ドヴァーフ編

悪戯


 アルベルトは身体の奥底から湧き上がってくる恐怖に慄きながら、眼前で繰り広げられる戦いを見つめていた。

 有り得ない光景だった。

 あってはならないはずの現実が、今、彼の前に押し寄せていた。

 人の三倍の大きさはあろうかという、仮面をかぶり、巨大なサーベルを手にした二体の人型の屈強な魔物(モンスター)と、セルジュと名乗った、見た目は非常に可愛らしい少女の姿をした魔性-----この人在らざる存在が、見知った顔を次々と血の海に沈めていく。

 逃げなければ、と思うのだが、いかんせん身体がまるで言うことを聞いてくれない。無様に尻餅をついたまま、ただ全身を震わせながら、恐怖の根源から目を逸らすことも出来ない。

 そのピンクの根源が、ふと、こちらに視線を向けた。

 目と目が、合った。

 心臓が脳蓋を突き破って飛び出すかと思った次の瞬間、ピンクの魔性は口元にうっすらと笑みを刷くと、手にした緑色のムチを唸らせたのだ!

「ひィあぁァ!」

 声にならない声が口を突いて出た。

 風前の灯火のアルベルトの命を救ったのは、眼前に飛び出したオルティスの剛剣だった。

「ご無事ですか!?」

 見たこともない厳しい表情で、聖騎士が問いかけてくる。

 涙とよだれを吹きこぼしながら、少々意外な思いで、アルベルトは兄王の右腕たる側近の精悍(せいかん)な顔を見上げた。

「オ……オルティス……お前、私を嫌っていたのでは……」
「何ですか、それは!?」

 王弟を背にかばいながら、苛立たしげにオルティスが問い返す。

「兄上と比べて、私は無能だから……無能なくせに、兄上を弑逆(しいぎゃく)して玉座に就こうとしている見下げ果てた愚か者だと、お前は……」
「私がそう言っているところを、聞いたことがあるのですか!?」

 彼の耳にそう吹き込んだであろう人物の顔を思い浮かべながら、オルティスは舌打ち混じりに問い質した。彼は普段は冷静であろうと心掛けており、それを実践してもいたが、元来気の長い性格ではなかった。

「貴方がこれまで耳にしてきたそういった情報の中で、貴方自身が実際にその耳にされたものはあるのですか!?  私が、エレーンが、陛下が……実際に貴方を嫌っていると言ったことが!? ご自分の目で、耳で、よく確かめてから言っていただきたい! ロイド公爵は……貴方に媚びへつらっていた者達は、今、どこにいます!?」

 オルティスに一喝され、アルベルトはハッ、と目を見開いた。

 我に返り辺りを見回してみれば-----誰も、どこにも、いなかった。

 あんなにも自分を敬い慕っていた者達が……ロイド公爵を筆頭に、自分に忠義を誓い、その命を捧げるとまで明言していた、自分を守ってくれるはずの者達が……死体となった者達を除いては、誰一人として、この場に存在していなかった。

 砂上の楼閣にしばし茫然とするアルベルトを現実に引き戻したのは、セルジュの甲高い声だった。

「上等のお洋服を着ちゃってるから、まさかとは思ったけどー、国王サマの側近が“二人”して守るなんて、あんたが王弟殿下ね? やだーガッカリ〜、兄弟なのにどうしてこんなに似てないのかしらっ? 絶〜っっ対抱かれたくないっっ! お持ち帰り予定リストから削除だわっっ」

 ぷんぷん、と愛らしい頬をふくらませながらのかなりの暴言だったが、アルベルトはそれよりも、彼女のもらした“二人”という部分が気にかかった。

 そして彼は、自分の周囲を取り巻くようにして張り巡らされた結界に気付く-----兄王の側にいるエレーンが張ったものに他ならなかった。

「オ……オルティス、エレーン……」

 自分の目の前に張り付いていた鱗がゆっくりとはがれ落ちていくのを、アルベルトは感じた。

 しかし事態は、そんな感慨に耽(ふけ)る時間を彼に与えてはくれなかった。

「いらないから、とりあえず殺しちゃおーっと」

 恐ろしいことをいともあっさりと口にして、セルジュが再び手にしたムチを振るう!

