幕間U〜鋼の騎士〜

鋼の騎士


 誰が最初にそう呼んだのだろう。

 魔力を持たず、しかも平民出という異色の経歴の持ち主ながら、剣の腕を王に認められ、騎士となったあの男を。

 様々な逆風に遭いながら、己の道を邁進(まいしん)し続け、行動と結果で次第に周囲を認めさせていったあの男を-----。



 鋼の騎士。



 それは、魔法王国ドヴァーフの光と闇の歴史に刻み込まれることになる、時代の寵児と謳われた、ある一人の騎士の異名-----。



*



 25歳になったペーレウスは千騎隊長の職に就いていた。

 千騎隊長はその名の通り一千の騎兵の長に当たる。千騎隊長は全部で五十名おり、その上には五人の万騎隊長と騎士団副団長、そして騎士団団長がいるのみである。彼の若さと経歴を考えると、これは異例中の異例と言えた。

 謁見の間で執り行われた任命式で千騎隊長の職を拝命する際、ペーレウスは入城以来初めて国王オレインとの対面を果たした。

 騎士団に入るきっかけとなった剣術大会の折、舞台から豪奢(ごうしゃ)な観覧席に座っている国王の姿を遠目に見たことがあるだけである。初めて間近で目にするその姿は、一国の主らしく威風堂々としていた。

「其方(そなた)を騎士団に招いた私の目に狂いはなかった。これからもなお一層国の為に尽力してほしい」

 国王は満足げにそう言って千騎隊長の職をペーレウスに任じ、彼はかしこまってそれを受けた。

「丸腰の者を肉食獣の檻に放り込んでおきながら、何ら武器を授けることもなく、『私の目に狂いはなかった』、とは-----。放り込んだ相手が檻にいた肉食獣を喰うような輩だったからこういう結果になったものの、言うは易(やす)く行うは難(かた)し、だな」

 こんな物言いで国王オレインを皮肉ったのは、時同じくして魔導士団副団長に就任したシェイドである。

 弱冠26歳での魔導士団副団長の就任は過去の記録を鑑(かんがみ)ても異例のことだったが、彼の場合はあまりにも有名な家柄と、幼少の頃より天才と謳われた魔法の才能が広く知られていることもあり、就任に当たって大きな異論が起こるようなことはなかった。

 前任者が病気で退いた空座の千騎隊長職を巡り、議会が紛糾したというペーレウスの場合とは雲泥の差だ。ペーレウス自身は実際その場に立ち会ったわけではないが、ロイド公爵を筆頭とする伝統重視派が最後の最後まで猛反対していたという話をマルバスから聞いていた。

 マルバスは現在千騎隊長の職にあり、議会に出席していた上長の万騎隊長からその話を聞いたらしい。つまり今、マルバスはペーレウスとは同僚という立場になる。一見複雑な心境になりそうな間柄だが、ペーレウスを認めるマルバスは彼の出世を心から喜んでいて、

「初めて任務を共にした時から、お前は只者じゃないと思っていたよ。少々早かったが、いずれはこうなるだろうという予感はあった。うむ、やはり私の見立てに間違いはなかったな」

とよく分からない自慢を始めるのだった。

 実際初任務をこなしてからのペーレウスの活躍ぶりはめざましく、その武功は騎士団の中で突出していた。最初は白い眼で見ていた騎士達も今ではペーレウスの実力を認め、彼の千騎隊長就任をほとんどの者が祝福してくれた。近頃では彼に熱い視線を送る貴婦人達も多く、城内ではペーレウスに対する評価が確実に変わってきていた。

 ペーレウスが魔物(モンスター)討伐に赴いた町村から広まった『平民出の魔力を持たない凄腕の騎士』の噂は今ではドヴァーフ全土に広がり、国中からこの騎士の動向に自然と注目が集まっていた。

 当初は好奇の目で見守る者が多かったのだが、時が経つにつれ魔力を持たない者だけでなく、魔力を持つ国民達の間からも自分達と同じ平民出のペーレウスを称える声が上がり始め、やがていつの頃からか、人々は崇敬の念を込めて、彼を『鋼の騎士』と呼ぶようになった。

