アストレア編

懸念


 その日は朝から薄曇りの空模様だった。

 時折雲の切れ間から太陽の光が差し込んだりするものの、遠くの方から、鉛色の雲が近付いてきているのが見える。

「午後にはひと雨くるやもしれぬな……」

 銀色の甲冑に身を包んだ、がっちりした体格の長身の騎士が、空を見上げてそう呟(つぶや)いた。

 この人はラオス将軍。

 今日あたし達と行動を共にする、アストレアの精鋭部隊の責任者。最高武官であるマーズの右腕的な存在らしい。

 年の頃は三十代前半かな。日に焼けた肌に、ツンツン立てた短い金髪。

 物静かな喋り方だけど、威風堂々としていて、ものすごく存在感がある。

「かなりデキるな……」

 アキレウスがそんなことを言っていたから、将軍というだけあって、腕の方も相当立つんだろうな。

 ハンヴルグ神殿へ視察という名目で向かうのは、あたし達とマーナ姫、そしてラオス将軍旗下(きか)のアストレアの精鋭十五名。そして、別隊で将軍の部下五名がリトアの祠(ほこら)へ調査に向かうことになっていた。

 マーナ姫は美しい刺繍の施された白い長衣(ローヴ)を身に纏い、美術的な価値をうかがわせるレリーフの刻まれた短刀を腰に装備した姿で、その顔色は蒼白だった昨日に比べて、若干良くなっているように見えた。

「姫……おかげんはいかがですか? まだ少しお顔の色がすぐれぬようですが……」

 体調を気遣うラオス将軍に、彼女は瞳を伏せ、静かに首を振った。

「大丈夫です、ラオス。気になさらないで」
「しかし……無理をなさって、お身体に負担がかかっては……後日に日を改めるという選択肢もあるのですよ」

 するとマーナ姫は、鋭い口調でそれを制止した。

「いいえ、ダメです! この機会を逃(のが)したら……お父様に、もう二度と了承していただけないかもしれない! 私(わたくし)なら大丈夫です、さぁ出立しましょう!」
「姫……」

 その剣幕に少々驚きながらも、ラオス将軍はやんわり彼女を諭(さと)そうとしたけれど、彼女は頑(がん)として神殿への出立を訴えた。

「誰が何と言おうと、私は行きます-----たとえ一人でも! 私の意志は、変わりません」

 彼女の青玉色(サファイアブルー)の瞳は絶対の意を放っていて、その意志の強さに、ラオス将軍は舌を巻いたらしかった。困惑した様子で、背後のパトロクロスを振り返る。

 きっと、マーナ姫がこんなにも強く自分の主張を押し通そうとしたことは、今までになかったんじゃないかな。普段は控えめで、聞き分けのよさそうな感じがするもん。

 さっきの剣幕には、あたしも少し驚いた。儚(はかな)げなイメージのある彼女だけど、こんなに強い物言いもするんだ。

 パトロクロスもやや驚いた様子だったけど、彼は落ち着いた口調でマーナ姫に話しかけた。

「貴女のそういうところは、初めて見ました」
「……あきれられましたか?」

 うつむく彼女にいえ、と言い置いて、パトロクロスは続けた。

「……貴女のお気持ちは良く分かりました。そう言い出せば決して引かない頑固なところも、一昨日街でお会いした時に知りました。しかし、ラオス将軍の言葉にも留意して下さい。彼は、フォード王から貴女の身を託されているのです。途中で体調が悪くなるようなことがあれば、問答無用で引き返します-----それでいいですね?」
「……分かりました」

 マーナ姫が頷いたのを見届けて、パトロクロスはラオス将軍を振り返った。

「ラオス将軍、これでいかがかな?」
「はっ……。承知致しました」

 その時、それまで黙ってその様子を見守っていたガーネットが、パトロクロスに静かに歩み寄り、こう申し出た。

「パトロクロス、あたし、リトアの祠の方へ行ってもいいかしら」

 えぇ!?

「ガーネット?」

 突然のその申し出に、パトロクロスは幾分驚いた表情を見せた。

「……少し気になっていたことがあるの。それを調べて、終わり次第ハンヴルグ神殿へ向かうわ」

 そういえば、朝からガーネットは口数が少なめだった。昨日も遅くまで調べものをしていたみたいだし、ずっと何か考えていたことがあったのかな。

「しかし、お前一人では……リトアの祠へ行く分には同行者もいて問題なかろうが、その後ハンヴルグ神殿へ向かうのは-----」
「オレが一緒に行くよ」

 パトロクロスの声にアキレウスの声が重なった。

 えっ!?