「ひぃっ!」

 自らの頭を抱えて目をつぶるアルベルトの前で、オルティスが一人気を吐く!

「させん!」
「な〜んちゃって!」

 パールピンクの唇を歪めてセルジュが嗤(わら)う!

「なっ……!?」

 オルティスは目を疑った。アルベルトに向かっていたムチがまるで意思を持つ生き物のように途中で軌道を変え、側面からオルティスへと襲いかかったのだ!

 とっさに身体を捻って直撃こそ免れたものの、強烈な一撃を受けて、オルティスは壁際まで吹き飛ばされた。

「オルティス!」

 鋭いエレーンの声が飛ぶ! その声で危険を察知したオルティスは、すぐさま立ち上がりその場から退避しようとしたが、その時には既にピンクの魔性が眼前に迫っていた。

「……!」
「ざーんねん! つっかまえた〜!」

 オルティスが白刃を放とうとするのと、緑のムチの先端がずるり、と剥け、そこから飛び出した鋭利な棘のある蔓(つる)が彼に襲いかかるのとがほぼ同時だった。

 絡みついた蔓は鎧の上から骨が軋むほどきつくオルティスの身体を締めつけ、鋭利な棘は鎧のわずかな継ぎ目から浸入して彼の皮膚を突き破り、まるで楔のようにしてその体内に留まった。

「ぐ、ぅっ……!」

 全身に走る激痛に、オルティスの口から苦悶の声がもれる。

「……やってくれるじゃない」

 緑の蔓に束縛されたオルティスの前に佇むセルジュの口から、感嘆と憎悪の入り混じった声がこぼれた。

 彼女の左肩口から胸の辺りにかけて、ざっくりと斬られた跡が走り、その小柄な身体を赤く彩っている。

 蔓に絡めとられる寸前に、オルティスが反撃したのだった。

「あーあ、この服気に入っていたのに……。まぁいいわ。顔が良くて強い男は、あたしだーい好きだからっ。その代わり、乙女の柔肌を傷付けた責任取って、癒してちょうだいね?」

 恐ろしいほど蠱惑(こわく)的な微笑を浮かべて、身動きの取れないオルティスにセルジュがゆっくりと歩み寄る。

「オルティス!」

 同志の危機を感じながら駆けつけることの出来ない自身に、エレーンは歯がみした。襲いくる二体の魔物が、思った以上に手強いのだ。

「エレーン、私はいいからオルティスを!」

 レイドリックはそう言ったがエレーンは首を振った。

「いいえ……!」

 彼らを取り巻く環境は非常に厳しいものだった。

 レイドリックの前に二人の騎士が立ち、その周りをエレーンの部下の魔導士達が固めながら防御や回復の呪文を唱えている。エレーンはその前に立ち、更にその前衛でオルティスの部下である精鋭の騎士達が二体の魔物と死闘を繰り広げていた。エレーンは彼らをフォローしつつ攻撃魔法を駆使しながら、二体の魔物が主君へ迫るのを防いでいた。

 周囲には見知った者達の屍が累々と転がり、濃厚な血の匂いがフロア中に漂っている。二体の魔物の攻撃は苛烈さを増し、自分が欠けては主君を守り抜ける確信が持てなかった。

 何より、そんなことはオルティス自身が絶対に望まない。

「あなたが本調子だったら、こんなにたやすく捕まえることは出来なかったんでしょうね……」

 セルジュの細い指先が、オルティスの頬に触れる。

「団長……!」

 オルティスと共にアルベルトを守護する為駆けつけていた騎士団副団長のカイザード以下四名の騎士が、果敢にも上長を救おうとピンクの魔性に立ち向かった。

「なぁに? もしかして邪魔してくれようとしちゃってるワケ? あー、ウザいウザいウザーいっ!!」

 可愛らしい鼻の頭にしわを寄せ、セルジュが手にしたムチを一閃させる!