 その人気ぶりには目を瞠(みは)るものがあり、魔物討伐の嘆願書にはぜひ鋼の騎士をと指名してくる町村が後を絶たなかった。

 その旋風は彼を騎士団に招き入れた国王オレインにも波及した。画期的な試みを行った賢王として、オレインは国民から絶大な賞賛を浴び、かつてないほどに支持率を高めたのだ。

 そんな背景もあり、ペーレウスの千騎隊長就任に際してもめにもめた議会も、最終的にはオレインの鶴のひと声で承認された形になったのだが、ロイド公爵はこれに憤懣(ふんまん)やるかたない様子だったらしい。

 彼の三男ブリリアンはペーレウスとの決闘に敗れた後、心神耗弱を理由に騎士団を退団していた。以後は王都から離れた保養地でひっそりと暮らしているとの噂で、その後、彼の姿を見かけた者は誰もいない。

 ブリリアン側から仕掛けた決闘なのであり、ペーレウスに責められる非はなかったのだが、盛大に顔に泥を塗られた形となったロイド公爵は以来ペーレウスを目の敵にしており、虎視眈々と彼をつけ狙っているというのは、城内では有名な話だった。そんな中でのペーレウスの千騎隊長就任に、またひと悶着あるのではないかと城内では様々な憶測が流れた。

 千騎隊長就任後、ペーレウスは国王オレインより王城近くに自宅を用意された。仮にも上位役職にある者がいつまでも宿舎にいるのでは体面が悪いらしい。

 用意された自宅は一人で住まうには少々広すぎる造りだった。邸宅、という表現の方が適当かもしれない。一度視察に来たシェイドは「丁度良い広さだな」と言っていたのだが、生まれながらに規模の大きな家に住み慣れている彼との感覚の違いはどうしようもない。

 一日の業務を終え、明りの灯らない広い自宅へ帰る度に、ペーレウスは一抹の寂しさのようなものを覚えるようになっていた。迎えてくれる人がいれば違うのだろうか、と漠然と考えた時、思い浮かぶのは決まってテティスの顔だった。

 ペーレウスは胸元にかかっている月長石の欠片をしばしば取り出し、手に取って見ることが多くなった。それは騎士として初めての任務に赴いた時、お守りにとテティスがくれたものだった。ペーレウスはそれに小さな穴を開けて細い銀の鎖を通し、ペンダントにして肌身離さず身に着けていた。いつも衣服の下にしまっているので、彼がそれを身に着けていることは誰も知らない。

 月長石は旅人を災いから守る石と言われ、心の闇を照らし出す力、そして希望を育む力があるとされていた。

 そして、もうひとつ。テティス自身の口からは語られていない、謂(いわ)れ。



 永遠に続く愛。



 月長石にはそういう石言葉もあった。

 シェイドが気になる言い方をするものだから、初任務から帰還してしばらく経った後、ペーレウスは図書館で月長石の持つ意味を調べ、これを知ったのだった。

 異性が互いにこの石を持っていると二人の情熱や結びつきを強めると言われ、恋愛成就の石とも呼ばれているらしい。

 だが、あの夜どうしてテティスが二つの月長石を持っていたのか、その真意は分からない。テティスが言った言葉には筋が通っているし、妙な誤解を招きたくないという思いから、あえてもうひとつの意味は伏せていたのだとも取れる。

 結果的に二つの石のうちのひとつはシェイドに渡っており、そういう意味でも三つ目の謂れは現在意味を為していないことになる。

 ペーレウスは女性としてのテティスに好意を抱いていたが、この六年間、それを彼女に伝えることはなかった。

 目まぐるしく移り変わっていく自身の環境に対応するのに手いっぱいだったということもあるが、何より、特務神官にして最高位の白魔法を極めた白魔導士でもある彼女に対して、自分自身を顧(かえり)みた時、何ら胸を張れるものを見い出せなかったからだ。