「アキレウス……」

 目を見開くガーネットに、彼はパチッと片目をつぶってみせた。

「だったら問題ないだろ?」
「あ、あぁ……。しかしお前達、ハンヴルグ神殿への道のりは分かるのか」

 戸惑い気味のパトロクロスに、アキレウスは大きく頷いた。

「任せとけ。だてにこの稼業で食ってねーよ」

 そう言ってガーネットを見やる。

「-----ってコトだ」
「アキレウス……いいの?」
「調べたいコト、あるんだろ?」
「……えぇ!」

 そんなわけで、あたし達は急遽(きゅうきょ)二手に別れることになった。

 移動する為自分の荷物を手にしたガーネットは、あたしの耳元でこそっと囁いた。

「ゴメン。ちょっと借りていくわね」
「べ、別にあたしのモノじゃ……!」

 赤くなりながらそう言うと、彼女は笑ってあたし達に手を振った。

「じゃ、後でね! オーロラ、パトロクロスのこと頼んだわよー!」
「う、うん。任せて!」
「あのなぁ……」

 はふぅ、とパトロクロスが溜め息をつく。

「気を付けて……行ってきてね」

 アキレウスにそう声をかけると、彼は唇の端を上げて、頼もしく微笑んだ。

「終わり次第そっちへ向かう。それまで頼んだぞ」
「……うん!」

 この世界へ来てから、アキレウスとこんなふうに離れるのって初めてだ。

 ちょっと心細いけど、パトロクロスもアストレアの精鋭達もいるし、これはあたしが成長する為の、親離れする為の第一歩だと考えよう。

「気を抜くなよ」
「そっちもな」

 アキレウスはパトロクロスと軽く掌を合わると、ガーネットと共にリトアの祠班の元へと向かった。

 そして-----ほぼ当初の予定時刻通り。

 あたしとパトロクロスはハンヴルグ神殿、アキレウスとガーネットはリトアの祠へ向けて、それぞれ出発したのだった。



*



 そっか。アキレウスがいないっていうことは、こういうことなんだ。

 あたしがそれに気が付いたのは、馬に乗る段階になってからのことだった。

「オーロラは馬には……」
「……乗れない」

 あたしにそれを尋ねた時点で、パトロクロスも気が付いたらしかった。

 今までは馬じゃなくてクリックルだったけど、あたしはいつもアキレウスの後ろに乗せてもらっていたんだ。彼に乗せてもらうことが当たり前になっていて、自分で乗る練習をしたことがなかった。

 練習しておけば、同じような要領で馬に乗ることも出来たかもしれないのに。

 どうしよう……パトロクロスは女の人が苦手だし、誰か違う人に一緒に乗せてもらう? でもちょっと抵抗があるなぁ……。

 困っていると、パトロクロスがこう申し出てくれた。

「じゃあ、私の後ろに乗るといい」
「えぇ!? 大丈夫なの?」

 思わずそう尋ねると、彼は声をひそめてこう言った。

「前に言ったろう、弱点を克服する為に積極的に努力をしている、と。最近は重い課題をこなしてきているし、我ながら少し強くなっている気はするんだ。あれのようにべったりくっつかれなければ大丈夫だ」
「すごーい、ガーネット効果だね!」
「コラコラ、妙な名前をつけるんじゃない」

