魔物(モンスター)の返り血を浴びたアキレウスが、精悍な容貌を大きくしかめた。
彼の足元には、両断されおびただしい血を溢れさせたグロテスクな魔物の死体が転がっている。
ほどなくして辺りに異臭が漂い始め、周りにいたあたし達も思わずうっ、と顔を歪ませた。
くっ、さぁぁぁっ!
まるで、腐った卵と怪しい薬品を混ぜたような強烈な臭い。つーんと鼻にしみて、自然と涙が出てきそうになる。
「〜っ……、しまった……」
小さく舌打ちするアキレウスに、臭いのせいで若干涙目になったガーネットが眉をひそめながら声をかけた。
「スゴい臭いねー……早く洗い流さないと落ちなくなっちゃうわよー、血も臭いも」
パトロクロスも頷いて、渋面になったアキレウスを促した。
「とりあえず川を探そう。早く洗い流した方がいい」
そんなわけで、あたし達は近くの川を探して歩き始めた。
アストレアとドヴァーフとの国境の町ルイメンを経由してドヴァーフ領に入ったあたし達は、王都を目指して山越えをしている最中だった。
細い獣道に入り、クリックルから降りて手綱を引きながら歩いていた時、あたし達の背後から突然一匹の魔物が襲いかかってきて、それを最後尾にいたアキレウスが振り向きざまに斬り捨てた結果が今のこの状況だった。
「とんだ災難だったね」
水筒の水を含ませたタオルをアキレウスに渡しながらそう言うと、彼はそれで顔を拭きながら苦々しく吐き捨てた。
「ったく……最悪だ。自分が臭くて死にそうだぜ」
魔物の死体から離れるにつれて辺りの臭いは薄らいできたものの、返り血を浴びてしまったアキレウスからはその異臭が漂っていて、鼻の利くクリックル達からは敬遠されてしまっている。さっきまではアキレウスがクリックルの手綱を引いていたんだけど、今は代わりにあたしが手綱を引いていて、彼は可哀相に列の最後尾をぽつんと一人だけ離れて歩いていた。
「水の音がする……」
しばらくすると、先頭を歩いていたパトロクロスがそう言って立ち止まった。耳を澄ませてみると、彼の言う通り確かに微かな水の音が聞こえる。自然と早足になりながら、あたし達はその音の方へと足を進めていった。
たどり着いた先には、小さな滝があった。涼やかな音を立てて滝壷へと流れ込むそれを見て、ガーネットがアキレウスを振り返る。
「大きなシャワーみたいで丁度いいじゃない」
「ホントだな。じゃあ、ここでちょっと汚れを流させてもらうか」
小高い崖の上から降り注ぐそれは、確かに天然のシャワーという感じだった。
「そろそろ陽も暮れ始める頃だし、今日はこの辺りで野宿にするか」
パトロクロスが空を仰ぎながら言い、あたし達は早めに今日のキャンプを張ることにした。
アキレウスが汚れを洗い落としている間、パトロクロスとガーネットは火をおこす為の焚き木集めのついで、食べられそうな木の実なんかがなっていないか見つくろいに行き、その間、あたしは近くの川で汚れたアキレウスの服を洗うことになった。
「悪いな」
アキレウスは申し訳なさそうにあたしに上着を手渡したけど、あたしはむしろその役目が回ってきたことが嬉しかった。
「ううん。あたし、あっちの方で洗ってるから。終わったら声をかけてね」
滝が木の陰になって見えなくなるところまで行って、あたしは滝から注ぐ小川の水にアキレウスの服を浸し、携帯用の洗剤をつけて洗い始めた。この洗剤、洗浄成分のある植物の茎を乾燥させて粉末状にしたもので、旅人達の間では必需品となっている。仄(ほの)かだけど優しい香りがして、汚れも結構良く落ちるんだ。
丁寧に泡立てて根気良く洗っていると、ひどかった魔物の血の臭いがだんだんと薄らいできて、繊維に滲んでいた汚れも徐々に薄くなってきた。
あぁ、良かった。染みにならなくて済むかも。
あたしは手応えを感じながら仕上げに取りかかり、ややして、汚れを完全に洗い落とすことが出来た。
よーし、綺麗に落ちた! やったねっ!