 自身の中に確かなバックボーンが出来るまで、テティスにこの気持ちを伝える資格はないとペーレウスは自らを律していた。

 -----そして、今。少しずつ経験と実績を積み、それが形になってきた自分がいる。

 だが、彼女への募る想いとは裏腹に、友人として築いてきたこの六年間を壊したくないと、心のどこかで恐れている自分がいることも確かだった。

 そんなある日、ペーレウスはシェイドに仕事上がりに飲みに行かないか、と誘われた。

 その日の夜は満月だった。自宅を持った現在でも、ペーレウスは特別な用がない限りはテティスと満月の夜の逢瀬を重ねており、それを知っているはずのシェイドからの誘いだったので、よほど大事な話があるに違いないとペーレウスはそれを承諾した。

 その日の業務終了後、早めに仕事を切り上げてシェイドの執務室へと向かうと、彼はまだ仕事をしている最中で、デスクの上の書類に目を落としているところだった。

「あぁ、もう仕事は終わったのか?」

 そう言ってこちらを見上げるシェイドに頷いて、ペーレウスは軽く笑った。

「明日出来る仕事は全部明日に回してきた。……まだ、かかりそうか?」
「こちらから誘っておいたのにすまないな……もう少しかかりそうだ。……そうだ、悪いが待ってもらうついで、ひとつ頼まれごとをしてもらえないか? 図書館へ行ってこれを確認してきてほしいんだ」

 シェイドはそう言いながらペンを走らせると、ペーレウスに一枚のメモを手渡した。それには本の分類ナンバーとページ数が記されていた。

「……? ただ待っているのも何だし、別にいいけど……この本のこのページを見てくればいいのか?」
「あぁ、そこに記されている内容を確認してきてくれればいい。それさえ分かれば、今日の業務は終了だ」
「そっか。しょうがねーな、行ってくるから後で一杯おごれよ」
「すまないな……あぁ、ペーレウス!」

