覚醒編

記憶のカケラ


 荒れ狂う鉛色の空に、紅(くれない)の翼を羽ばたかせて地上を見下ろす男が一人。

 その髪と瞳は翼と同じ紅い色-----切れ長の吊り上がった瞳は暴力性の強い光を放ち、短い頭髪は男の殺気を表すかのように天に向いている。

 先端のとがった、人間よりわずかに大きい耳と、口元から覗く鋭い牙。

 筋肉質な肉体にいかつい金属製の鎧を装備した彼の足は、人間(ヒト)のそれとは異なり、頑丈な鉤爪を有した猛禽類のものだった。



 ドクンッ。



 その姿を目にした瞬間、全身を貫いた言い知れぬ負の衝撃に、あたしは呼吸を止めた。



 打ち据える雨の中、見開いた瞳に映るのは、初めて目にする異形の戦士。

 異質にして強烈な存在感を放つ、けれど、初めて目にするはずの、戦士。

 なのに、まるで見覚えがないはずのその姿が、あたしの中の薄暗い何かを刺激する。

 無視出来ないその何かに背中の古傷が共鳴して、自然と身体が震え出す。

 それは、くしくも四翼天セルジュと遭遇したあの時と同じ感覚だった。

 ……どうして!?

 唇をきつく結びながら、あたしは蒼白な顔をしているだろう自分に向かって、問いかける。

 実際にその姿を目にしているからなのか、セルジュの時以上に強く“それ”を感じる。

 無意識に噛みしめていた歯の根がかちかちとなった。

 それは、恐怖。

 まるで-----魂の根源を揺さぶるかのような、恐怖。

 分かる。これは、恐怖だ。

 でも、何故? どうして?

 もっと恐ろしい姿をした魔物(モンスター)を、生命の危機を覚える状況を乗り越えてきた経験が、あたしにはあるはずなのに。

 何よりも、信頼出来る仲間達が側にいる。

 目の前の存在から暗澹(あんたん)とした強大な力の波動は感じるけれど、こんな-----こんな、尋常でない精神状態に追い込まれるほどの状況じゃ、ない。そのはずなのに。



 なのに、何故?



「てめえ……何者だ」

 アキレウスが険しい表情で誰何(すいか)の声を投げかける。男は可笑(おか)しそうにくつくつと喉を鳴らすと、臨戦態勢を取るあたし達をゆったりと見渡した。

「ヒトにモノを聞く態度じゃねェなぁ……」

 その様子からは男の余裕が窺える。剣を構えたパトロクロスがそんな男を油断なく見据えながら口を開いた。

「聞かずとも見当はつくがな……シャルーフを襲った四人の刺客のうち、一人は鳥のような翼と猛禽の足を持つ異形の戦士だったという。貴様……四翼天の一人だろう?」

 その情報は、ドヴァーフ城でレイドリック王からもたらされたものだった。

 一人はこの世のものとは思えないほど美しい、エルフのような耳をした、長い黒髪の女。
 一人は音もなく大剣を振るう、黒衣の剣士。
 一人は鳥のような翼と猛禽の足を持つ、異形の戦士。
 一人は愛らしい少女の姿をした、人にあらざる色彩を持つ魔性。

 男をひと目見た瞬間から、全員が直感的にそれを悟っていた。みんなを包むかつてないほど緊迫した空気がそれを物語っている。

 セルジュと同じ、四翼天……!

 圧倒的な力の気配を身に纏った男は、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)、といった風情で言葉を紡ぐ。

「オレが何者か、ねェ……ま、四翼天の一人ってのは否定しねェ。もっと詳しく聞きたけりゃ、そこの女に聞けよ。なぁ……」

 残忍な色を宿した紅い瞳が、あたしを捉えた。



「イヴ」



 ----------!?



 予想外の展開に、みんなの表情がぎこちなく崩れる。一拍遅れて、その視線があたしへと集まった。

 けれど、突然のことに驚いたのはあたしも同様で-----ううん、それに誰より驚いていたのはあたし自身で-----投げかけられた言葉の意味が全く理解出来ず、何も反応出来ないまま、ただ目を見開いて硬直した。

 え……!?

 な、に……!?

 何が起こったのか、どういうことなのか、混乱して、頭が正常に働かない。

 イヴ……!?

 あたしの、こと……!?

 何で、どうして、四翼天が!?