 パトロクロスも努力しているんだなぁ……。

 彼の後ろに乗せてもらいながら、あたしはアキレウスのものとは違うその広い背中を見つめた。

 後ろでひとつに結ばれた、サラサラの褐色の髪。香りも、当たり前だけどアキレウスのそれとは違う。

 何だか新鮮で、変な感じ……。

「ねぇ、パトロクロス。今度馬の乗り方を教えて」

 そうお願いすると、彼は快く承諾してくれた。

「あぁ、いいとも」

 あたしも、努力しなくちゃ。

 今を生き抜く為に、ひとつずつ自分の出来ることを積み重ねていこう。

「出立(しゅったーつ)!」

 ラオス将軍の号令が下り、あたし達は一路ハンヴルグ神殿へと向かって進み始めた。

 マーナ姫はラオス将軍の後ろに騎乗していて、厳しい表情でじっと前方を見据えている。

 昨日廊下で見た時と同じ表情だ、とあたしは思った。

 今日の彼女の意気込みは、すごかったもんね……彼女は彼女なりに、色々と思うところがあるんだろうな。

「パトロクロス……」

 彼にあまりくっつかないように気を遣いながら、あたしは話しかけた。

「何だ?」
「ガーネットから何か聞いていた? 気になることって、何だろうね?」
「さぁ……私もそれらしいことは聞いていなかったな。ただ、ガーネットのことだ……今回の件に絡んで、何か重要なヒントのようなものを見つけたんだろう。あれはカンがいいし、知識も深い。ぎりぎりまで考えて決断したことだ、必ず何かの確証を手土産に戻ってくるだろう」

 へぇ……。

「パトロクロスって、ガーネットのこと信頼しているんだね」

 そう言うと、彼の頬がかあぁ、と赤くなるのが分かった。

「信頼というか……まぁ、あれの能力は評価している。それに今回は、アキレウスも一緒だしな……」

 あーあ、照れちゃって。何だか可愛い。

 くすっと笑ったのが聞こえたのか、パトロクロスは真っ赤な顔であたしをにらんだ。

「何がおかしい?」
「んーん、何でも。ねぇ、神殿にはどのくらいで着くんだっけ?」

 話題をすり替えると、パトロクロスは素直にそれに応じた。

「ふむ……休憩をはさみながら行くとして、何事もなければ夕刻には着くはずだ。まぁ今日は移動のみで、本格的な神殿内の調査は明日以降になるだろうな。マーナ姫の気が済むまで居てやりたいところだが、フォード王から許可が下りたのは五日間。四日後にはアストレア城へ戻らねばならん。神殿に滞在するのは実質三日間ということになるな」
「……何か、起こると思う?」
「起こってほしくはないが、そう心構えしておいた方がいいだろうな」

 彼はそう言って、肩をすくめてみせた。

「その時にはオーロラの活躍を期待するよ」
「あたし、そういうキャラじゃなかったはずなんだけどなぁ……」
「ウチの女性陣は最恐(さいきょう)だ。向こうが逃げ出すかもしれないな」

 もー、パトロクロスったら。

 ちょっと仕返しするつもりで彼の腰をぐっと掴んだら、

「うわッ!」

 という予想外の大きなリアクション。

 アストレアの精鋭の皆さんの視線を、思いっきり集めてしまった。

「オ……オーロラ〜!」

 ごっ……ごめーん! まさか、こんなに大きな反応するとは思わなかったんだも〜ん!



*



 それからしばらく走った後、あたし達は昼食を取る為、休憩することになった。

 マーナ姫の為に天幕を張り、馬達に水をやって、騎士達は外で思い思いに腰を下ろし、割り当てられた食事を取った。

 メニューは、パンと野菜のスープに、炙(あぶ)った鳥肉とフルーツ。

 簡素なものだったけど、あたしはしっかり綺麗にたいらげた。

 対照的にマーナ姫は食欲がないらしく、スープとフルーツを少し口にしただけで、

「少し風に当たってきます」

 と言い残して天幕の外に出て行ってしまった。

「姫はやはり体調がおもわしくないのでしょうか……」

 心配そうにラオス将軍が天幕の外を見やる。

「最近、例の夢のせいでなかなか眠れないとこぼされていたようです。今回の件で色々と思い詰められている部分もあるようですし……」

 パトロクロスがそう言うと、将軍はそうですか、と溜め息をこぼした。

「私はこの国に武官として仕え、しばらく経ちますが……あのような姫のお姿は初めてです。元々芯の強い方ではありますが、それを表面に出されるような方ではなかった……今日は少々、戸惑いました。それほどに今回の視察に思うところがおありなのか……」
「彼女は自分の見た夢から危機迫るものを感じたと言っていました。その辺りで少々ナーバスになっているのかもしれません」