 執務室から出て行きかけたペーレウスをシェイドが呼び止めた。

「うん?」
「……あまり待たせるなよ」

 シェイドは微かに口角を上げて笑ったようだった。その矛盾した物言いにペーレウスは眉をしかめてみせたのだが、軽く頷いただけで何も言わずに執務室を後にした。

 シェイドは意味のないことを言う男ではない。これまでの付き合いからこのメモには何かしらの意図があるのだろうと考えて、あえて言及はせずに図書館へと向かったのだ。

「えーと、この分類ナンバーだと四階西側のブロックか……」

 ぶつぶつと声に出しながら、ペーレウスはメモに書かれた本を探して整然と並べられた蔵書の山に視線を走らせた。鉱石や金属に関する書物の集められたブロックだ。

「-----あ、あった。これか」

 ややしてメモと一致する分類ナンバーの本を見つけ、それに手を伸ばしかけたペーレウスは、その背表紙に見覚えがあることに気が付いて動きを止めた。

「これは……」

 それは何年か前、月長石の持つ意味を調べる為にペーレウスが手に取った本だった。

 まさかと思いながらメモに指定されたページを開くと、そこはやはり月長石のページだった。

「……。シェイド……」

 ペーレウスは親友の名を呟いた。彼の意図は明白だった。

 初任務から帰還した後、月長石の持つもうひとつの意味を調べたことをペーレウスは彼に話していなかった。何となく照れくさかったのと、からかわれそうだとも思ったからだ。

 様々なことが重なった時期でもあったことから、シェイドはあれからペーレウスが月長石の意味を調べていないものと考えたのだろう。

 そしておそらくは、ここ最近ペーレウスがテティスのことで思い悩んでいることに気が付いていたのに違いない。

 だからこうして、彼は自分の背中を押してくれたのだ。

 ペーレウスが図書館からシェイドの執務室へと戻ってみると、予想通り、既にそこに彼の姿はなかった。



*



 浄化の祈りが、魔法の灯りで映し出された薄暗い石造りの部屋に響き渡る。

 部屋の中央に位置する台座には漆黒の宝玉が収められ、その周囲には強力な破邪の結界が張り巡らされている。

 その結界を浸潤せんとする、宝玉から溢れ出る負のチカラ。

 その結界に力を与え、負のチカラを抑え込む特務神官達の祈りの言葉。



 禍々しくも美しい漆黒の宝玉の名は、『真実の眼』。



 魔法王国ドヴァーフに代々伝わる、古(いにしえ)の秘宝-----。



*



 薄暗い石造りの部屋から出た後は、外の空気がひどく清々しく感じられる。

 浄化の祈りを捧げ終わったテティスは大きく深呼吸をして、宵闇が迫る空の下、肺に清浄な空気を吸い込んだ。

「お疲れ様」

 そんな彼女の背後から同僚の女性神官が話しかけてきた。

「いつものことながら、貴女の祈りはレベルが違うわね。ここまで差があると、嫉妬を通り越して素直に感嘆しちゃうわ。祈りを捧げている最中の貴女からは、まるで聖なる光が迸(ほとばし)るよう……とても神聖で、尊い存在に感じられるわ」
「ほめすぎよ」

 軽く笑っていなそうとするテティスに歩み寄り、女性神官はこう尋ねた。

「貴女のその能力(チカラ)は天からの授かりものよ……ねぇ、噂で聞いたんだけど……お見合いするって本当? もし結婚することになったら、神官を辞めてしまうの? だとしたらとてももったいないと思うのだけれど……」
「どこから聞いてきたの?」

 テティスはほろ苦く笑った。まったくもって、こういう噂は広がるのが早い。

 彼女が見合いを勧められているのは事実だった。神官達の長である神官長が有力貴族から縁談の話を持ち込んできてしまったのだ。

 これまでもこういう話がなかったわけではない。美しい容姿を持つ彼女に惹かれる男は少なくはなかった。この類の話が持ち上がる度にテティスはその全てを断ってきたのだが、26歳という年齢になったこともあり、利権が絡んだ縁談話ということもあって、今回は断るのになかなか苦労していた。

 25を過ぎて独身でいる女性は城内にはほとんどいない。神官長もその辺りを押してテティスを説得にかかっていた。

 相手は身分も家柄も申し分のない有力貴族の御曹司だ、定まった相手がいるわけでないのなら、一度会ってみるだけでもどうだ-----。

 先日の神官長の言葉が耳に甦る。

 テティスには確かに、定まった相手がいるわけではない。だが、想いを寄せている相手はいた。

 その人物は彼女に対して、特別な好意を見せてくれているわけではない。待ち続けて、応えてもらえる保証はどこにもなかった。

 けれど-----。

「その話を受けるつもりはないわ。でも、いつか結婚したのなら、わたしは家庭に入りたいと思っているけれど」

 それはテティスの小さな夢だった。夫となる人と子供と、慎ましくささやかでもいい、幸せな家庭を築き穏やかに暮らしたい。少女時代には叶わなかった願望をテティスは自らの夢に思い描いていた。

 -----夢は、夢のままで終わるのかもしれないけれど……。

 密かに嘆息し、テティスは夜の色合いを濃く増していく空を見上げた。緩やかな風が彼女の長いアマス色の髪を揺らし、何かを語りかけるかのように静かに吹き抜けていく。

 今晩は満月だ。

 千騎隊長に就任して最近とみに忙しいあの人は-----今日は、あの場所に来てくれるだろうか-----。



*



 満月の柔らかな光が、地上を仄(ほの)かに照らし出す。

 いつものように夜着の上に上掛けを羽織った姿で、テティスは噴水の縁(へり)に座りぼんやりと夜の中庭を眺めていた。最近は一人でいると、色々なことを考えすぎてしまう。今夜は何となく、美しい月夜を楽しむ気分にはなれなかった。

 その時、微かに草を踏む音がした。ふと顔を上げると、暗闇の中こちらに歩み寄ってくる、もはやなじみとなった長身のシルエットが目に入る。自然と彼女の口元はほころんだ。

「ペーレウス-----」

 笑顔になりかけたテティスは、いつもとは違う彼の装いに気が付いて薄紅色の唇を止めた。

 月明りの下に現れたペーレウスは平服ではなく、騎士の正装を身に纏っていた。

「ペーレウス……?」

 何故彼がこんな格好をしているのか-----不思議に思いながらテティスは立ち上がり、目の前で歩みを止めた青年の精悍な顔を見つめた。

 月下で初めて目にする甲冑姿のペーレウスは息を飲むほど凛々しく、彼女の鼓動をひどく不規則にさせた。彼が纏う藍色の外套は、千騎隊長職にある者の証だ。

 もしかして、この晴れ姿を見せる為に彼はこんな格好をしてきてくれたのだろうか-----?