 愕然とするあたしの長い黄金(きん)色の髪を、強風が宙に散らせていく。

 ずぶ濡れになりながら、一言も発することが出来ないまま、あたしはただその場に立ち尽くした。



 荒れ狂う風雨の中、辺りは一瞬、異様な沈黙に包まれた。



「イヴ……?」

 身構えたまま瞳だけを動かして、アキレウスがあたしと四翼天の男とを注視する。

「もっとも、オレらがそう呼んでんのを、その女ぁ知らねェけどな」
「……。どういうことだ……?」
「さぁて……どういうコトかねェ……」

 人を食ったような態度を取りながら、男はなぶるような眼差しをあたしに注いだ。

「青ざめた、いい表情だねェ……記憶ってヤツぁ失っても、肉体(カラダ)の方は深ェ部分で覚えているみてェだな。細胞が、忘れられねェってヤツか?」

 鋭い牙を覗かせて、男の口元がゆっくりと、笑みの形に裂けた。

 苛虐(かぎゃく)の愉悦が滲んだ、凶悪な笑み。

「たっぷりと刻んでやったもんなぁ、お前の肉体(カラダ)に。傷が、疼くか?」

 追い詰めるような男の台詞(セリフ)に、呼吸が止まる。

 まるで自分の周囲だけが現実から切り取られて、深い闇の空間に落とされていくような感覚-----ここではない、いつか、どこか-----突如として闇の中から浮かび上がった映像の断片達が、走馬灯のようにあたしの中を駆け抜けていった。



 氷のような光を放つ、蒼天色(スカイブルー)の瞳。



 激痛を伴ってちぎれる、肉の音。



 舞い散る、白い-----……。



 めくるめくフラッシュバックに、頭が割れてしまいそうな痛みが襲う。



 痛イ……痛イ!



 記憶の奥底に深く深く埋もれていた“いつか”の光景が、鮮明な色彩(いろ)を纏って甦る。



 溢れ出てぬめる、生々しい血の感触。



 倒れ伏した、石畳-----冷んやりとした、その匂い。



 殺サレル……殺サレル-----!



 切迫する、生への渇望。



 気が遠くなるような映像の奔流に、眩暈がする。頭が割れそうに痛い。口の中がカラカラに渇いて、息苦しさに喘ぐような吐息がこぼれる。



《オーロラ!》



 あせりを含んだアキレウスの声が、どこか遠いところでぼんやりと鼓膜に届いた。収縮する瞳孔に何かが映った、と思った次の瞬間、目の前に紅い色彩を持つ男が出現していた。

 去来する記憶の只中にいたあたしには、それこそ男が瞬間移動したように見えた。

 間近で凶暴な笑みが弾けるのを目の当たりにしながら、あたしはまるで蛇ににらまれた蛙だった。硬直したまま、微動だにすら出来ない。

 乱暴に顎を掴まれ、信じられない力で持ち上げられる。両足が宙に浮き、自重で顎の骨が軋んだ。

「オーロラ!」

 アキレウス達が顔色を変えて四翼天に囚われたあたしの周りを取り囲む。

 その状態になって、あたしはようやく自分の顎を捕える男の腕を掴み、両足をばたつかせた。遅ればせながらの抵抗に、男が嘲笑を送る。

「記憶喪失、ってェのはどんな気分だ? あ?」

 鋭い爪が容赦なく皮膚に食い込んで、ギリギリとした痛みを伝えてくる。

「辛ェか? 切ねェか? 思い出してェと願うモンか? だがなぁ……記憶を失ったままの方が幸せ、ってコトもあるんだぜ……? さぁーて、お前の場合はどうかなぁ……?」

 ギラついた紅い瞳が、間近で楽しげに細められる。

「オーロラから手を離せ!」

 語気鋭く迫るアキレウスを男は鼻であしらった。

「あぁ? そう言われて従うバカがいるかよ……黙って見てろ。オレは遊びを邪魔されんのが何よりキライなんだ、妙な横槍入れやがったらソッコーコイツの顎を粉々にすんぞ」
「何だと……!」
「おっと、顎だけで済むかなぁ……?」
「てめえッ……」

 アキレウスの全身から抑えきれない激情が黄金のオーラとなって溢れかけている。パトロクロスもガーネットも息を凝らしてあたしを助け出す隙を窺っているけれど、この状態ではどうすることも出来ない。

「まぁそうあせんなよ、おめェともそのうちたっぷり遊んでやっからよ」

 下卑た笑みを浮かべながら、男はもがくあたしへと視線を戻した。左腕一本で目の前に吊るされた状態のあたしに、屈強なもう一本の腕がこれみよがしに伸びてくる。

 言い知れない恐怖に背が竦(すく)む。どうにか逃れようと身体を捻ってみたけれど、頑強な腕はびくともしなかった。

「なぁ、イヴ、見せてみろよ……オレがお前に刻んでやった傷痕を、なぁ!」

 言うなり、男は驚異的な膂力(りょりょく)で皮製のあたしの外套を引きちぎった。これから何が行われるのかを悟り、青ざめるあたしの短衣(チュニック)のうなじ辺りに再び無骨な手がかかる。為す術もないまま、無残な音を立てて布地が下へと引き裂かれた!