 そんな二人の会話を聞きながら、あたしは一人天幕を出たマーナ姫のことがだんだん心配になってきた。

 大丈夫かな……昨日ほどじゃないけど、顔色もよくなかったし……。

「パトロクロス……あたしちょっと、マーナ姫の様子を見てくるね」
「あぁ、頼む」

 天幕の外に出ると、鉛色の雲がいっそう低く垂れこめてきていた。あちこちで休憩を取る騎士達の姿が目に入ったけど、マーナ姫の姿がどこにも見当たらない。

 どこに行っちゃったんだろ……。

 きょろきょろしていると、近くにいたつぶらな瞳の若い騎士が教えてくれた。

「姫様なら、あちらの木陰に行かれましたよ」
「ありがとうございます」

 言われた方向に進んで行くと、マーナ姫の長衣(ローヴ)の裾と鳶(とび)色の髪が大きな木の陰から覗いているのが見えた。

 あ、いたいた。

「マーナ姫……」

 覗き込んだあたしは、そこでぐったりとうずくまっている彼女を発見して、慌ててその細い身体を抱き起こした。

「マーナ姫!? どうしたんです、大丈夫ですか!?」
「オーロラ……さ……ん……」

 彼女はうっすらと目を開いてあたしを見た。

「どこか具合でも……!? す、すぐにラオス将軍を呼びますね!」

 振り返って大声で人を呼ぼうとしたあたしの腕を、彼女はぎゅうっと握りしめた。

「……て……」
「え……!?」

 マーナ姫を見ると、彼女は何事か呟きながら、震える指をあたしに向かって伸ばした。

「な……か、……」
「え!? 何ですか!?」

 青玉色(サファイアブルー)の瞳にうっすらと涙を浮かべ、弱々しい息の下から切れ切れに言葉を紡ぐマーナ姫-----あたしは彼女の唇に耳を寄せたけど、何を言わんとしているのか、聞き取ることが出来ない。

 何……!? いったいどうしたっていうの……!?

「-----オーロラ? そこにいるのか?」

 その時パトロクロスの声が聞こえてきたので、あたしは慌てて彼を呼んだ。

「パトロクロス、ここよ! 早く来て!」

 ザッ、と木立が揺れて、パトロクロスが現れた。

「どうした!?」
「大変なの、マーナ姫が……!」

 訴えるあたしの手を振り払って、ぐったりしていたはずのマーナ姫が起き上がった。

 えっ……。

 驚くあたしを一瞥(いちべつ)して、彼女はパトロクロスに静かに告げた。

「……大丈夫です。少し、立ちくらみがしただけ。オーロラさんを驚かせてしまったようですね、ごめんなさい」

 う……うっそおぉ! そんな感じじゃなかったもん!

「立ちくらみ……ですか?」

 問いかけるパトロクロスに、コクリと彼女は頷いた。

「ええ。もう大丈夫です……さあ、そろそろハンヴルグ神殿へ向けて出発しましょう」

 え……えぇ〜!? 何それぇ!?

「あの……マーナ姫、少し休んでいかれた方が」

 あたしがそう言うと、彼女はゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ、本当に大丈夫。心配してくださって、ありがとう」

 そう言われてしまったら、これ以上どうしようもないんだけど……。

 あたしはパトロクロスと顔を見合わせた。

 さっきのあれはいったい何だったの? あんなに具合悪そうだったのに……。

「あの……聞いてもいいですか? さっき、あたしに何を言おうとしていたんですか?」

 あたしの質問に、彼女はこう答えた。

「あぁ、あれは……あなたがラオスを呼ぼうとしていたので、“私は大丈夫、誰も呼ばなくていいわ”と言いたかったの。ラオスの代わりに、パトロクロス様が来てしまいましたけど」

 えぇ〜……あたしの一人カン違いっていうこと???

 うそ。絶対におかしいよ!

 釈然としない様子のあたしに、パトロクロスが声をかけた。

「とりあえず天幕まで戻ろう」
「あ……うん」

 パトロクロスに、この詳細を話さなくちゃ。

 マーナ姫、何だか変だ。

 さっきの涙を浮かべたあの表情-----切なそうな表情は、演技のようには見えなかったけど、どうしてそんなことをする必要があったんだろう。

 それとも……あたしに何かを訴えかけていた?

 パトロクロスに聞かれてはいけないことだったの?