 テティスがそんなことを思った時だった。ペーレウスが懐から何かを取り出し、それをゆっくりと口にくわえた。

 テティスは驚きに目を見開いた。

 それは、月長石のペンダントだった。その月長石はずいぶん前、彼女がお守りにと彼に手渡したものだった。

 ペーレウスはそれをペンダントにし、ずっと身に着けてくれていたのだ。

 だが、テティスの驚きはそれだけにとどまらなかった。

 月長石を口に含む、という行為の意味を彼女は知っていた。満月の夜に月長石を口に含んで願い事をすると、それが成就するという言い伝えがあるのだ。

 ペーレウスにはどうやら叶えたい願い事があるらしい。それがいったい何なのか-----胸の奥深くが疼くような、身構えたくなるような、期待と不安とが交錯する何とも言えない気持ちになりながら、テティスはじっと彼の言葉を待った。

 ペーレウスは深い感情で揺れる黒茶色(セピアブラウン)の瞳をテティスに向けたまま、しばらく沈黙したのち、静かに口を開いた。



「オレと-----結婚してほしい……」



 長い沈黙の後にペーレウスから告げられたのは、求婚の言葉だった。

 あまりにも突然の、そして予想外の申し出に、テティスは言葉を失った。

 宝玉のような翠緑玉色(エメラルドグリーン)の双眸を瞠り、立ち尽くす彼女を真摯な眼差しで見つめ、ペーレウスは唇から月長石を離しながら、彼女に自らの想いを伝えた。

「ずっと、貴女のことが好きだった……けれど、ずっとそれを伝えることが出来なかった。オレには地位も名誉も何もなくて-----あるものといえば、この剣だけで……。だから、この剣でしっかりと両足をついて立っていると自分に自信を持って言えるようになるまで、貴女にこの気持ちを伝える資格はないと思っていた……。けれど少しずつ実績を積み重ねて、今ようやく、貴女と向き合えるところまで来たと思える自分がいる」

 黒茶色(セピアブラウン)の真っ直ぐな瞳が強い煌きを放って、テティスの心の奥深くまで照射する。



「テティス、貴女を愛している。オレと生涯を共にしてほしい」



 言葉に出来ない想いが、溢れる。

 迸(ほとばし)る感情に突き動かされるまま、テティスは腕を伸ばしてペーレウスに抱きついていた。

 考えるよりも先に、身体が動く-----こんな衝動は生まれて初めてだった。

「ペーレウス……」

 彼の胸に頬を寄せ、その名を紡いだテティスの声は喜びの涙に濡れていた。ペーレウスに抱きついた時初めて、テティスは自分がどれだけこの騎士を求めていたのかを知った。

「テティス……」

 思いがけないテティスの行動に目を見開いていたペーレウスは、やがてその瞳を細めると、腕の中の細い身体をそっと抱きしめた。彼の広い胸に包まれて、テティスはこれまで胸の中に渦巻いていた様々な重苦しい感情が嘘のように溶けていくのを感じた。代わりに、大きな安堵と満ち満ちる喜びが彼女の胸に広がっていく。

「まいったわ……こんなに貴方のことが好きだなんて、知らなかった」

 ペーレウスの胸に額を押し付け、テティスは涙を拭いながらそう呟いた。

「夢……じゃ、ないよな」

 押し殺しきれない感情の昂りにわずかに声を震わせながら、ペーレウスは腕の中の温もりを確かめるようにしてもう一度テティスを抱きしめ直し、彼女のアマス色の髪に頬を埋めた。

「わたしが聞きたいわよ……夢じゃ、ないわよね……?」
「あぁ……夢じゃ、ない……」

 かみしめるようにして頷いたペーレウスの片手がテティスの背を上にそっと滑り、なだらかな肩のラインをたどって、優美な曲線を描く彼女の頬に触れる。柔らかなその感触を掌で包み込むようにして優しくその顔を上げさせると、吸い込まれそうな輝きを放つ翠緑玉色(エメラルドグリーン)の双眸が遠慮がちに彼の瞳を捉えた。