「がはぁっ……!」

 金属を打ち付ける大きな衝撃音と共に、薙ぎ倒された騎士達の呻き声と鮮血とが辺りに飛び散った。

「カ……カイザード! コフィー、レイモンド、ゼムス!」

 部下達の名を叫びながら、オルティスは自由の利かぬ我が身を呪った。

 -----この程度の束縛……普段の自分であれば大した支障にならぬものを!

 彼の部下達にしてもそうだ。平常時であれば、あれほど見事に敵の攻撃に遅れを取ることはなかっただろう。騎士団の中でも選りすぐりの精鋭達なのだ。

 あの、忌々しい結界さえなければ……!

「あーらら、全員死んでないワケ? 困ったくらい丈夫なのねぇ」

 床に転がる男達をせせら笑いながら、セルジュは蔓に囚われたオルティスに向き直った。

「うふふ、怒ったの? 怒った顔も素敵ね……黄玉色(トパーズ)の瞳がキラキラして、綺麗……」

 そう言いながら、彼女はオルティスの顎を捉えると、おもむろに彼の唇に自らのそれを深く重ねた。目を見開くオルティスの口内に、少女の舌が侵入してくる。

 その瞬間、オルティスは激しい悪寒に襲われた。反射的に相手の舌をかみ切ろうとした時には、既にその唇は彼の元を離れていた。

「いやーん、かみつこうとするなんて、ヒッド〜い!」

 ちっともそう思っていない態度でそう言いながら、セルジュが嫣然(えんぜん)と笑う。

「でも、気性の荒いオトコって、好きよ。そういうオトコに激しく抱かれるの、だ〜い好きっ」
「誰が、貴様など……!」

 荒い息をつきながら、オルティスは眼光に力を込めてセルジュをにらみつけた。言いようのない激しい脱力感が、彼の全身を襲っている。

 何だ、今のは……!?

 セルジュの口付けを受けた瞬間-----身体中の力という力が奪われていくような錯覚を覚えた。いや、実際に奪われた、のだ。

 その証拠に、決して浅くはなかったセルジュの傷が回復している。衣服の裂け目から覗く彼女の白い肌からは、あの生々しい傷痕が消えていた。

「化け物、め……」
「うふふ……続きは後でね」

 呻くオルティスにそう告げると、セルジュは二体の魔物に声をかけた。

「ヴェヌス、ローラ、交代よ。今度はあたしがそっちで遊ぶから、お前達はこっち。そこのいい男以外は皆殺しにしちゃってちょうだい」

 血も涙もないその台詞に、レイドリックが反応した。

「ヴェヌスにローラ、だと?」

 口にこそ出さなかったものの、その場にいる全員が国王と同じある嫌な予感に襲われていた。

 ヴェヌスにローラ-----それは、先日滅ぼされたシャルーフの国王夫妻の名と一致していたのだ。

「あれ〜? 何か気付いちゃった?」

 悪戯を見つけてもらった子供のような表情で、セルジュが瞳を輝かせる。軽やかにムチを操り、その先端で二体の魔物の仮面が取り払われると、そこから現れた光景を目にした者達の間から、悲鳴とも喘ぎともつかない声がもれた。

 仮面の下から現れたのは、魔物の顔ではなく、変わり果てたシャルーフの国王夫妻の姿だったのだ。

 奇怪な形に身体を捻じ曲げられ、培養液のようなものに満たされた半透明の膜の中で、無理矢理魔物の肉体と繋がれ、命を永らえさせられている。

 その顔は苦痛に歪み、異形の様相を呈していたが、それは紛れもなくシャルーフの国王ヴェヌスと、その妃ローラの姿だった。

「貴様ら、何ということを……!」

 レイドリックの灰色(グレイ)の瞳が激しい怒りに燃え上がる。

「ふふっ、どーお? なかなか楽しい演出でしょ? バカ力と頑丈さだけが取り得の魔物の首を落として、コイツらと挿げ替えてみたの。二人共ちゃーんと生きているのよ? スゴいでしょ?」