 様々な憶測がぐるぐると頭の中を巡ったけど、当然ながら結論は導き出せず、それはしこりとなって、あたしの胸の中に残ったのだった。



*



 太陽が西に傾き、間もなくその色を茜色に変えようとする頃、アキレウスとガーネットを含むアストレアの小隊は、リトアの祠(ほこら)近くまでその距離を進めていた。

「もう間もなくです」

 ラオス将軍の部下である、小隊長のグラドがそう告げる。

 垂れこめていた黒雲はハンヴルグ神殿の方角へと流れたらしく、こちらは晴天に恵まれていた。

「思ったより早く着けそうね」
「少人数だし、ほとんど休憩も取らずに来たからな」

 そんな会話を交わしながら、アキレウスは隣を走るガーネットを見やった。彼女は軽やかに馬の手綱を操り、ここまでの道中、騎士達のスピードに遅れることなくついてきている。

「ガーネットがこんなに馬に乗れるとは思わなかったな。昔からやっていたのか?」
「まぁ時々ね。うちのばあちゃん、やれることはやっておきなさいって主義だから。おかげさまであたし、乗馬は得意なのよ。っていうか、だいたい何でも出来るんだけど。こういうの才色兼備って言うのかしら? 天は二物も三物も与えるものなのね」

 得意そうに胸をそらすガーネットに、アキレウスはさらりとこう返した。

「その性格でなきゃ完璧(パーフェクト)かもな。人間、何かしら欠点があるようにつくられているモンなんだな」
「あんたって、可愛くないわねー」

 そのやりとりを聞いていた騎士達が、忍び笑いをもらす。

 一向は、背後に岩山がそびえ立つ小さな森に入った。

 緑の薫る小道を進んでいくと、突如視界が開けた場所に出た。

 目の前に現れたのは、透明な水が満たされた、小さな湖-----その真ん中に、ぽつんと島がある。そこに、白い荘厳(そうごん)な建造物が佇んでいるのが見えた。

 白く太い円柱に、レリーフの刻まれた三角形の屋根-----森の緑に抱かれ、午後の太陽の光を浴びるその姿は、祠というよりは小さな神殿を彷彿とさせた。

 一見、穏やかに見える風景-----だが、今そこには、奇妙な静寂が横たわっていた。

 湖の手前には衛兵達の詰所が設けられていたのだが、そこはもぬけの殻となり、開け放たれたままとなっている扉が風に揺れ、かすかに軋んだ音を立てている。耳を澄ませてみれば、森に住まうはずの生物達の気配がまるで感じられない。

「これは……」

 そのただならぬ様子に、グラドが息を飲んだ。

「衛兵達は、どこへ行ったのだ……」

 周囲に人の姿はなく、湖に架かる祠と外界とを繋ぐ白い橋が、訪れた者達を妖しく誘(いざな)っている。

 湖の四方には、祠を守る結界の柱となる不死鳥の石像が配置されていたのだが、それが無残に破壊され、転がっていた。

「封印されているはずの橋が……!? 結界が、破られている……!」

 予想だにしなかったその光景に、さしものアストレアの精鋭達も動揺を隠せない。

 その背後で、アキレウスは背中からスラリと剣を抜いた。

「……用心しろよ、ガーネット」
「分かってる。どうやら何者かに先を越されちゃったみたいね……アキレウス、パトロクロスの代わりにしっかりあたしのコト守ってよ!」
「この間の杖術(じょうじゅつ)見てると、その必要もなさそうだけどな」

 まぁ一応、とアキレウスが呟(つぶや)く。

「ひと言多いのよねー、あんたって」
「お互い様だろ」

 憎まれ口を叩きながら、二人は油断なく辺りを見渡した。

「グラド小隊長、普段の警備状況は?」

 アキレウスにそう求められ、遅ればせながら腰から剣を抜き放ったグラドは、冷や汗を浮かべながら口を開いた。

「通常は二十名の兵士と二名の神官が常駐し、祠の警備と管理に当たっています。祠と外界を繋ぐ橋は通常は封印されており、湖の湛える水は何百年もの間神官達が祈りを捧げてきた聖水となっています。その天然の堀は魔物(モンスター)や悪意ある者より祠を守る役目を果たしており、さらに、強力な結界がその周囲には張り巡らされていたのですが……」
「封印を解除出来る者は? 祠の中はどうなっているのかしら」