 ペーレウスの胸に深い感慨が去来する。

 あの夜、月の魔力に囚われてから、どれだけこの美しい女性のことを想ってきただろう。満月の夜の月光浴を心待ちにしながら、どれほど自分を制してきたことだろう。

 だが、今こうして彼女の瞳を見つめて、思う。それはきっと彼女も同じだった。同じ想いで-----何も言わず、ずっと、こちらの準備が整うのを待っていてくれたのだ。

 一見簡単なことのように思えるが、妙齢の女性にとってそれは、なかなか出来ることではないだろう。それを為せる彼女の聡明さに、さらなる愛しさが溢れた。

 ペーレウスのそんな想いがテティスにも伝わったのだろうか。二人は見つめ合いながら、どちらからともなく柔らかく微笑んだ。

 自然と互いの顔が近づいていき、そして-----微かに頬を上気させたテティスがペーレウスに全てを委ねて、瞼を閉じる。

 寄り添うふたつの影が深く重なったその間で、月明りを受けた月長石のペンダントが淡い輝きを放った。

 降り注ぐ満月の光の下で願いは成就し、ここにひと組の夫婦が誕生したのだった-----。



*



 ペーレウスとテティスとの婚姻の知らせは、センセーショナルに城内を駆け巡った。

 挙式は王城の大聖堂で執り行われ、シェイドやマルバスらに祝福され見守られる中、二人は正式に夫婦となった。

 ドヴァーフで一番美しいと謳われる花嫁の婚礼に、多くの独身男性達が涙を流したと言われている。



 -----そして、一年余りが過ぎた頃。



 二人は新しい生命を授かった。

 元気な産声を上げた男の子は目鼻立ちがペーレウスに似て、髪や瞳はテティスの色合いをそのまま受け継いでいた。

 アキレウスと名づけた我が子との三人での生活が始まり、父親となったペーレウスはこれまで以上に精力的に職務に取り組み、母親となったテティスは育児をしながら内助の功で夫を支え、労わった。

 何もかもが初めて尽くしの親子三人の生活は戸惑うことも多かったが、穏やかに流れていく優しくて温かな毎日は、テティスが夢見た幸せな家族の生活そのものだった。



 やがて、幾つもの月日が流れたある年の終わり-----国王オレインは高齢となった現騎士団長と現魔導士団長に変わる新たな人材の擁立に合わせ、主だった人事を見直し刷新する大胆な変革を打ち出した。

 その発表を受けた城内には激震が走った。

 新たな騎士団長に任命されたのは、現千騎隊長職にあるペーレウス-----平民出の、魔力を持たない異端の騎士だったのだ。

 誰もが想像だにしていなかった、未曾有(みぞう)の大抜擢だった。それは、魔法王国ドヴァーフの長い歴史に一石が投じられた瞬間でもあった。

 対をなす要職である魔導士団長には現魔導士団副団長を務めるシェイド・ランカートが任命された。

 当時の記録としては最も若い騎士団長と魔導士団長の誕生である。

 国民達はその知らせに驚嘆し、沸き返った。

 自分達と同じ平民の出で、しかも魔力を持たないという先天的なハンデを負ったペーレウスが、騎士団長という騎士の最高位に就いたのである。不可能を可能にし、剣の腕一本で騎士の最高位にまで昇りつめたペーレウスを彼らは稀代の英雄と称え、惜しみのない賞賛の声をこの鋼の騎士に贈った。

 生まれや魔力の有無に、人生の全てが左右されるわけではない-----人々はペーレウスという偶像に自身を投影し、そこに大いなる希望と可能性とを見い出したのだ。

 ペーレウスを騎士団長に任命した国王オレインも、空前絶後の大英断を行った不世出の王として、国民達の間でもてはやされた。



 そして翌年-----王城で執り行われた任命式にて、ペーレウスは国王オレインより正式に騎士団長の職を賜り、ここにドヴァーフ史上類を見ない、異色の騎士団長が誕生したのである。



 この時、ペーレウス30歳。

 波乱含みの幕開けとなった、騎士団入団11年目の年明けであった-----。
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