「!!!」

 これまで衣服に守られていた肌が突然冷たい風雨に晒されて、うなじから腰の辺りまでが露わになったのが分かった。

 あたしはぎゅっと目をつぶって、残りの衣服がずり落ちてしまわないように、とっさに両手で胸の前を押さえた。あたしの背に刻まれた古い大きな傷跡が、みんなの前に晒されているはずだ。

 周囲の緊張感が増し、一触即発の気配に満ちる。

 男は薄い笑みをたたえてしばらく見せつけるようにそうした後、あたしの顎を捕える頑強な手首を返して、あたしの身体の向きを変えた。あたしはみんなの方を向く形になり、露わになった背中を男の眼前に晒すような格好になった。

 緊迫したみんなの表情が、切迫する今の状況を如実に物語っている。

 こんな状況に陥っても、あたしはまるで声を失ってしまったかのように、悲鳴のひとつも上げられずにいた。恐怖と混乱の極致で、それに気付く余裕もなかった。

「くく……」

 寒気がするような響きを伴い、野獣のような男の息が剥き出しの肌にかかる。見えない分、何をされるか分からない恐怖が増して全身が強張った。

「これだけの傷を負いながら、よくもまぁあの状況を逃げ延びたモンだ」

 鋭い爪が揶揄するように、背骨を挟んで左右に一筋ずつ縦に走った、古い大きな傷跡をなぞっていく。

 それがまるで、恐ろしい何かの蓋を開いていく儀式のように思えて、突き上げてくる恐怖に悲鳴を上げることもかなわないまま、あたしは大きく背をのけぞらせた。

 危機感と本能的なおぞましさから歯の根が合わないほど震え、生理的な涙が両目から溢れて頬を濡らしていく。

 入り乱れる記憶と襲い来る現実に打ちのめされ、あたしは完全な恐慌状態に陥っていた。

「オーロラ……!」

 のっぴきならない現況にきつく剣を握りしめてこちらを見つめるアキレウスと目が合った。

 燃え立つような輝きを放つ翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳があたしの藍玉色(アクアマリン)の瞳を深く照射し、いつかの彼の言葉を脳裏の遠いところに思い起こさせる。



『オレ達は仲間だろ? どんな能力(チカラ)を持っていたって、オーロラがオーロラであることに変わりはないだろ? パトロクロスだって、ガーネットだって、きっとそう思っている。そんなふうに何でも一人で抱え込まないで、もっとオレ達を頼れよ-----お前が辛い時には、オレ達が支えてやる。それが仲間ってモンだろ?』



 あたしは震える両眼を見開いた。



 自分という存在をありのままに受け止めてくれる、何よりも心強い、かけがえのない存在を得ることが出来たと感じたあの時-----こう、決意したはずだった。

 もう、恐れない。

 例えどんな存在だったとしても、あたしはあたし-----全てを、受け止める。



「思い出してみろよイヴ……この傷を負い、お前が“何”を失くしたのか」

 睦言でも囁くかのような声音であたしの耳朶をなぶりながら、魔獣のような男は生暖かい舌を伸ばし、無遠慮にあたしの過去と繋がる傷をなめ上げた。

 虫唾が走るような厭(いと)わしさと背を突き上げるような戦慄とが走るのと同時に、あたしの中の何かが弾けた。



 その瞬間、視界が白く開けて燃え上がり、それはあたしの喉から迸(ほとばし)る絶叫となって、それまでのあたしを捕えていた目に見えぬ檻-----恐怖-----を破壊した。



「イヤ、アぁァあ-----------ッッッ!!!」



 熱いチカラの奔流が、めくるめく閃光を伴って古い傷を突き破り、溢れ出す!



「ククク……!」



 してやったり、とほくそ笑む悪魔の残響を薄れゆく意識の片隅で捉えながら、あたしは失われた時の扉を開けた。



 ああ、そうだ-----……。



 これまで抜け落ちていた全てのピースがカチリとはまり、あたしの中でひとつとなる。



 思い出した。



 深層意識の底で、あたしは自分をぎゅっと抱きしめた。



 ようやく、あたし自身を取り戻した。






 そうだ-----……あたしは、“人”ではなかった------。






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