 ガーネットの問いに、グラドは首を振った。

「封印を解除出来る者は王家の者か、ハンヴルグ神殿におられる大神官ギプター様だけだと聞いています。祠の内部については最重要機密事項(トップシークレット)です、上層部のごく一部の者以外は知り得ぬ領域……無論、私も足を踏み入れたことはありません」
「……周囲に特に争ったような跡は見られない……けれど衛兵達は姿を消し、結界が破られ、どうやったのかは分からないけど、封印が解かれている……とりあえず、祠の中を確認してみるしかないわね」
「あぁ、そうだな。こっちがこうなってるってことは、ハンヴルグ神殿の方でも何か異変が起きている可能性が高い-----時間がない、急ごう」
「で、では私が先頭で参りましょう。皆、くれぐれも用心するように。……行くぞ」

 周囲を警戒しつつ、グラドを先頭に騎士達が続き、ガーネット、アキレウスの順で、湖に架かる白い橋へと近付いていく。

 湖の湛える透明な水が、夕陽へと移り変わり始めた太陽の光を浴びて、妖しく輝いて見えた-----静寂が破られたのは、刹那のことだった!

 ヒュン!

 空気を切り裂く弓弦(ゆづる)の音が響き渡る。

「がッ!」

 次の瞬間、一人の騎士が弓矢に喉を貫かれ、呻(うめ)き声と共に崩れ落ちた。それが合図となった。

 今までどうやってその気配を潜めていたのか、手に剣を携えた甲冑(かっちゅう)姿の男達が左右から一斉に飛び出してきたのだ!

「なッ……」

 その姿を見たアストレアの精鋭達に、動揺が走る。

 無理もなかった。襲撃者達の身に着けた甲冑は、彼らがよく見知ったものだったのだから。

 男達の胸の部分には、アストレアの象徴(シンボル)である不死鳥の紋章-----。

「我が国の兵士……ここの衛兵かッ!?」

 我が目を疑い、叫ぶグラド-----壮絶な同士討ちが、始まった。

 それは、異様な光景だった。

 金属がぶつかり合い、弓矢が飛び交う戦場に於(お)いて、飛び交うのは怒号ではなく、困惑の声のみ-----襲いかかる者達は皆無言で、恐ろしく無表情のまま、剣を振るう。斬りつけられてもまるで怯まず、苦悶の声すらもらさない。

「-----どうなっているんだ!?」

 困惑の表情を浮かべつつ、アキレウスが剣を振るう。

「何だ……!? 何かに操られているのか!?」
「分からない!」

 彼に守られながら、ガーネットが回復呪文を唱える。

 相手はこちらの三倍はいたが、アストレアの精鋭であるつわもの達の集まりだ、実力では負けていなかった。

 しかし-----……。

「小隊長! こいつらおかしいッ……」

 騎士の一人が悲鳴を上げた。

 斬られても貫かれても、兵士達は立ち向かってくる。

 腕を切り落とされようと、急所を突かれようと、身体が動く限り、攻撃をやめない。

 斬っても斬っても倒れない相手に、騎士達は次第に疲弊(ひへい)し、その身体は朱に染まっていく。

「ちっ……!」

 アキレウスは短く舌打ちすると、低い体勢から身構え、技を放った。

「飆風剣(ひょうふうけん)!」

 アキレウスとガーネットを軸に旋風(つむじかぜ)のような剣圧が巻き起こり、周囲の兵士達を吹き飛ばす!

 声もなく大地の上に叩きつけられる者、仲間の上に落ち総崩れとなる者、湖の中に落ちる者、様々だったが、その中で、湖に落ちた者に異変が起こった。

 ジュウッ!

 湖の水がまるで強酸であるかのような音を立て、あたかも地獄の煮え湯のように、落ちた兵士の身体を溶かしていく。

 その思わぬ光景に声を失くす者達の前で、やがて、主を失った甲冑は、水の底へと沈んでいった。

「なん……!?」

 事態を飲み込めず目を見開くアキレウスの傍らで、ガーネットは何かに思い当たったらしかった。

「まさか……!?」

 小さく叫ぶ彼女に、アキレウスが翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳を向ける。

「何だ、ガーネット!?」
「まさか……いえ、多分そうだわ……試してみる! アキレウス、援護して!」
「!? あぁ……」

 ガーネットは瞳を閉じると精神を集中させ、朗々と呪文を唱え始めた。

「魂を拘束されし現(うつつ)にあらざる者達よ……今その呪縛を断ち切らん、我が言霊(ことだま)にて天へ還れ!」

 淡い黄金(きん)色の波動が少女の漆黒の髪を宙へと舞い上げる!