 きゃはっ、と楽しげな声を上げて、セルジュがピンク色の瞳を細める。

「さー、どうするぅ? シャルーフの国王夫妻は生きていらっしゃいました〜! ……戦って殺しちゃう? それともコイツらに殺されちゃう? ドヴァーフの国王サマは、どう決断するのかしらっ?」

 甲高い魔性の少女の声を耳にしながら、レイドリックは変わり果てた亡国の国王夫妻の姿を見つめていた。

 気の毒なことに、彼らの意識はまだあるようだった。

 無理矢理覚醒させられている、と言った方が正しいのかもしれない。

 血走った眼は、魔法王国の若き国王にこう訴えていた。

 殺してくれ、と-----。

 レイドリックはその意志を汲み取った。

「我がドヴァーフは……決して貴様らの前に屈しはしない! 皆、気力を奮い立たせろ! シャルーフの盟友を悪しき鎖から解き放つのだ! 人類の存亡を賭けた戦いの序章に今、我々は立っているのだと自覚して戦え!! この戦いが、明日の人類の命運を左右するのかも知れぬのだ!!」

 魂を揺るがすような国王の宣言に、傷だらけの臣下達は奮起した。

 この戦い、決して負けるわけにはいかないのだ-----シャルーフの人々の為にも、自分達の為にも、人類の未来の為にも!

「つまんなぁーいっっ、もうちょっと悩むとかしてくれないのー? 動揺とか混乱とか、人間達がガクガクブルブルしているトコが見たかったのに〜……逆に士気が上がっちゃったじゃない」

 可愛らしい唇を尖らせて、セルジュがレイドリックに襲いかかる!

「そのカリスマぶり、素敵だけどっ!」

 緑のムチが唸り、国王を守護する前衛の騎士達が弾き飛ばされる!

「ぐあぁっ!」
「-----させぬ!」

 騎士達の壁を破り迫るセルジュの前に、立ちはだかったエレーンが魔法の矢を放つ! それを弾き返して、チッと舌打ちしつつ、再びセルジュがムチを振るう!

「大した魔力(チカラ)も使えないクセにっ……邪魔なのよっ!」

 顔を狙った一撃を、エレーンはすんでのところでどうにかかわした。一瞬のうちに精神を集中させ、セルジュに向けて反撃の魔法を放つ!

「“聖光滅尽痕(スティグマード)”!」

 予期せぬタイミングで聖属性の最上級呪文をぶつけられ、セルジュの表情に驚きが走った。あらかじめ仕掛けておいた対魔法用の結界が発動し、大したダメージは受けなかったものの、自慢の美しい髪が何本か焼け焦げ、彼女の自尊心を大きく傷付けた。

 正直、この女を見くびっていたことを否めなかった。

 魔力を持つ者にとって最も不利なこの状況で、これほどの呪文を難なく使いこなすとは……本来の威力であれば、自分が受けたダメージはこんなものでは済まなかっただろう。

 先程のオルティスといい、このエレーンといい、どうやら考えを改めなければならないようだった。

「よくもやってくれたわね……」

 セルジュの両眼が怒りに染まったのを見て、エレーンは彼女が本気になったことを悟った。

 聖属性の最上級呪文ですら、まったくといっていいほどダメージを与えることが出来なかった。自分の魔力(チカラ)はやはり、相当に弱まっている。

 あの忌々しい結界が解けぬ限り、この相手に勝利することは限りなく難しい-----。

 それを痛感した。

 あの結界を解く方法は-----なくは、なかった。

 レイドリックもオルティスも、恐らくはその方法に気付いている。

 しかし、それはひとつの賭けと言えた。

 あまりにも-----危険な、賭け。

 そしてその賭けに臨む猶予を、目の前の相手は与えてくれそうになかった。

「ギッタギッタにしてあげるっ!」

 怒りに双眸をギラつかせ、セルジュがエレーンに襲いかかる!

「“炎の鞭朴(ファイフ・ロー)”!」

 具現化した紅蓮のムチで、エレーンがそれを迎え撃つ!

