ブルー)の、光沢のあるストールを羽織る。
……若干衣装に着られている、という感じがしなくもなかったけど、それは考えないことにして、あたしは衣裳部屋の大きな鏡の前で自分の姿をチェックしつつ、出番の来る時を待った。
衣装の両サイドには深めのスリットが入っていて、動くとかなりの位置まで太腿が出てしまう。
お客で来る海の男達の中には、よからぬ思いを胸に踊りを見に来る輩(やから)も多かったから、下着だけは見えないように気を付けよう、と心の中で思ったその時、お手伝いのムエラがやってきた。
「オーロラ、出番だよー」
「はぁーい」
返事をして、踊り場へと続く通路へ歩き出す。
「今日も大入りだよ。あんたの評判を聞きつけて、近くの町からも大勢来ているから」
「やだー、脅さないでよぉ」
黄金色の髪、白い肌の踊り子は珍しいらしく、噂を聞きつけた人達で、小さな酒場は連日盛況を博していた。
「何言ってんの、今更あがることもないだろう? 今やウチの看板娘なんだから。そら、行っといで」
ムエラはそう言って恰幅(かっぷく)のいい身体を揺らすと、ぽーん、とあたしの背中を押した。
「うわっと……」
よろめきながら、隙間から光のこぼれる古ぼけたドアの前に立ち、呼吸を整える。
ここが開くと、今日のステージの幕が上がる。
-----あたしには、夢があった。
ドアが開け放たれると、アルコールと煙草の匂いに人々の熱気、そして割れんばかりの喝采があたしを包み込んだ。
「オーロラァー!」
「うおー、マジで白(しれ)ぇ!」
「カワイイ〜!!」
三年の間に培われた華やかな営業スマイルで声援に応え、チラリとマスターに視線をやると、彼はパチンとウインクして、奏者に演奏の合図を送った。
マエラ独特の弦楽器リーラから、幻想的な音色が流れ始める。
最初はゆったりと。そして徐々に躍動感溢れていくその旋律に合わせて、あたしは踊り始めた。
あたしの夢-----それはいつか、『自分』を探しに行くことだ。
今は、こうして日々踊って暮らしているけど。いつか……いつかね。
マスターに恩を返して、お金を貯めて。いつか……いつか、きっと、『自分』を探しに行く。
本当の、自分を。
いつか-----……。
踊りは、最初の盛り上がりに差しかかった。
その時、酒場全体に細かい振動が走り、窓ガラスやグラスが小さく震えたことに、その場にいた誰も気が付かなかった。
そして-----その瞬間は、唐突に訪れた。
ドォンッ!!
-----!?
「うわぁーっ!?」
突然下から突き上げるような衝撃に襲われ、虚を衝かれた人々が、一斉に驚愕の声を上げる。突然の揺れにバランスを崩したあたしは、ステージの上に転がった。
-----な……っ!?
驚いて顔を上げると、酒場全体がまるでオモチャのように揺れていた。
「なっ、何だ!?」
激しい縦揺れに、テーブルやイスが宙に浮き立ち、そこから転がり落ちた食器やアルコールの瓶がけたたましい音を立てて割れる。
「じっ、地震か!?」
振動はなおも激しさを増し、立っていることすら困難な状況になった。
「おっ、おい! 見ろっ……窓!」
あせりを含んだ誰かの声に窓を見やると、穏やかな夜の風景が広がっていたはずのそこには、いつの間にか禍々しいまでの漆黒の闇と、紫の稲光とが織りなす砂嵐の光景が広がっていた。
ガシャガシャーン!
砂嵐の風圧に負けた窓ガラスが激しい音を立てて砕け散り、酒場中のランプというランプが全て吹き飛ぶ!
「な、何だ!? 何なんだこりゃあ!?」
小さな酒場は大混乱となった。
ただの地震じゃ、ない。
あたしを含め、その場にいる全員が、不気味な力の干渉を感じていた。
そしてそれは、やがて目に見える形となって現れた-----螺旋状に渦巻くそれが、ある場所に向かって流れていく……暗黒の気流となって、あたしの元へ!
「きゃあっ!!」
ゴゥッ、と唸りを立てて、暗黒の気流があたしを包み込む!
「いやぁぁっ!!」
逃げなければ、と思ったけど、あまりの恐怖に身体がすくんで、動けない。
「オーロラッ!?」
「た、大変だ!」
マスターと何人かの客が、果敢にもあたしを助けようと手を差しのべてくれた、けど-----。
「ぎゃっ!!」
バチィッ、と暗黒の壁に弾かれ、手出し出来ない。
「ひっ、ひっ……」
それを見た他の客達は、我先に、と逃げ出した。
「ぎゃあぁぁぁーッ!!」
「踊り子がバケモノに捕まったぁーッ!!」
酒場は今や暗黒の磁場と化し、気流に飲まれたあたしを中心に、紫の稲光が怪しく行き交う。
「だっ……誰、かっ……」
いつの間にか、あたしの足元には深い暗黒の切り込みが円状にでき、そこから、どこから吹いてくるとも知れない突風が、怯えるあたしを激しくなぶった。
「……!」
息が出来ない。
目も……開けられない。
「た、す、っ……」
薄れていく意識の中、あたしが最後に感じたのは、暗黒の中に溶けてゆく自分だった。