「“天輪浄化(リンフォール)”!!」

 カッ!

 ガーネットを中心に円状に吹き出したその波動が、飲み込んだ兵士達を浄化していく……!

 兵士達を彼女に近づけまいとしていたアキレウスが、驚きの声を上げた。

「これは……浄化の呪文か!?」

 “天輪浄化(リンフォール)”は通常、実体を持たない闇属性の魔物(モンスター)に対して使われる呪文である。

「この人達は全員死人(しびと)よ! 浄化されていくのが何よりの証拠……これだけの数の死人が操られているということは……おそらくは、強力な『死霊使い(ネクロマンサー)』が関わっている!」

 叫ぶガーネットに、アキレウスが問い返す。

「死霊使い(ネクロマンサー)だと!?」
「ええ! -----……くっ、あたしの力量(レベル)じゃ、この人数は弔いきれないか……!」

 唇をかみしめるガーネットを援護しながら、アキレウスが剣を振りかぶった。

「これだけ数が減らせれば上等だ……後は、オレに任せろ!」

 相手が死人ということであれば、遠慮はいらない。

 アキレウスの大剣が兜ごと兵士の頭部を叩き割り、その脳を破壊する。

 死霊使い(ネクロマンサー)の呪縛から解き放たれた兵士の肉体は、その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。

「頭を狙え! 脳がやられれば、兵士達は解放される!」

 アキレウスの声に反応し、満身創痍の騎士達が残る力を振り絞って、哀れな同胞達に黄泉への引導を渡す。

 やがて、静まり返った戦場跡に、疲弊しきったグラドの声が響き渡った。

「全員が……死人、だったとは……。以前、陛下がリトアの祠を検(あらた)められてから、そう時は経っていないというのに-----いったい、いつから……この短い期間の中で、いったい何があったというのだ……」

 最初に弓矢を受けた騎士は、残念ながら即死だった。グラドを含め、残る四名は重傷を負ってはいたが、どうにか生き残った。しかし心に受けた衝撃は大きかったらしく、茫然と座り込んだまま、立ち上がれない者もいる。

 彼らの傷を呪文で癒すガーネットにアキレウスは話しかけた。

「死霊使い(ネクロマンサー)……話には聞いたことがあるが、ほとんど伝説化している存在だぜ。そいつが……?」

 死霊使い(ネクロマンサー)は死霊魔術(ネクロマンシー)と呼ばれる特殊な秘術を扱い、死者の肉体を自在に操るとされる存在である。

 魔法技術を探求するあまりダークサイドに堕ちた魔導士が、死後不死者(アンデッド)として甦ったモノだという説が一般的だが、その詳細は不明である。秘薬を用いて生者を死者に変えたり、生者を襲いその生命を奪うことで従僕(しもべ)とする等、その能力については様々な所見があるが、その全容はようとして知れない。

 死霊使い(ネクロマンサー)に操られた者は、脳を破壊されない限り、主の命令に従い続ける。従って、ある程度の知能のある生物にしか死霊魔術(ネクロマンシー)は効果がないと推定されている。

 彼らをその呪縛から解き放つ為には、脳を破壊するしかないのだ。

「えぇ……ほぼ、間違いないと思う。確かにここ数百年、歴史の表舞台には登場していないし、まさかとは思ったけど……他に考えられないわ」
「この間の黒装束のヤツら……まさか、あいつらも……?」
「その可能性はあるわね。あっちは砂になっちゃって、衛兵達とは少し様子が違ったけど……」
「取り逃がしたリーダー格のヤツだけ、雰囲気が違っていたよな。喋ってたし……もしかしたら、あいつが死霊使い(ネクロマンサー)だったのか?」
「そうかもしれないけど……分からないわ」

 ガーネットはそう言って、湖の上の祠を見つめた。

「行きましょう。もしかしたら、何か手掛かりがあるかもしれない……」
「だな。-----あんた達はどうする? ここで待っているか?」

 茫然と立ち尽くしたままのグラドに声をかけると、彼は我に返ったように、武人の顔へと戻った。

「……いえ、我々も行きます。陛下より、リトアの祠の現状を確認せよとの勅命(ちょくめい)を賜っておりますから」

 アキレウスを先頭に、ガーネット、グラド、三名の騎士の順で、祠へと繋がる湖の上の白い橋を渡った。

 白く太い円柱に支えられた入口をくぐり、無造作に開け放たれたままの祠の奥へと通じる扉に差しかかると、誰かがゴクリと息を飲む音が聞こえた。

 全神経を辺りに集中させながら、アキレウスが扉の奥へと足を踏み入れる。

 祠の内部は薄暗く、狭い通路の左右に灯された魔法の明りが、申し訳程度に足元を映し出す。螺旋(らせん)状に曲がりくねった階段を下りていくと、やがて、ひとつの石室に行き当たった。