 圧倒的に不利なこの状況……しかし。

「負けるわけにはいかぬ……!」

 一撃、二撃、三撃-----どうにか渡り合った四撃目、セルジュのムチがエレーンの左肩を打ち据えた。

 肉が弾け飛び、淡い緑色(グリーン)の長衣(ローヴ)が鮮血に染まる。

 思わずよろめいたところを狙って、容赦のない一撃が顔面に飛んでくる!

「!」

 とっさに両腕でかばったものの、焼けつくような痛みと共に弾き飛ばされた。

「エレーン!」

 レイドリックが思わず身を乗り出す。

「エレーン団長……!」
「来るな!」

 駆けつけようとする部下達を鋭く遮り、エレーンはゆらりと立ち上がった。

「お前達は陛下をお守りしろ……! こいつの相手は私がする」

 素早く回復呪文を唱えながらピンクの魔性を見据えると、相手は傲然(ごうぜん)とこう言い放った。

「へぇー? 見くびられたものね。回復もままならない状態で、どう相手してくれるって言うの? その手、折れたでしょ? 普段ならさておき、今は……どの程度まで回復するのかしら?」
「さて……な。試してみるか?」

 つとめて冷静に切り返しながら、エレーンはセルジュが自分をなぶり殺しにかかっていることを感じた。

 殺そうと思えば、今の時点で畳みかけて殺すことも出来たはずだ。だが彼女はそれをせず、回復呪文を唱える間さえ自分に与えた。

 それに-----顔面を狙った攻撃が多い。

 執拗に顔面を狙うのは、その相手に対する憎悪の表れであるという。どういう理由からかは分からないが、自分はこの魔性に疎まれる立場にあるらしい。

 だがそれはかえって好都合だ-----そう、エレーンは思った。

 折れた腕は一応骨がくっついたようだが、完全には回復していない。もう一度回復呪文をかければ治せるだろうが、セルジュはそれを許してはくれないだろう。もう、武器を使っての攻撃は出来そうになかった。

 魔力を抑えこまれたこの状況で、魔法で何とかするしかない。

 セルジュに本気で畳みかけられたら正直勝ち目はなかったが、本気でなぶり殺しにかかる-----ということであれば、どこかで勝機が見い出せる可能性がまだ高い。

 もっとも、大人しくなぶられてやるつもりはないが-----。

 心の中でそう呟いて、エレーンはきつく唇を結んだ。



*



 街は、戦場と化していた。

 襲いくる魔物(モンスター)を次々と薙ぎ払いながら、パトロクロスとガーネットは仲間の元へと急いでいた。

 つい先程、王城の近くで大きな衝撃波が巻き起こるのが見えた。

 アキレウスと-----恐らくはこの件に関係する何者かとの間で戦いが始まった合図に他ならなかった。

「はぁっ、はぁっ-----」

 荒い呼吸をつきながら、ガーネットは思うままにならない自分の身体を呪わしく思った。

 この王都を覆った赤紫色の被膜の影響で、強い魔力を持つ彼女の肉体は、ひどい制約を受けていた。

 自分の能力の何もかもが重い枷をつけられたその状況の中で彼女は最大限の努力をしていたが、それでも本来のそれに遠く及ばないものであることは否めない。

 前を行くパトロクロスの身体には、自分をかばって出来た無数の傷-----その現実に、ガーネットは唇をかみしめた。

 このあたしが、足手まといになるなんて……。

 やるせない思いを胸に抱きながら、だがしかし、自分を置いて先に行って、とはガーネットは言わなかった。

 正直何度もそう言いかけたが、その度にそれは逃げだ、とその言葉を飲み込んだ。

 本来の半分程度の魔力(チカラ)しか振るえぬとはいえ、傷を癒せる能力(チカラ)を持っているのは自分だけなのだ。

 今の自分では、一人でこの戦場を駆け抜けて目的地にたどり着くことは到底不可能-----白魔法の加護を受けられなくては、パトロクロスもアキレウスも無事では済むまい。

 だから、走り続ける。

 例えどれほど足手まといになろうとも-----今、自分の能力(チカラ)は“必要”とされているのだから!