アキレウスの服が洗いあがり、その出来栄えにあたしは満足して、今度はそれをすすぎにかかった。
大っきいなぁ、アキレウスの服……あたしが二人くらいは余裕で入るよね。
服をすすぎながらふとそんなことを考えていたら、何度か見たことのあるアキレウスの半裸が瞼に浮かんできてしまって、あたしは一人赤くなった。
首から胸にかけてのしなやかでたくましいラインに、綺麗に割れた腹筋、広い背中-----彼の胸の硬さ、温かさ、そして腕の力強さ。
うわ、あたしってば……やらしいかも。 男の人の身体を思い出して一人で赤くなってるなんて……。
あたしはぶんぶんと首を振り、煩悩を頭から追い出しながら、繊維を伸ばしてしまわないように丹念にアキレウスの服を押し絞った。
その時だった。
背後に不穏な気配を感じて振り返ったあたしの目に映ったのは、見覚えのあるグロテスクな容姿の魔物!
それも二体っ!!
げっ、コイツ……!
この山はこの魔物の巣窟なんだろうか。
あたしは顔を青ざめさせながら精神を集中させ、忍び寄ってきていた魔物達と対峙した。
大丈夫、この魔物は強さ自体は大したことがなかったはず。それに、魔法でなら問題の体液も飛び散らない!
あたしに気付かれたことを悟った二匹の魔物は、奇声を発しながら鋭い牙を剥いて襲いかかってきた。そのタイミングを見計らってあたしが放った紅蓮の炎が、一瞬にして魔物達を飲み込み、ギィッ、という断末魔を上げさせて、グロテスクなその身体をケシズミへと転じさせる。
や……やった……。
ほぅっ、と肩の力を抜いたその時だった。
「オーロラ!」
大剣を手に、腰にタオルを纏っただけのアキレウスが木の陰から現われて、あたしはぎょっと目を瞠(みは)った。
「きゃあっ! ア、アキレウス!」
アキレウスはケシズミと化した二匹の魔物を見て取ると、戦闘モードに入っていた気配をふっと緩めた。
「大丈夫-----だったみたい、だな」
そして真っ赤になったあたしの様子に気が付くと、ばつが悪そうに肩をすくめてみせた。
「あぁ、悪い。何か起こったっぽかったから……」
アマス色の髪から水滴を滴らせたアキレウスはいつもとは印象が違って見えて、しなやかな筋肉に覆われた均整の取れた身体は腰骨のラインまで見えてしまっていた。
ついさっきまで思い出していた記憶と重なる、けれどそれ以上に刺激の強い彼の姿に、あたしは軽い眩暈を覚えた。
うわぁ、正視できないよ……。
「……無事で良かった」
無言で視線を逸らしたあたしにそう言い置いて、アキレウスが静かに遠ざかっていく気配が感じられた。
-----あ! あたし、お礼言ってない!
