ドヴァーフ編

迫りくる危機


 全速力で走っていたアキレウスは、建物を出る瞬間、反対側から回りこんできた人影に気が付かなかった。

 それは、向こうも同じことだったらしい。

 出会い頭に衝突し、軽量な相手が吹き飛ばされる。

「わりっ……」

 振り返ったアキレウスは、相手がエレーンだったことに驚き、息を飲んだ。

「……すみません、大丈夫でしたか?」
「いいえ、こちらこそ……」

 かぶりを振って立ち上がろうとするエレーンに、アキレウスはためらいがちに手を差し出した。

「申し訳ありません……」

 その手を取ってエレーンが立ち上がったその時、力と力のぶつかり合う波動によって生まれた衝撃波が、ひと際強く地上に向かって吹き荒れた。

「くっ……!」

 身体ごと流されそうになるほどの烈風。砂塵から目をかばうようにして腕をかざしたアキレウスを包み込むようにして、煽られたエレーンの淡い緑色(グリーン)の長衣(ローヴ)と白い外套(がいとう)が激しくたなびく。

「あ……?」

 強烈なデジャ・ヴが彼を襲った。


 真っ赤に燃え盛る、炎-----。

 それを映した、冷たい灰色(グレイ)の瞳……。

 全く見知らぬはずの、残酷で秀麗な、男の横顔-----。


「アキレウス様?」

 訝しげなエレーンの声が、彼を現実に引き戻した。

「……どうかされましたか?」
「いや……」

 心持ち青ざめながら、アキレウスは首を振った。

 何だ……今のは?

 心臓が、不快なほどに脈打っている。

 男の顔はもはや思い出せなかったが、その言いようのない存在感は、彼の胸に暗く重い影を落とした。しかし-----。

 迫りくる事態が、それ以上の彼の思考を中断させる。

「いったい、何が起きているのか……分かりますか!?」

 そう尋ねるアキレウスに、エレーンは首を振った。

「分かりません。何者かがこの王都の結界を破ろうとしている、としか-----」
「回廊の窓から、王都(ここ)へ向かう魔物(モンスター)の大群が見えました。これは……『暗黒の王子』が関わっていると見て、間違いないと思う」

 それを聞いたエレーンの表情が厳しさを増した。

「そうですか……私は、陛下の元へ向かいます。貴方は?」
「オレは街へ向かいます。助けなければならない人達がいる……住民達を避難させるのは、王城(ここ)でいいんですよね?」
「ええ。なるべく多くの住民達を受け入れるよう努力しますが、万が一防壁が突破された場合は籠城戦に備えて門扉を閉ざさねばなりません。お急ぎ下さい」

 頷いて、アキレウスは再び走り始めた。

 その後ろ姿を見送り、エレーンも再び走り始めた-----。



*



 異変を悟った国王レイドリックは主だった家臣達を招集し、素早く彼らに指示を出していた。

 魔物の大群は今や誰の目にも明らかにこの王都に肉薄しており、いつ破綻するやもしれない結界の現状にあっては、一刻の猶予もならなかった。

 さしあたっての急務は、一般市民をいかに早く避難させるか、そしてどのようにしてこの窮地を脱するかだった。

「アキレウスが……!?」
「追いましょう、パトロクロス。ラァムと一緒なら、オーロラもそこに向かっているのかもしれない」

 エレーンからアキレウスの話を聞いたパトロクロスとガーネットは、彼の後を追って街へと下りていった。

 彼らと入れ替わるようにしてドタドタと重い足音を立ててやってきたのは、王弟のアルベルトと彼の取巻き達だった。

「あ、兄上! これはいったい……!?」

 兄王の簡潔な説明を聞いたアルベルトは、そのぽっちゃりした顔を蒼白にして震え上がった。

「そ、そんな! 我が国の誇る結界が、そのような得体の知れぬ術で破られるなどッ……」
「有り得ないことではない。十年前の件しかり、だ。この結界は魔物(モンスター)に対しては非常に有効だが、悪意のある人間に対しては効かないのが欠点だ……。今、我が国の精鋭部隊が必死にその原因を探っている……。原因が取り除かれたなら、アルベルト-----私かお前が、結界を張り直すのだ」

 兄王の言葉に、肥満気味の王弟は細い目を白黒させた。

「わ、私が?」
「そうだ。この結界は、我が王家に代々伝わる秘術。王家の者しか扱えぬ、血筋に重きを置く血術だ。お前も知っているだろう」
「で、ですが-----」
「シャルーフの例もある。私に万が一のことがあった場合は、お前が時期国王としてその責務を果たさねばならない」