「キシャーッ!」

 奇声を上げて、複数の魔物が路地から飛び出してきた。

 人型に近い形を取った、異形のモノ。

 その全身にはおびただしい数の歪んだ口が浮き出ており、カチカチと鋭い歯を鳴らしながら襲いかかってくる!

「ジェノス……!」

 舌打ち混じりに魔物の名を呟きながら、パトロクロスはガーネットを背に長剣を構えた。物理・魔法防御力共に高く、攻撃力もある、戦う相手にとってはいやらしい魔物なのだ。

 魔法王国ということを意識してか、道々戦ってきた魔物達はいずれも魔法に対する耐久力が高いものばかりだった。

 襲いかかってくるジェノスは三体-----少々面倒だな、と内心ぼやきながら、パトロクロスは剣を振るった。

「地裂斬(ちれつざん)!」

 剣圧が大地を割り、迫り来るジェノス達を迎え撃つ!

 これを足止めとし、パトロクロスは宙空に跳んだ。

「鷹爪壊裂斬(ようそうかいれつざん)!」

 渾身の力を込めた一撃をジェノスの脳天に振り下ろし、返す刃で胸から喉にかけて斬り上げる!

 一体、また一体-----確実に、ジェノス達を屠っていく。

 そして最後の一体を仕留めにかかった時、悲鳴のようなガーネットの声が飛んだ。

「パトロクロス、上っ!」

 風を切る音を聞き、パトロクロスはとっさに横に跳んだ。鋭い爪が空を切り、恨めしげな鼻息をもらして、有翼の魔物が地に降り立つ。

 パトロクロスが体勢を崩したその瞬間を、ジェノスは見逃さなかった。奇声を発しながらパトロクロスに飛びかかり、彼に抱きつくようにして、全身にある鋭い歯の突き出た口でかみつく!

「……っ!」

 防具に守られていない二の腕や大腿、そういった部分をかみ裂かれ、地に組み敷かれながらも、パトロクロスはどうにか相手の首を斬り落とし、窮地を脱した。

「ガーネット!」

 叫びながら有翼の魔物と対峙する白魔導士の少女の方を見やると、彼女はどうにか杖に宿る魔法の力でその身を守り続けていた。

 激痛を堪え駆けつけようとするパトロクロスの眼前で、業を煮やした魔物がガーネットの頭をかみ砕こうと飛びかかる!

 その背にパトロクロスが長剣を投げつけるのと、弓弦(ゆづる)の音が響くのとが同時だった。

 長剣に背を、彼方から飛来した矢尻に側頭部を貫かれ、魔物が絶息する。

 肩で大きく息をつくパトロクロスとガーネットが矢の飛んできた方向を見やると、この場にいたく不似合いな、間延びした声の主が物陰から現れた。

「やっほ〜、ガーネット、無事ー?」
「……フリード!」

 目を見開くガーネットにひらひらと手を振り、軽やかな足取りで駆け寄ってきた美麗な青年は、自他共に認める弓の名手だった。

「どうして、ここに?」
「ガーネットのことが心配で、いても立ってもいられなくなってさ。ワガママ言って飛び出してきちゃった。あ、心配しないでね。ゼン様は無事だよ。頼りになる仲間達が側についているし、それより何より、あの人はバケモノだね。ボクだってこの胸クソ悪い結界にちょっとヤラれたっていうのに、魔力の塊のはずのあの人、表面上は普通に動いているんだから」