にわかにそれに気が付いて、あたしはうつむいていた顔を上げた。
あんな格好であたしを助けに駆けつけてくれたアキレウスにひと言のお礼も言ってないなんて、最低だ。
「……アキレウス!」
数瞬の間にずいぶん距離の離れてしまった彼にお礼を言おうと、あたしは小走りで彼に駆け寄り-----あろうことか自分の足に引っかかって、振り返ったアキレウスの胸の辺りに飛び込むようにして頭突きをかましながら、彼もろとも地面の上に倒れこんでしまった。
「きゃっ!」
「……っ!」
普段のアキレウスだったら倒れるようなこともなくあたしをさっと支えてくれたんだろうけど、振り向きざまだったことと、倒れこむ際にあたしがとっさに彼の腰のタオルを掴んでしまったことが災いして、思うような体勢が取れなかったらしい。
「いたた……」
額をさすりながら半身を起こしたあたしは、自分がほとんど裸のアキレウスを組み敷いてしまっているような状態に驚いて、パニックを起こしかけた。
「うわわっ! ご、ごめっ……」
湯気を噴きながら謝罪の言葉を述べようとしたその時、自分のせいで彼の胸の辺りがうっすら赤くなっていることに気が付いて、あたしは一転、今度は青ざめながら謝罪した。
「わ、わ、わっ! い、痛い? 痛いよね、ごめん……!」
おろおろとその部分を労わるようになでていると、翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳をまん丸に見開いていたアキレウスがあたしの手首を掴んでそれを止め、溜め息をつきながら言った。
「オーロラ、自分が何してるか、分かってんのか?」
呆れたような響きを含んだその声に、あたしはうなだれながら謝った。
「うう、ご、ごめんなさい……」
助けに来てくれた人にお礼も言えないまま、頭突きをかました上、自分の下敷きにしちゃうなんて……我ながら最低だ。
「そうじゃなくて……」
深い息を吐きながらアキレウスが動いた次の瞬間、あたし達の位置は入れ替わり、あたしの目にはあたしを見下ろす彼と、茜色に染まった空が映っていた。
-----え?
突然の出来事に、あたしは藍玉色(アクアマリン)の瞳を瞬かせた。
な……、に-----?
アキレウスは何が起きたのか理解出来ず、茫然と自分を見つめるあたしを見つめ返して、いつもの彼とは違う、どこか大人びた表情を作った。
「こういうコト-----裸同然の男にむやみに触れるなんて、無防備すぎる」
濡れたアマス色の髪が、額に触れそうなくらいに近い。
アキレウスの影の下でようやく彼の言わんとする意味を理解したあたしは、急激に早くなる鼓動の音を覚えながら、でもどうすることも出来ずに、完全に硬直した。
そんなあたしを見たアキレウスは、ふっと表情を緩めると、あたしのせいで緩んでしまったタオルの結び目をきつく結び直しながら身体をどかし、冗談っぽくこう言い足した。
「それに、もしオレがパトロクロスだったら今頃死んでいるぞ」
あ、この台詞……最近聞いた。
数日前の出来事をあたしは克明に思い出した。それは、ガゼ族のイルファという少女に突然キスをされてしまった時に、アキレウスが口にした言葉と同じものだった。
あたしは地面に横たわったまま、まじまじとアキレウスの唇を見た。まじまじと見つめてから、そんな自分をアキレウスが見つめていることに気が付いて、大慌てで視線を逸らした。
やだ、あたし、何見てるの!?
そんな自分への驚きと、それをアキレウスに見られてしまった恥ずかしさから、一気に硬直が解けた身体を起こしつつ、あたしはこの気まずい雰囲気をどうにかしようと、無我夢中で口を開いた。
「う、うん……ごめん。そんなつもりなくて、ただ-----アキレウスにお礼を言おうと思っただけなのに-----結果的に頭突きとかしちゃって……あの、痛く……ない?」
あぁ、もう。自分でも何を言っているのか、良く分からない。
「平気だよ。それよりも、オーロラに押し倒されたことにビックリした」
「お、押し倒したわけじゃ……!」
真っ赤になって否定すると、アキレウスは笑みを含んだ視線をあたしに投げかけ、大げさに指を突きつけて、冗談とも本気ともつかないような発言をした。