 国王の重い言葉に、シン、と室内が静まり返った。

 シャルーフはつい先日、魔物達によって滅ばされた技術者の国である。造船技術や機械技術において卓越していた国シャルーフは、突然の急襲を受け、反撃もままならぬまま、わずか一晩で壊滅してしまったのだ。

 生存者達の話によれば、たった四名の刺客によって-----。

 事態はそれだけ、切迫しているのだ。

 それを目の前に突きつけられて、アルベルトは激しく動揺した。

 彼はこの王都に張り巡らされた結界に全幅の信頼を寄せており、この結界がある限り-----魔物の浸入を阻むこの結界がある限り、今世間を騒がせている諸所の問題など、自分には全く影響がないことだと考えていたのだ。

 まさか、悪意を持った人間が王都に入りこみ、内側から結界を解除させ、魔物の侵入を手助けしようなどとは-----そのような愚か者がいようなどとは、夢にも考えていなかった。

 自らの生命に危険が及ぶなど-----自国の存亡がこの双肩にのしかかってくるなど、想像だにしていなかったというのに!

 脂汗を浮かべて言葉も出ないアルベルトに代わって、取巻きのロイド公爵が口を開いた。

「陛下、アルベルト殿下は今、お言葉も出ないほどの強い決意をその御胸に決意されたご様子……陛下にもしものことなど起こるわけがないと私めは自負しておりますが、頼もしい弟君を持たれて、我がドヴァーフの未来は磐石ですな」

 この男は古参の有力貴族で、前王時代にはそこそこの役職に就き甘い汁を吸っていた者の一人だった。 レイドリックの時代になって要職から外された彼は、アルベルト派の急先鋒となり、あることないことを王弟の耳に吹きこんで、異母兄弟を複雑な関係にしているのだった。

「この現状を前に磐石、とはいささか楽観的過ぎる発言なのでは-----」

 ムッとした表情で苦言を呈しかけたオルティスを制し、レイドリックは冷静にロイド公爵を諭した。

「まずは、生き残ることが先決だ」
「へ、陛下。私は何もこの状況を楽観視しているわけでは-----」

 言い訳がましい輩に背を向けて、国王は家臣達への指示に戻った。

「……絶対に、死ぬわけにはいかぬな」

 エレーンとオルティスだけに聞こえるようにこぼした国王の呟きを耳にして、二人は口元に微苦笑を浮かべた。

 エレーンは、長衣(ローヴ)の胸元を。
 オルティスは、外套の襟元を。

 それぞれ掴んで、こう応えた。

「はい、陛下」



*



 街は、未曾有(みぞう)の混乱に飲み込まれようとしていた。

 人々が心の拠りどころとしていた結界は今、得体の知れない禍々しい力によって破られようとしており、それによって生み出された衝撃波が、赤紫色の火花を散らしながら容赦なく地上へと降り注ぐ。

 強度の弱い小屋や露店等はその衝撃に耐え切れず、凶器と化して家屋にぶち当たりながら、その破片を辺り構わず飛び散らかす。木々は悲鳴を上げ、花達は引き千切られんばかりに踊り狂い、あるいは根こそぎ吹き飛ばされて、無残な姿を街中に散らせていく。

 発生した火災は衝撃波に煽られながらあっという間に燃え広がり、逃げ惑う人々の混乱にいっそうの拍車をかけた。

 更に追い討ちをかけたのが、今やハッキリと感じられるようになった地鳴りの音-----大地の鳴動が、嫌でも防壁の外に迫り来る“何か”の気配を感じさせる!