 幼なじみが語る祖母の超人ぶりを聞き、ガーネットの顔から思わず笑みがこぼれた。

「あたしも負けていられないわね。……ありがとう、フリード。助かったわ」
「んー、まぁ、ボクが来なくっても、パト様がどうにかしたっていう感じではあったけどね……」

 魔物の背に突き刺さった長剣を抜きながらフリードが言う。

「っていうか、このジェノス三体、パト様一人で倒したの? 豪気だねー、こんな頑丈なヤツを」
「おかげでこのザマだがな……」

 ガーネットに傷を回復してもらいながら、パトロクロスが自嘲気味に呟く。

「その程度で済めば、立派だよ……」

 複雑な語調をにじませながら、フリードは長剣をパトロクロスの手に返した。

「-----で、君達はこの件の概要を掴んでいるワケ?」
「いや-----まだ、だ。だが恐らく今、アキレウスがこの件に深く係わる何者かと戦っているはずだ」
「一人で? あの聖女様は?」
「分からないの。多分、その場にいると思うんだけど-----」

 二人の回答に、フリードは盛大な溜め息をもらした。

「もしかして-----聖女様(おひめさま)はその何者かに捕まっちゃったの? で、一足先に救出に向かった騎士(ナイト)が今、ソイツと剣を交えていると。君達は急ぎそこに向かっている途中で、その何者かがこの件に一枚かんでいる輩らしい……と。そういうコト?」
「まぁ、そんなところだ」

 苦々しく頷きながら、パトロクロスは立ち上がった。

「そういうわけで、私達は急いでいる。そして、戦力を必要としている。フリード-----君の力を貸してもらえないか?」

 この思いがけない申し出には、フリードばかりでなく、ガーネットも驚いた。

「私は君の技倆(ぎりょう)を詳しくは知らないが、弓の名手だという噂はガーネットから聞いているし、先程その片鱗を見せてもらった。それに-----ガーネットを守りにきた、のだろう?」
「……そりゃ、その通りだけど-----パト様、男の意地とか、見栄とか、そういうのってないワケ?」
「失敬な男だな。あるに決まっているだろう。私の矜持(きょうじ)に懸けて、この戦い、負けるわけにはいかないのだ。その為に、最善を尽くす-----理に適っていると思うが?」

 至極真面目にそう返すパトロクロスに、フリードは茶々を入れてやりたくなった。

 昨夜あれだけ激しい感情を露わにしておきながら、今日またこの鉄面皮ぶり-----それがこの男の余裕を表わすようで、気に入らない。

「ふぅん? その矜持とやらの前には、曲者と手を組むことくらいワケない、ってコト? 王者としての度量の表れ、かな?」
「フリード!」

 たしなめるガーネットの傍らで、パトロクロスは飄々(ひょうひょう)とした態度を取り続けるフリードの薄茶色(ライトブラウン)の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「私達と一緒に来るのか、来ないのか?」
「……。分かったよ。ボクだって、こんなコト言ってる場合じゃないんだってコトくらい、分かってるんだ。一緒に、行くよ」

 ちらりとも動じなかったパトロクロスに舌を巻きつつ、これ以上の茶々をあきらめて、フリードは渋々と頷いた。

 今この国が直面しているこの事態がどれほど深刻で、人類の未来に重大な影響を及ぼすものであるのか-----それは、とてもよく分かっていた。だがしかし、それでもフリードにとっての一番はガーネットのことなのであって、彼の中では常に彼女が中心で世界が回っている。

 それをパトロクロスはあっさりと横に置き、この非常事態に協力しようと、無礼極まりない態度を取り続ける自分に自ら手を差し出してきたのだ。

 その行動は、人として正しい。もちろんフリードもガーネットを助けるついで、そういうことになるだろうと、そう思って来たのだ。

 では、あるのだが。

 あまりにもあっさりとしたその態度に、面白くないものが込み上げてくる。

 -----この男では、ガーネットを幸せにすることは出来ない。

 フリードは改めてその思いを強くした。

 何故なら、この男はいつでも一番にガーネットのことを考えてくれるわけではないからだ。

 王族であり、その立場から常に冷静に優先順位なるものを判断するパトロクロスは、場合によってはガーネットを切り捨てることだってあるに違いない。

 -----ガーネットの為にも、絶っっ対にコイツには負けられない。

 そんな決意新たに、恋敵と、愛しい少女と共に、フリードは炎に包まれる街を走り始めたのだった。
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