「これは……!」

 それを見たアキレウスが思わず声を上げた。

 石室には、小さな柩(ひつぎ)が安置されていた。

 厳重に管理されていたに違いないその蓋が乱雑に開け放たれた空の柩の回りに、大量の砂と持ち主のない衣服が散乱している。

 それが何を示すのかは、明白だった。

「行方不明になっている人達だわ……」

 口元を押さえ、ガーネットが呻くような声をもらす。

「死霊使い(ネクロマンサー)は、ルザンを復活させたのよ……!」
「-----何ということだ……!」
「まさか……!? あの、伝説の魔女が……!」

 騎士達の間から、驚愕に満ちた畏怖(いふ)の声が上がる。

 アキレウスとガーネットは、互いの顔を見合わせた。

「ルザンが復活したってことは、次は……」
「ハンヴルグ神殿のフールウールだわ!」
「な、何という事態……! すぐに、陛下にお伝えせねば……!」

 蒼白になるグラドの声を後ろに聞きながら、二人はルザンの柩に近寄り、片膝をついて周囲を調べ始めた。

「この中にはルザンの遺骨の他に、ヤツの身に着けていたものも納められていたみたいだな……」

 柩の中に納められていたらしい、宝飾品の一部を拾い上げながら、アキレウスが呟く。

 その瞬間、ガーネットの脳裏に、アストレア城の回廊で見たルザンの絵画が鮮明に浮かび上がった。

 -----どこか、おかしい……。

 見た瞬間からそう感じていたものの、それのどこがおかしいのかが分からず、ずっと気になっていて、頭から離れなかった。

 自分だけではなく、オーロラも違和感を覚えたというそれが、どうしても引っ掛かって、何となく胸騒ぎを覚えた彼女は、それを解明する手掛かりを得ようと、ルザンとフールウールに関する文献を読み漁った。しかし結局そこからは何も得られず、悩んだ末、この祠に同行することを申し出たのだ。

 これまでの人生で、彼女の直感は外れたことがなかったから。

「分かった……!」

 大きな茶色(ブラウン)の瞳を見開いて、ガーネットはアキレウスに訴えた。

「急いでハンヴルグ神殿に向かいましょう! パトロクロス達が危ない……!」

「何か分かったのか!?」
「えぇ! 詳しくは道すがら話すわ!」

 そう言って駆け出そうとするガーネットの腕をアキレウスが掴んで引き止めた。

「待て! ……風が動いている」
「えっ?」

 振り返ったガーネットは、アキレウスの視線の先を追って、それを確認した。

 入口から入ってくる風とは別の方向から、さらさらと砂が動いている。

「……この奥に空間がありそうだ」

 アキレウスが近くの壁を調べると、少しだけ、周囲の壁とは異なる部分があった。そこを押すと、壁が動いて、隠されていたもうひとつの部屋が現れた。

 部屋の真ん中には、淡い輝きを放つ魔法陣-----そこから生じるわずかな風が、その周囲を取り巻いていた。

「転移の魔法陣……!」

 目を見張り、ガーネットがそこに駆け寄る。

「どこに転移するのか分かるか?」
「それは分からないけど……この場合普通に考えて、アストレア城かハンヴルグ神殿のどちらかだと思うわ」
「どっちにしろ、時間のロスは防げるな」
「えぇ……行きましょう!」

 逸(はや)る気持ちを抑えつつ、アキレウスとガーネット、そしてアストレアの騎士達は魔法陣の上に乗った。転移の魔法陣がひと際眩(まばゆ)い光を放ち、乗った者達を繋がる先へと送致する。





 その頃-----風雲急を告げるかのように、ハンヴルグ神殿の頭上には、鉛色の厚い雲が低く垂れこめてきていた。

 まるで、神聖なその場所で、これから起こる惨劇を予兆するかのように-----。
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