「ガーネット!」

 混乱する街並みを駆け抜けながら、パトロクロスは後ろを走る白魔導士の少女に声をかけた。

「何!?」
「色々と思うこともあるだろうが、今は-----」
「分かってる!」

 言いかけたパトロクロスの言葉を遮り、ガーネットは唇の端を上げた。

「バカにしないでよ、こんな時に私情は持ち込まないわ! あたしを何だと思ってるの!?」

 いつも通りの強気な彼女の台詞に、パトロクロスは知らず頬を緩めた。

「そうだな、すまない-----」

 有事においては自分の感情を捨てきれるガーネットの潔さ、的確な対応力が、彼は好きだった。

 軋む結界を肌に感じながら、二人は走り続ける-----仲間が向かっているはずの、孤児院を目指して-----。



*



 光の園(その)へたどり着いたアキレウスは、門の前で不安げに佇む家族達の姿をそこに見い出し、ホッと息をついた。

「園長(マザー)! みんな!」

 彼の姿を認めた家族達が一様に安堵の笑顔を浮かべ、駆け寄ってくる。

「アキレウス!」
「お兄ちゃん!」

 荒い呼吸を整えながら家族達を見渡したアキレウスは、幼なじみの少女の姿がないことに気が付いた。

「園長、ラァムは?」
「それが、朝出かけたきり戻ってきていないの。すぐに戻ってくるようなことを言っていたのだけれど……」

 そう説明するグレイスの瞳は心配そうに揺れていた。

「アキレウス、これは……? いったい何が起こっているの?」
「詳しい話は後だ。とりあえず、城に避難するぞ!」

 緊迫したアキレウスの声に想像以上に切迫する事態を悟り、孤児達の母は頷いた。

「……分かりました。でも、ラァムは?」

 一瞬のためらいを覚えた後、アキレウスはこう告げた。

「オレが、探しに行く。必ず連れていくから-----だから園長達は先に避難していてくれ」

 老齢のグレイスと子供達だけで避難させることは心配だったが、それより他に方法がなかった。

 何より今は、迷っている時間がないのだ。

 断腸の思いでアキレウスがそう告げた時、救世主となる二人組が現れた。

「アキレウスー!」
「パトロクロス、ガーネット!」

 喜色に顔を輝かせ、アキレウスは彼らを迎えた。

「お前達、どうしてここに!?」
「エレーン殿から聞いたんだ」
「そうか、丁度良かった。悪いけど、みんなを城まで連れていってもらえないか?」
「それは構わないが、お前は?」
「ラァムがいないんだ。探してから、連れていく」
「いないのか? じゃ、オーロラも……?」

 パトロクロスの言葉を聞いて、アキレウスは眉をひそめた。

「オーロラ……? どういうことだ?」
「お前の幼なじみが今朝、オーロラを訪ねてきたんだ。彼女に会ってくると言い置いて城を出たまま、オーロラは戻ってきていない」

 初めてもたらされるその情報に、アキレウスは目を見開いた。

「あたし達が出てくる時は二人とも城内にはいなかったの。ラァムと一緒なわけだし、アキレウスがこっちに向かったっていう話を聞いて、もしかしたら二人もここに向かっているんじゃないかと思って、あたし達も駆けつけたのよ。全員集合しようと思って」

 二人の話を聞くにつれて、漠然とした不安感が自身の胸の内に広がっていくのをアキレウスは覚えた。

 言いようのない冷たさを伴って、それは急速に全身へと広がっていく。


 脳裏に閃いたのは、無人の回廊。


 確かにオーロラの声が聞こえたと思ったのに、振り向いたそこには誰もいなかった。

『城壁のすぐ向こう側で、綺麗な光がパーッて上がっていたんです。空高く』

 耳に甦る、侍女の言葉。

 心臓が一回、鼓動を飛ばした。

「まさか……」

 茫然とアキレウスが呟いたその瞬間、ひと際眩い光を放って、魔法王国ドヴァーフの王都を包む結界は、消失した。

「……!!!」

 人々が天を仰ぎ、不気味な鬨(とき)の声が防壁の向こう側から大気を震わせて伝わる中、結界を打ち破った禍々しい赤紫色の光が被膜と化して、無防備となった王都を包み込む。