「今度オレが裸の時にこんなコトしたら、その時はおんなじカッコにしてやるからな」
「ししししし、しないっ! 絶対にしないからっっ!」
激しくどもりながら力いっぱい首を振ると、アキレウスはどうかな、と睫毛を伏せ気味に軽く笑った。
その表情が妙に艶っぽくて、あたしは心臓が壊れそうなくらい高鳴るのを覚えながら、もう一度力を込めて否定した。
「もう二度と、絶対にないからっっ!」
「はいはい、分かったよ。-----もう一度水を浴び直してくる」
あたしのせいで泥だらけになってしまった背中を向けるアキレウスの姿が木立ちの向こうへ消えていくのを見届けた後、あたしはへなへなとその場に座りこんでしまった。
ビ……ビックリ、した……。
心臓の鼓動が速い。全身が微かに震えているのが分かった。
まるで、白昼夢みたいな出来事だった。
あたしは手に握りしめたままの彼の衣服にのろのろと視線を落とした。せっかく綺麗に洗ったのに、転んだ拍子にこちらも汚れてしまっている。
あたしは悩ましい溜め息をこぼしながら、足に力を入れて立ち上がり、もう一度アキレウスの服をすすぐ為、川べりへと移動した。
どうしようもなく頬が火照っているのは、垣間見てしまった、いつもとはあまりに違うアキレウスの顔のせいだった。
*
焚き火が暖かな色合いで、薄暗く染まった山中を映し出す。
「お、スゲー綺麗になってる! オーロラ、サンキュ」
焚き火の前に立てかけられた自分の上着を見て顔を輝かせるアキレウスは、もういつものアキレウスで、あの時みたいな雰囲気は微塵にも感じさせなかった。
みんなで焚き火を囲んで雑談しながら取る簡素な夕食も、パトロクロスとガーネットとのやり取りも、まったくいつも通りの、ありふれた日常の光景で-----。
そんな中に在りながら、あたしは一人だけ、いつもの日常から取り残されてしまっていた。
みんなの前では普通に振舞うように心掛けているけれど、ふと気が付くと、さっきの、あの時の出来事に頭が行ってしまっている自分がいる。
何ていうか……アキレウスの男性としての部分を初めて見てしまったような気がして、変に意識して、それに囚われてしまっている自分がいた。
いや、もちろんあたしは彼のことを一人の男性として見ているわけで、男性としての彼に好意を持っているんだけど。けれど、それとは違う意味でというか、何というか。
彼の行動に、何だかひどく男の人を感じてしまったというか……。
「ねぇ、何かあったの?」
そんなあたしの様子に気が付いたガーネットがこっそりと尋ねてきた。彼女は戻って来た時から何となく、あたし達の(というか、一方的にあたしの)異変を感じ取っていたらしい。
-----何があったかなんて、いろんな意味で恥ずかしくて言えない!
「え? 別に何も……」
あたしはそんなふうに終始ごまかしていたんだけど、その様子を猫みたいな表情で窺っていたガーネットは、まるで全てを悟っているかのような顔をしてこう言った。
「ま、いいか。落ち着いたら教えてよ」
だ、だから何もないって言ってるのに……。
あたしはよっぽど、分かりやすい性格をしているらしい。
そんな自分に少々頭を痛めながらも、気が付くと、あたしの意識は再び今日の出来事に沈んでいた。それを思い出して、とくん、と自分の心臓が反応するのが分かる。
ビックリしたけど、でも少しだけ、嬉しかったな。
ほんのり頬を染めながら、あたしはその思いをかみしめた。
アキレウスがあたしのことを、一応女性として見てくれているらしいことが分かったから。
アストレアで偶然耳にしてしまった『子供を見守る親』発言に少々心を痛めていたあたしは、今日のアキレウスの言動に妙な安堵感を覚えていた。
少なくとも異性としての意識がなかったら、あんなこと、言わないよね……。
そして、前より少しだけ欲張りになっている自分の心を自覚する。
あたしの知らないアキレウスを、もっと知りたい。
いろんな彼の表情を見てみたい。
そして、いつか。
あたしだけしか知らない、アキレウスの顔を見ることが出来たらいいな-----。
それは小さな夢にも似た、叶うかどうかも分からない、ささやかな願望。
叶うといいな、と願わずにはいられない、あたしの恋心-----。