 その刹那-----王都にいた多くの人々が自身の身体に重大な影響が及ぼされたことを悟った。

 大人達は地に膝をつき、子供達は倒れこみ-----その影響を受け付けなかった人々はその光景を目の当たりにして、パニックに陥った。


「アキレウス、ガーネット!? 皆-----どうしたんだ!?」


 突然うずくまった面々に、パトロクロスが狼狽の声を上げる。

「パトロクロス-----あんた、何ともないのか?」

 ふらつく足で立ち上がりながら、アキレウスは彼に尋ねた。

「あぁ、私は何とも……いったいどうしたというんだ?」

 戸惑いを隠せない様子なのはパトロクロスばかりでなく、同じように影響を受け付けなかった何人かの子供達は半狂乱となって泣き叫んだ。

「園長、園長、大丈夫!?」
「みんな、みんな、どうしちゃったの!?」
「やだよ、しっかりしてよぉ! 怖い……怖いよぉー!」

 平常心を保とうと努力しながら、パトロクロスは不気味な被膜に包み込まれた王都を見渡した。

 この被膜が原因なのは間違いない-----だが、何故影響を受けた者と、そうでない者とがいる? その違いは-----。

 唇をきつく結んで、パトロクロスは頭を巡らせた。

 同じように影響を受けた者でも、アキレウスと比べるとガーネットの方が辛そうだ。彼は自力で立ち上がったが、彼女はまだうずくまったまま、立ち上がることが出来ない。

 彼らに共通していて、自分にはないもの-----。

「魔力……か?」

 ぽつりと呟いて、その意味するところに、パトロクロスは青ざめた。

 それを聞いたアキレウスが、ガーネットが、ハッ、と目を見開く。

 おそらくそれに、間違いはなさそうだった。

 国民の約四割が魔力を持つ言われる、魔法王国ドヴァーフ。

「何ということだ……!」

 絶望の呻(うめ)きが喉の奥からもれた。

「急がないと……」

 杖を支えに、ガーネットが立ち上がる。

「急に、きたから……身体がビックリしちゃったみたい。やっと慣れてきたわ……」

 その言葉を肯定するように、うずくまっていた面々がよろよろと起き上がり始めた。

「な……何なの、これぇ?」
「苦しい……重い、よぉ〜」

 彼らの言葉を総括すると、どうやら過剰な重力をかけられたような状態にあるらしい。赤紫色の被膜が張り巡らされた瞬間、急激にその負荷を受けた衝撃で、身体が一時的なショック状態に陥ってしまっていたようだった。

 どうやら強い魔力を持つ者ほど、その影響は顕著に現れるようだ。

 全員が歩ける状態であることを確認した後、アキレウスは改めてパトロクロスとガーネットに向き直った。

「みんなを……頼めるか?」
「あぁ、それは……。しかしお前、一人で大丈夫なのか?」
「それに、心当たりはあるの?」

 二人の問いに、アキレウスは頷いた。

「大丈夫だ。心当たりも……ある。多分、城の近くだ」
「そうか。無理はするなよ、皆を送り届けたら私達もすぐ向かう」
「ちなみに、お城の近くって……どこなの?」
「城壁のすぐ向こう側、っていうことくらいしか分からない。とにかく行って、探してみる」
「心許ないわね……」

 溜め息混じりのガーネットに苦笑を返して、アキレウスは言った。

「みんなを……頼む」
「分かった。任せろ」
「オーロラを頼んだわよ」
「あぁ」

 力強く頷いて駆け出そうとしたアキレウスの背に、心配そうなグレイスの声が飛んだ。

「アキレウス……!」
「大丈夫だよ、園長。ラァムは必ず連れて帰る」
「貴方も……無事で帰ってくるのよ、必ず」

 彼女の言葉に微笑み返して、アキレウスは走り出した。

「……行きましょう、パトロクロス。時間がないわ」

 青ざめた表情で促すガーネットを見つめ返して、パトクロスは声を上げた。

「-----よし、皆行こう。なるべく急いで王城に避難するんだ。元気な者は具合の悪い者に手を貸してやるんだぞ」

 今、魔力を持つ人々が味わっている苦痛がどういうものなのか、魔力を持たないパトロクロスにはそれを実感する術がない。したがって、ガーネットの状態も、かなり辛そうだということしか分からない。

 だが今は、差し迫る危機に、前へ進むしか道はない。

 だから、大丈夫か、とは聞かなかった。

 代わりに、彼女を-----彼女達を何が何でも守り抜こうと強く胸に決意して、パトロクロスは歩き始めた。



*



 まるで、身体が自分のものではないようだ。

 手も、足も-----ずっしりと重く、思うように動かせない。

 くそっ……。

 荒い呼吸を吐きながら、アキレウスはひた走る。

 その胸を占めるのは、二人の少女の安否と、自身への深い自責の念だった。

 気が付かなかった……気が付くことが出来なかった、自分は。


 あの時-----間違いなく、オーロラは自分を呼んでいたのだろうに!


 あせる心とは裏腹に、遅々として距離は進まない。

 それほどの魔力を持たない自分ですら、この状態なのだ。

 莫大な魔力を持つあの少女は-----オーロラは……。

 言葉に出来ない焦燥感が、きりきりと彼の胸を締めつける。

 思うようにならない身体を操って、アキレウスは混乱の深まる街を駆け抜ける-----。
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